鄧 泰中(とう たいちゅう、1886年 - 1927年6月19日)は清末中華民国の軍人。もともとは滇軍(雲南軍)指揮官の1人で、後に孫文(孫中山)の側近となった。和卿

鄧泰中
プロフィール
出生: 1886年光緒12年)
死去: 1927年民国16年)6月19日
中華民国の旗 中華民国南京市
出身地: 雲南省東川府会沢県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 鄧泰中
簡体字 邓泰中
拼音 Dèng Tàizhōng
ラテン字 Teng T'ai-chung
和名表記: とう たいちゅう
発音転記: トン タイチョン
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事迹 編集

鄧泰中は若年時代に日本に留学し、東斌学堂で学んだ。1905年光緒31年)、中国同盟会に加入している。帰国後、新軍第19鎮排長に任ぜられた。1911年宣統3年)、昆明重九起義(雲南辛亥革命)に参加している。1915年民国4年)12月、護国戦争が勃発すると、鄧は護国軍第1軍第1梯団第1支隊長に任ぜられた。翌年、この時の軍功により旅長に昇進している。

1920年(民国9年)12月初めに、鄧泰中、楊蓁金漢鼎らの雲南軍指揮官は、雲南軍の最高指導者である唐継尭に不満を抱き、秘密裏に集会を開いた。鄧は元々唐と同郷であり、私的にも関係は良好であった。しかしこの時に鄧が唐の打倒を決然と主張したことにより、会議では兵変の速やかな発動が決議されている。そして楊が、自身の上司である靖国軍第1軍軍長顧品珍に対して、軍を返して昆明を攻めるよう勧めた[1]。翌年2月、顧、鄧、楊、金らは兵変を発動し、不意を衝かれた唐は香港へ逃亡、これにより顧が雲南を統治することになる。

同年、鄧泰中は孫文の下に転じ、援桂総司令に任命された。1922年(民国11年)、鄧は部隊を率いて陳炯明を討伐し、後に雲南軍の将領と連名で、孫文に広東へ戻って政権を掌握するよう要請する電文を打った。翌年4月から5月まで、陸海軍大元帥府高級参謀をつとめ、まもなく広州大本営軍政部次長に転じた。後に、四川宣慰使をつとめ,陸軍上将に昇進している。

1927年(民国16年)6月19日[2]、鄧泰中は国民政府代表に任命され、船に乗って九江へ向かった。しかし、船は南京の川面で日本の商船「南洋丸」と衝突して沈没、鄧は水死した。享年42。

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  1. ^ 余応彬『黒紅門 滇系軍閥全伝』136頁。
  2. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2377頁による。『雲南辞典』622頁は「1928年」としている。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 雲南辞典編輯委員会編『雲南辞典』雲南人民出版社、1993年。ISBN 7-222-01264-8 
  • 余応彬『黒紅門 滇系軍閥全伝』団結出版社、2002年。ISBN 7-80130-552-3