デリー包囲戦 (1804年)
デリー包囲戦 (デリーほういせん、英語:Siege of Delhi)は、1804年10月8日から10月19日にかけて、ホールカル家とイギリス東インド会社との間で行われた第二次マラーター戦争の戦いの一つ。
デリー包囲戦 Siege of Delhi | |||||||
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第二次マラーター戦争中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
マラーター同盟 *ホールカル家 | イギリス東インド会社 | ||||||
指揮官 | |||||||
ヤシュワント・ラーオ・ホールカル | ジェラルド・レイク | ||||||
戦力 | |||||||
80,000人以上 大砲200門 | 2,500人 | ||||||
被害者数 | |||||||
甚大 | 不明 |
戦闘
編集1804年10月8日、ヤシュワント・ラーオ・ホールカルはムガル帝国の首都デリーを包囲、攻撃した。これは1803年9月以降、イギリスのもとで年金生活者として生活していた皇帝シャー・アーラム2世を解放するためであった。
ホールカル家の軍は歩兵15,000あるいは16,000、騎兵65,000、大砲200門で構成されており[1][2]、デリーを守るイギリスの守備隊2,500に対して攻撃を仕掛けたが、守備隊は持ちこたえた。その間、ジェラルド・レイクが軍をひきいて向かっていたが、ヤシュワント・ラーオはその軍はるか後方にいると信じて疑わなかった。
そして、同月15日の明け方にホールカル軍はジェラルド・レイクの奇襲を受け、壊滅的な打撃をうけた。ホールカル家の軍勢はジェラルド・レイクの追撃にあって、多くが討ち死にし、ヤシュワント・ラーオは何とか逃げた。
19日、ヤシュワント・ラーオはデリーから全面的に撤退した[2]。けれども、シャー・アーラム2世はヤシュワント・ラーオの武勇を褒め称えたという。