ジョルジ・アルヴァレス

ジョルジ・アルヴァレス (ポルトガル語: Jorge Álvares 1521年7月8日没) は、大航海時代ポルトガル人探検家喜望峰周りの海路から、ヨーロッパ人として初めて中国に到達した。

ジョルジ・アルヴァレス
マカオに立つジョルジ・アルヴァレスの像
生誕 不明
フレイショ・デ・エスパダ・ア・シンタ, ポルトガル王国
死没 1521年7月8日
タマン,
国籍 ポルトガル人
職業 探検家
著名な実績 大航海時代にヨーロッパ人として初めて喜望峰まわりの海路から中国に到達
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中国遠征

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1513年5月、アルヴァレスはポルトガル領マラッカの提督ルイ・デ・ブリート・パタリンに従い、ジャンク船に乗ってバゴーから中国へ向け出発した。この艦隊は計6隻のジャンク船からなり、アルヴァレス自身も2人のポルトガル人水夫を従えていた[1]

1513年5月、アルヴァレスは中国南岸の広州に近い島に上陸した[2]。この島はポルトガル側からタマンと呼ばれたが、その正確な位置は珠江デルタ内にあったということしかわかっておらず、ランタオ島内伶仃島などに比定する説がある。ここでアルヴァレスは、ポルトガル王から与えられたモニュメントを建てた[1]。彼らは中国人との貿易を望んだが、この時はうまくいかなかった。その後、インド総督アフォンソ・デ・アルケブルケラファエル・ペレストレーリョクリストファー・コロンブスの従弟)を中国に送り[3]、明との通商関係構築を図った。ペレストレーリョは1516年に広州に上陸した[3]

アルヴァレスは1513年から1514年にかけてタマンを貿易拠点として整備するのに力を注いだ[4]。彼は1521年7月8日、タマオにおいて親友ドゥアルテ・コエーリョに看取られながら死去した[5]

同姓同名の人物

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1511年から1550年にかけて東アジアで活躍し、文献に登場するJorge Álvaresという氏名の人物は4人いる。1546年に日本を訪れ、その後フランシスコ・ザビエルに日本人ヤジロウを紹介し日本での宣教を勧めたポルトガル人貿易商人にして船長のアルヴァレスは、本項の探検家アルヴァレスの没後の時期であることからも分かるように同姓同名の別人である。[6]

脚注

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  1. ^ a b Porter, Jonathan. [1996] (1996). Macau, the Imaginary City: Culture and Society, 1557 to the Present. Westview Press.
  2. ^ Edmonds. [2002] (2002) China and Europe Since 1978: A European Perspective. Cambridge University Press. ISBN 0-521-52403-2
  3. ^ a b Brook, 124.
  4. ^ Ride, Lindsay. Ride, May. Fairbank, John K. The Voices of Macao Stones: Abridged with Additional Material by Jason Wordie. Hong Kong University Press. ISBN 962-209-487-2
  5. ^ Braga, J. M. (May 1939). “The "Tamao" of the Portuguese Pioneers”. Tien Hsia Monthly VIII (5): 423. 
  6. ^ 岸野久『西欧人の日本発見 -ザビエル来日前日本情報の研究-』吉川弘文館、1989年、47頁。ISBN 4-642-02630-4 

参考文献

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  • Brook, Timothy. (1998). The Confusions of Pleasure: Commerce and Culture in Ming China. Berkeley: University of California Press. ISBN 0-520-22154-0 (Paperback).

関連項目

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外部リンク

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