ジャン=アントワーヌ・カレル

ジャン=アントワーヌ・カレル(1829年ー1891年8月、アルピタン語:Jean-Antoine Carrel)は、後にイタリアへ編入されるヴァッレ・ダオスタで生まれの登山家・登山ガイドであった。彼はエドワード・ウィンパーと共に登ったこともあり、マッターホルン初登頂のライバルでもあった。最終的にウィンパーは1865年7月にマッターホルンの初登頂にスイス側から成功し、カレルはその3日後にイタリア側からグループを率いて2番目の登頂を達成した[1]。ウィンパーは『アルプス登攀記』にて「カレルこそマッターホルン初登頂に相応しい人物だったが、彼は母国イタリア側からの登頂にこだわり過ぎた」と評している。

ジャン=アントワーヌ・カレル(エドワード・ウィンパー『アルプス登攀記』の挿絵)
カレルの記念碑(マッターホルンのイタリア側からの登山路の途中に設置)

カレルはまた、1880年に南米アンデス山脈チンボラソ山に初登頂した最初のヨーロッパ人グループの一員でもあった[2]。マッターホルンの南側(イタリア側)からグループのガイドを務めた時に、下山中に悪天候に遭い、グループを安全に送りだしたあとに、山中で疲れ果てて亡くなっている。

参照項目 編集

脚注 編集

  1. ^ マッターホルンに行こう!観光・登山への行き方、登山史まとめ(Yama Hack)
  2. ^ Charles Gos著 (1948):「Carrel the Great: Alpine Tragedy」(Malcolm Barnes訳、Charles Scribner's Sons出版) pp. 218–228

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