ゴーハイ太尉(モンゴル語: Γooqai dayu,中国語: 浩海達裕,? - 1399年)とは、北元エルベク・ハーンに仕えたオイラト部族連合の首長の一人で、チョロース部を支配していた。後にモンゴリア全域を支配下に置いたエセン・ハーンの曾祖父に当たる。モンゴル語での表記に従って、ゴーハイ・ダユウとも表記される。

概要編集

モンゴル年代記の1つ『蒙古源流』によると、ゴーハイ太尉は「オイラトのジャハ・ミンガン」の出で、「オイラトのケレヌート」のオゲチ・ハシハの部下であったという。

ある時、エルベク・ハーンが「雪のように肌が白く、血のように頬の赤い女性はいないものか」とゴーハイ太尉に尋ねた所、ゴーハイ太尉はエルベク・ハーンの弟ハルグチュク・ドゥーレン・テムル・ホンタイジの妃オルジェイト皇后こそそのような美貌の持ち主です、と答えた。そこでエルベク・ハーンはゴーハイ太尉をオルジェイト皇后の下に派遣して自らの妻になるよう伝えさせたが、オルジェイト皇后は怒ってそのような道理に背く行為はできないと拒絶した。

これを聞いて怒ったエルベク・ハーンは弟ハルグチュクを待ち伏せして殺してしまい、オルジェイト皇后を力ずくで自らの妻とした。一連の功績でゴーハイ太尉は丞相(čingsang)の称号を授けられることになったが、ゴーハイ太尉を深く恨むオルジェイト皇后はその最中ゴーハイ太尉を陥れようと目論んだ。オルジェイト皇后はゴーハイ太尉を自らの家に招いて酔いつぶし、自らの体を傷つけてゴーハイ太尉が自身を襲ったように見せかけた。この様子を見たエルベク・ハーンは激怒し、逃げ出したゴーハイ太尉を追いかけて殺してしまった。

エルベク・ハーンがゴーハイ太尉の背の皮を剥がしてオルジェイト皇后の下に帰ると、オルジェイト皇后は皮の脂を舐めて一連の事件はゴーハイ太尉に復讐を果たすため自身が仕掛けた謀略であることを伝え、我が身をどうとでもせよと迫った。しかしオルジェイト皇后の色香に迷ったエルベク・ハーンは皇后を処罰することができず、また「不当にゴーハイ太尉を殺してしまった」と反省し、ゴーハイ太尉の息子バトラ丞相に自らの娘サムル公主を娶せ、ドルベン・オイラト(オイラト部族連合)を率いさせた。しかし、このようなバトラ丞相の優遇にオゲチ・ハシハは怒り、最終的にオゲチ・ハシハの手によってエルベク・ハーンは殺されてしまった。

いっぽう、もう一つのモンゴル年代記『アルタン・トプチ (著者不明)』は『蒙古源流』とよく似た物語を伝えつつも、エルベク・ハーンを殺したのはオゲチ・ハシハとバトラ丞相の二人である、サムル公主が登場しないといった、『蒙古源流』とは異なる記述をしている。著者不明『アルタン・トプチ』の方が『蒙古源流』よりも成立年代が古いこと、『蒙古源流』は複数の伝承を掛け合わせた痕跡があることなどから、実際には『アルタン・トプチ』の方が物語の原型に近いのではないかと推測されている[1]

ブヤンデルゲルはエルベク・ハーンを巡る一連の抗争を親アリク・ブケ家派のケレヌート(オゲチ・ハシハ、エセク)と親クビライ家派のチョロース(ゴーハイ太尉、バトラ丞相)の抗争と捉え、ゴーハイ太尉の擁立したエルベク・ハーン(クビライ家)の存在に不満を覚えたオゲチ・ハシハがエルベク・ハーンを殺害してアリク・ブケ家のクン・テムルを擁立したのだと解釈した。 [2]

オイラト・チョロース首領の家系編集

  1. ゴーハイ太尉(Γooqai dayu)
  2. バトラ丞相/順寧王マフムード(Batula čingsang/順寧王馬哈木Maḥmūd)
  3. トゴン太師Toγon Tayisi/太師順寧王脱歓Toγon
  4. エセン太師/エセン・ハーンEsen Qaγan/太師淮王中書右丞相也先Esen)
  5. オシュ・テムル太師(Öštömöi dar-xan noon/瓦剌太師阿失帖木児Öštemür)
  6. ケシク・オロク(Kešiq öröq/瓦剌虜酋克失Kešiq)

脚注編集

  1. ^ 岡田2010,257-266頁
  2. ^ Buyandelger2000,146-147頁

参考文献編集

  • 井上治『ホトクタイ=セチェン=ホンタイジの研究』風間書房、2002年
  • 岡田英弘訳注『蒙古源流』刀水書房、2004年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • 宝音德力根Buyandelger「15世紀中葉前的北元可汗世系及政局」『蒙古史研究』第6辑、2000年