ドノルド・ブラッドフォード・ラウリー

アメリカ合衆国の実業家

ドノルド・ブラッドフォード・ラウリー(Donold Bradford Lourie, 1899年8月22日 - 1990年1月15日)は、アメリカ合衆国実業家政治家クエーカーオーツカンパニー社長を長年にわたって務め、その他複数の企業でも幹部を務めた。アイゼンハワー政権では総務担当国務次官。学生時代はプリンストン大学アメリカンフットボールをプレーし、1974年にカレッジ・フットボール殿堂入りした。

ドノルド・ブラッドフォード・ラウリー
ドノルド・ブラッドフォード・ラウリー(1920年)
誕生日1899年8月22日
出身地アラバマ州ディケーター
没日1990年1月15日 (90歳)
死没地イリノイ州ウィルメット
経歴
ポジションクォーターバック
カレッジプリンストン英語版
高校ラサール=ペルー高校英語版
フィリップス・エクセター・アカデミー

生い立ち 編集

1899年8月22日、アラバマ州ディケーターにて誕生。イリノイ州ペルーで育ち、ラサール=ペルー高校英語版を経て[1]フィリップス・エクセター・アカデミーに入学。

アメリカンフットボール 編集

ラウリーは青年時代をアメリカンフットボールに費やし、主にクォーターバックのポジションでプレーした。

高校時代 編集

高校時代は、フィリップス・エクセター・アカデミーの選手としてプレー。1916年11月、伝統のアンドーヴァー戦においては、決勝のタッチダウンを決めた。この試合では第4クォーターの最初のプレーにて、左サイドでエンドゾーンまでの33ヤードの距離を一気に駆け上がり、この試合における唯一の得点を挙げた[2]

大学時代 編集

大学はプリンストン大学に進学し、アメリカンフットボール陸上競技をプレー。陸上競技者としては、イギリスで開催された走幅跳の大会で優勝した[3]。アメリカンフットボール選手としては、1920年のオールアメリカン選手に選出された[4]

1920年のイェール大学戦では勝利の立役者となり、プリンストンの先輩スタン・ケック英語版は「私のキャリアの中で最も興奮する光景がもたらされ、私の心に強く残った」と後に記した[5]。この試合では、プリンストンは苦戦を強いられ3-0で迎えた第2クォーター終了間際のフォースダウン時、イェール大学側40ヤードラインからのフィールドゴールを試みようとした。キッカーにはケックが入り、ホルダーにラウリーが入った。ここでイェール大学の選手がキックをブロックするプレーに入ったため、ラウリーはキッキングのフェイクを行った。ラウリーはボールをそのままキープして走り出した。ケックはラウリーをサポートするブロックに入り、ラウリーはエンドゾーンまで一気に走り抜けた。プリンストンはその後リードを広げ、最終的に20-0で勝利した。プリンストンは1920年のシーズン英語版を6勝1分で制覇した[5]ウォルター・キャンプ英語版はラウリーについて「常人よりもわずかに目立っており、相手のあらゆる弱点を見つけ出した」と述べた[1]

1921年シーズン、ラウリーは怪我のため前半戦を棒に振った[1]。ラウリーは1922年に級長としてプリンストン大学を卒業[6]。彼はNFL加入間もないシカゴ・ベアーズから入団のオファーを受けたが、彼はそれを辞退。母校プリンストンにバックスのコーチとして残った[3]

栄誉 編集

ラウリーはジュニアチームとシニアチームの両方で、ポウ記念杯を受賞した。ラウリーは1948年にプリンストン歴代選手による最高チームのメンバーに選出された[7][6]。1964年にはナショナル・フットボール財団が彼の生涯の功績を讃え、ゴールドメダルを授与した。1974年にカレッジ・フットボール殿堂入り。プリンストン大学は彼の栄誉を讃え、毎年最も優秀な新人に授与するドノルド・B・ラウリー賞を創設した[1]

職業経歴 編集

ラウリーはクエーカーオーツカンパニーに就労。1923年にメアリー・エドナ・キングと結婚し、1男をもうけた[3][8]。ラウリーは1947年にクエーカーオーツカンパニー社長に就任。1953年、ドワイト・アイゼンハワー大統領はラウリーをアメリカ合衆国国務次官(総務担当)に指名。彼はクエーカーオーツを一旦離れ、主に国務省で組織再編について監督する任務を遂行した[3]。クエーカーオーツには1954年に復帰。1956年に最高経営責任者に就任。1961年に会長に就任。また同時期、イリノイ・セントラル・インダストリーズインターナショナル・ペーパーインターナショナル・ハーヴェスターノーザン・トラストでも幹部を務めた。彼は1970年にクエーカーオーツを引退し、フロリダ州ロングウッドに隠居[3]。1990年1月15日にイリノイ州ウィルメットで死去[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e Member Biography: Don Lourie”. College Football Hall of Fame. 2009年6月17日閲覧。
  2. ^ “EXETER HUMBLES ITS ANCIENT RIVAL; Wins Fourth Consecutive Victory Over Andover Through Lourie's Touchdown”. The New York Times. (1916年11月19日). http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9901EEDB1F3FE233A2575AC1A9679D946796D6CF 2011年2月5日閲覧。 
  3. ^ a b c d e “Donold Lourie, 91, A Retired Chairman Of Quaker Oats Co.”. The New York Times. (1990年1月20日). http://www.nytimes.com/1990/01/20/obituaries/donold-lourie-91-a-retired-chairman-of-quaker-oats-co.html 2011年2月11日閲覧。 
  4. ^ All-America Selections. 2008 NCAA Division I Football Record Book. pp. p.221 
  5. ^ a b Don Lourie Surprises Yale”. LA84 Foundation. pp. p.8. 2009年7月17日閲覧。
  6. ^ a b “Lourie Again Awarded Poe Memorial Cup at Princeton”. The New York Times. (1922年11月17日). http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9B04E2DD1638EF3ABC4F52DFB7678389639EDE 2011年2月11日閲覧。 
  7. ^ “Poe Memorial Football Cup Is Awarded to Don Lourie”. The New York Times. (1921年11月4日). http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9B01EFDF1539E133A25757C0A9679D946095D6CF 2011年2月11日閲覧。 
  8. ^ “Paid Notice: Deaths LOURIE, DONOLD K.”. The New York Times. (2008年11月14日). http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F04E5DF103AF937A35752C1A96E9C8B63 2011年2月11日閲覧。 
公職
先代
-
アメリカ合衆国国務次官(総務担当)
1953年2月16日 - 1954年3月5日
次代
チャールズ・エスクリッジ・サルツマン