コーベル・レオー(Kóber Leó、1876年9月24日 - 1931年9月17日)はハンガリー人の両親を持つ画家、イラストレーターである。パリニューヨークでも挿絵画家として活動した。

コーベル・レオー
Kóber Leó
作者不詳の肖像画(1904年か1905年)
誕生日 1876年9月24日
出生地 ブルノ
死没年 1931年9月17日
死没地 ニューヨーク
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略歴 編集

現在のチェコのブルノにハンガリー人両親のもとに生まれ、子供時代にハンガリーに移った[1]。1893年から1896年までウィーン美術アカデミーで絵を学んだ後、ミュンヘンに移り、ミュンヘン美術院で歴史画家のハックル(Gabriel von Hackl)に学んだ[2]。ミュンヘンには1899年まで滞在し、ミュンヘンで私立学校を開いていたハンガリー人画家、ホローシ・シモンの学校でも学んだ。ホローシの学生とハンガリーのナジバーニャ(Nagybánya:現バヤ・マレ)で活動し、展覧会に作品を出展し、1899年にはハンガリー全国展(Nemzeti Szalon)に作品を出展した[3]

1900年までにはパリに住むようになり商業美術の分野で働き、「ル・リール」や「ラシエット・オ・ブール」といった風刺雑誌に挿絵を描くようになった。1906年からはウィーンやブダペストで活動し、ウィーンの雑誌「Die Muskete」やハンガリーの風刺雑誌に挿絵を描いた。1907年にブダペストの画廊で個展を開き、ポスターやパリの風景、余暇を過ごす人々を描いた作品を展示した。1911年にも展覧会を開き、1916年には戦争に関する作品を展示し、その後、戦争による孤児の支援などのための活動をした[4]

1921年にアメリカ合衆国に移り、「ニューヨーク・ワールド」や「ニューヨーク・タイムズ」の挿絵画家として働き、良い収入を得たが、芸術的な仕事から遠ざかったことに不満を抱いていた。書籍の挿絵も描いた。ニューヨークで亡くなった。

作品 編集

参考文献 編集

  1. ^ (hu) Péter Ujvári (dir.), Magyar zsidó lexikon [« Encyclopédie juive hongroise »], Budapest,‎ , 1028 p. (lire en ligne), p. 492.
  2. ^ Tiberiu Alexa, « Leo Kober » , sur Centrul artistic Baia Mare, 26 octobre 2012}
  3. ^ Antal Jánoska, « Kóber Leó művészete » [« L'art de Leó Kóber »], Magyar Grafika, Budapest, Papír- és Nyomdaipari Műszaki Egyesület, vol. 49, no spécial « Flexó », 2005, p. 77-79 (ISSN 0479-480X, lire en ligne [archive]) = En allemand : (de) Antal Jánoska et Ferenc Horváth, « Die Kunst von Leó Kóber », Talon, Österreichisch-ungarischer Spielkartenverein Wien/Budapest, vol. 12, 2003, p. 17-26 (OCLC 314406279, .
  4. ^ Zoltán Farkas, « Kóber Leó kiállítása » [« L'exposition de Leó Kóber »], Vasárnapi Ujság, Budapest, vol. 58, no 46, 12 novembre 1911, p. 922.