ドメニコ・モンレオーネ

ドメニコ・モンレオーネ(Domenico Monleone , 1875年1月4日 ジェノヴァ - 1942年1月15日 ジェノヴァ)は、イタリアオペラ作曲家指揮者ピエトロ・マスカーニの名作オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」と同原作・同名のオペラを作曲、上演禁止となったことで歴史にその名前を残した。

人物・来歴 編集

ドメニコ・モンレオーネの父レオナルド・モンレオーネはジェノヴァ市立音楽大学の教師、作曲家、指揮者、楽器販売、コンサート企画者など多才な音楽家で、ヴェルディから尊敬されたほどであった。弟のジョヴァンニ・モンレオーネ (1879-1947)は学者として、またドメニコのオペラ作品の全ての台本を提供した。

ドメニコ・モンレオーネはジェノヴァのパガニーニ音楽高校バイオリンを学び、その後ミラノ音楽院でL.マペリ(L. Mapelli)に師事し、1895年に卒業した。同年ジェノヴァで指揮者としてデビュー、1901年までドイツ、オランダ、コンスタンティノープル、アテネ、ウィーンで、それ以降はイタリア国内で活動した。

もう一つの「カヴァレリア・ルスティカーナ 」 編集

1904年ソンゾォーニョ音楽出版社主催の第4回一幕物のオペラ作曲コンクールに際し、1890年に開催された第2回の同コンクールで圧倒的な第1位を獲得したピエトロ・マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」と同じジョヴァンニ・ヴェルガの原作に基づき、もう一つの「カヴァレリア・ルスティカーナ」を作曲、提出した。コンクール事務局は著作権に関して問題が提起されたため、これを失格とした。

オランダの興行主ミシェル・ド・ホント(Michel De Hondt)が、この落選したモンレオーネの「カヴァレリア・ルスティカーナ」に興味を持ち、1907年アムステルダム国民宮殿で初演した。この公演は成功を収め、同年フランス、ハンガリー、オーストリア、アテネ、コンスタンティノープル、ロンドンで合計25回公演された。この際、全ての公演はマスカーニとセットで(CAVA×CAVA)として上演された。また同年7月10日トリノのヴィットリオ・エマヌエーレ劇場、同月20日にはジェノヴァで再演され、それぞれ大成功を収めた。

ここでマスカーニとソンゾォーニョ出版社は、ヴェルガ、モンレオーネとミラノの出版社プッチョを著作権侵害で訴えた。結果はマスカーニの完勝で、モンレオーネの「カヴァレリア・ルスティカーナ」はこれ以降上演禁止となった。

モンレオーネは別の台本に、彼のカヴァレリア・ルスティカーナの音楽を改作、「ハヤブサの回転木馬」(La giostra dei falchi)として1914年フィレンツェで上演した。 [1]

蘇演を巡る動き 編集

モンレオーネの「カヴァレリア・ルスティカーナ」は上記の理由で長い間上演が禁止されていたが、1996年に著作権侵害の対象であるマスカーニの著作権が切れたことから蘇演されている。 1997年アルバニアのティラナ放送交響楽団、2001年フランスのモンペイエ交響楽団、2006年ハンガリーのブダペスト春期音楽祭で、それぞれ演奏会形式で上演された。 [2]

主要作品 編集

オペラ 編集

  • カヴァレリア・ルスティカーナ(Cavalleria rusticana)1907年5月2日 アムステルダム
  • ボッカッチョの物語(Una novella del Boccaccio)1909年5月26日 ジェノヴァ
  • 英雄の夜明け(Alba eroica)1910年5月5日 ジェノヴァ
  • アラベスカ(Arabesca)1913年11月3日 ローマ
  • ハヤブサの回転木馬(La giostra dei falchi)1プロローグと1幕のメロドラマ – 新しい台本によるカヴァレリア・ルスティカーナの音楽(上記参照)1914年2月18日 ヴェルディ劇場(フィレンツェ)
  • 撤退の音(Suona la ritirata)1916年5月23日 ミラノ
  • ウグイス(Fauvette)1926年2月3日 ジェノヴァ
  • ミステリー(Il mistero)1921年5月7日 フェニーチェ劇場(ヴェネツィア)、1934年にトリノで改訂
  • シャッジョ カンパーニャ(Scheuggio Campaña)1928年 ジェノヴァ
  • レンブラント作「夜警」(La ronda di notte del Rembrandt)1933年 ジェノヴァ
  • 結婚式の夜(Notte di nozze,)1940年9月17日 ベルガモ

出典 編集