ステパニ公ロシア語: Князь Степаньский)はステパニ公国の君主の称号である(「公」は「クニャージ」からの訳出による)。公位・公国の名は、その中心都市だったステパニによる。公と公国に関する史料はきわめて少なく、不明な点が多い。

ステパニ公の一覧

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ロスチスラフ - 在位:1220年代
おそらく父称はグレボヴィチ[1][2][3]とみなされている。一方、ピンスク公ロスチスラフ・スヴャトポルコヴィチと同一人物とみなす説もある。
グレプ・ロスチスラヴィチ - 在位:? - ?
上記のロスチスラフの子とみなされているが、アレクサンドロヴィチ(アレクサンドル・グレボヴィチの子)という説もある[4]
イヴァン・グレボヴィチ - 在位:? - 1289年/1290年
上記のグレプの子。
ウラジーミル・イヴァノヴィチ - 在位:1289年/1290年 - ?
上記のイヴァンの子。『イパーチー年代記』に、イヴァンが死にその子のウラジーミルが後を継いだことが記されている(この間不明)
セミョーン - 在位:? - 1387年 - ?
上記のウラジーミルの孫とする説[4]ナリマンタスの孫とする説[5]がある。

出典

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  1. ^ Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — Т. 1. — С. 284.
  2. ^ Коган В.М., Домбровский-Шалагин В.И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод. — С. 578.
  3. ^ Рыжов К. Все монархи мира. Россия. — М.: Вече, 1998. ,p533
  4. ^ a b Войтович Л.КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
  5. ^ Нарбут А.Н. Генеалогия Белоруссии. Выпуск 2. — М., 1994. ,С. 79.