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ゲレセンジェモンゴル語: Гэрсэнз中国語: 格哷森札1482年[1] - ?)とは、モンゴル大ハーンであるバト・モンケ(ダヤン・ハーン)の子供の一人。外ハルハ諸部の始祖となったことで知られる。

アルタン・ハーン伝』ではゲレセンジ(Geresenǰiとも表記され[2]、「ジャライル・ホンタイジ(J̌alayir qongtayiǰi/жалайр хунтайж」とも称される。

概要編集

ダヤン・ハーンとその側室ジャライルのスミル・ハトンの間の息子として生まれた。同母兄弟にはウルウトを統治したゲレ・ボラトがいる。

ゲレセンジェは外ハルハ諸部の始祖となったことで知られるが、『アサラクチ史』や『シラ・トージ』といったモンゴル年代記には「ゲレセンジェが7ホシグ(=外ハルハ)に座した事情」が述べられている。これらの年代記よると、ハルハ・トゥメンに属するチノス部のウダ・ボラトがある時ダヤン・ハーンに「今ハルハはジャライルケルートのシグチたちに支配されている。我らの主とすべき[ダヤン・ハーンの]息子を一人下さい」と陳情したため、ダヤン・ハーンは当初ゲレ・ボラトをハルハに与えた。しかし、ゲレ・ボラトは性格が強情であったためダヤン・ハーンの下に送り返され、その後改めてゲレセンジェがハルハに連れてこられ、ハルハの主になったという[3]

ハルハ・トゥメンには内ハルハと外ハルハという二大勢力が存在するが、上述した逸話には内ハルハが一切登場しないため、この頃既に両勢力は分裂状態にあったと見られる[4]。内ハルハ5部はゲレセンジェの兄アルチュ・ボラトが相続している。

また、この逸話からジャライルとケルート、特にジャライルが外ハルハにおいて有力なオトクであったことが読み取れる。

脚注編集

  1. ^ 『蒙古源流』の記述に拠る(岡田2004,239頁)
  2. ^ 吉田1998,233頁
  3. ^ 『シラ・トージ』はこの間の事情を『アサラクチ史』をよりも詳しく述べており、ゲレセンジェがハルハに連れて帰られた時、臣下の一人が「ハーンは恵んで自分の子を賜ったのに、逆に戻してきて、今どうして密かに盗んでゆくのか。追って[捕まえて]処罰しよう」と述べたが、ダヤン・ハーンは「[その子を]奴隷として使うのではないので連れて行くがよい」と述べてゲレセンジェがハルハに往くのを許したという(森川2007,301-303頁)。
  4. ^ 森川1972,51-52頁。

参考文献編集

  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 森川哲雄「ハルハ・トゥメンとその成立について」『東洋学報』55巻、1972年
  • 森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年
  • 吉田順一『アルタン・ハーン伝訳注』風間書房、1998年