ノート:カール・バルト

最新のコメント:4 年前 | 投稿者:豊田忠義

--T-B会話) 2018年9月24日 (月) 15:04 (UTC)1生涯  1.5方法論の確立 2思想と業績--T-B会話2018年9月22日 (土) 08:48 (UTC)返信

   前回の記述を<再推敲>し<再整理>しました。また、(≪≫)書きは、私が加筆したものです。


  この『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記事における、最高度に問題である記述の仕方は、またその記述の内容は、バルト自身の主要著作を精読し理解をしようとする階梯を踏まずに為されているであろう、誤解と曲解と誤謬をともなった短絡的で折衷的雑学的な次のような記述にあると考える。

 以下の引用は、『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』「思想と業績」による―― <新プロテスタント主義から神学的影響を受け、新カント学派から哲学的影響を受ける。牧会に従事しながら聖書の中に証されている言葉を、具体的な人間に対して神の言葉として聞かせるべき、牧師の説教の課題として注釈と宣教の革新が必要であるとした。特に、シュライアマハーによって基礎が据えられ、アルブレヒト・リッチュルによって修正され、アドルフ・フォン・ハルナックの時代にエルンスト・トレルチによってその頂点に達した文化プロテスタント主義(近代主義神学。彼は最初期はこれに帰依していた)に対して猛烈な攻撃を仕掛け、神学のテーマが人間学に解消しているとして、神学の本来のテーマを回復しようとし、「言における神の啓示」(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」冒頭)を主張した。その神学は彼の著書『ローマ書講義』や『福音主義神学』、『教会教義学』という膨大な著書において記されている。彼の思想の変遷を表す著書として『ローマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いたのに反して、『教会教義学』前半では、特に倫理問題を扱うにあたり、「神」よりも「イエス・キリスト」という言葉を多く用いるようになり、キリスト論に彼の神学が集中していった(「キリスト論的集中」)。教父たちから神学思想を引き出しつつ、そこに革命的な新しさを与え、体系を立てた。ただし「キリスト論的集中」は彼の晩年の思想とは異なり、キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻 (IV/3, § 69) などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している。未完の『教会教義学』(Kirchliche Dogmatik, 1932年 - 1968年)は、9,000ページを超える大著であるが、これが未完である事情は単に年齢の問題だけではなく、晩年の書簡の以下のような表現にもうかがわれる。「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」また彼は敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった。したがって、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言えるのである>


(1)この『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、三位一体の神について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならない――聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」(「区別」性)における「三つの存在の仕方」、すなわち「起源的な第一の存在の仕方」であるイエス・キリストの父――この父は、その起源的な第一の存在の仕方において、子として自分を自分から区別するし、自己啓示・自己顕現する神として自分自身が根源である――、それから父が子として自分を自分から区別した「第二の存在の仕方」である子としてのイエス・キリスト自身――起源的な第一の存在の仕方である父から区別された第二の存在の仕方である子は、父が根源である――、それから愛に基づく父と子の交わり(「完全に共存的な関係」)としての「第三の存在の仕方」である「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――「父ト子ヨリ出ズル御霊」としてのこの聖霊は、父と子が根源である――、である内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である。簡潔的に言えば、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、先ず以て、ご自身の中での神(「自己自身である神」)として、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」である(「神の本質の単一性と区別」、神の本質の区別を包括した単一性)。それからまた、この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外的な・外在的なその「失われない差異性」(「区別」性)における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動。父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体)において、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――すなわち啓示者・言葉の語り手・創造主なる神の存在、また第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――すなわち啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)・和解主なる神の存在、また第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」としての聖霊――すなわち啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在、としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体である。このような訳で、このわれわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な父、子、聖霊の三つの存在の仕方の完全性、自存性・独立性(自由性)は、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における「ご自身の中での神」(「自己自身である神」)、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内的・内在的な「三位一体の神」、すなわち「一神」・「一人の同一なる神」の完全性、自存性・独立性(自由性)を根拠としている。これらのことが、内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神ご自身の中および(≪その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な≫)その業(≪存在の仕方≫)の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性全体」である。

 このことを念頭に置けば、バルト自身が、教会の一つの機能としての『教会教義学』の構成の方法において、「神ご自身の中および(≪その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な≫)その業(≪存在の仕方≫)の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性全体」を考察の対象としていることがよく分かるのである。すなわち、『教会教義学 神の言葉』において、「教義学の規準としての神の言葉」について、それからまた「神の啓示 三位一体の神」(内的・内在的な「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における「ご自身の中での神」、「自己自身である神」)について、それからまたその内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(起源的な第一の形態の神の言葉)としての「言葉の受肉」と第三の存在の仕方である「聖霊の注ぎ」について(これは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰の根拠である)、それからまた第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動(イエス・キリスト自身、「啓示の実在」そのもの、和解、「啓示の客観的側面」)と聖霊の業(「啓示の主観的側面」)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である「聖書」について、それからまたこの聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯する第三の形態の神の言葉である「教会の宣教」(説教と聖礼典)について、それからまた「神論の決定的な構成要素であり、啓示の認識原理でもある」三位一体論を前提として『教会教義学 神論』へと向かっている。それからまた、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主、なる神の存在としての神の愛の行為の出来事全体におけるイエス・キリストの父に関わる『教会教義学 創造論』、子としてのイエス・キリスト自身に関わる『教会教義学 和解論』(「断片」、1967年)へと向かっている。それからまた、もしもイエス・キリストにその生をゆるされたならば、当然にも必然的・不可避的に、未完に終わった愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊に関わる『教会教義学 救贖論』(終末論、『バルトとの対話』に即して言えば「完成」論)へと向かうはずであったのである――「『未完成ノ作品』……第五巻として予定されていた『救贖論』(終末論!)」(『カール・バルト 和解論Ⅳ キリスト教的生<断片>』井上良雄訳、新教出版、1988年)。この『カール・バルト 和解論Ⅳ キリスト教的生<断片>』「はしがき」で、バルトは、次のようなことを述べている――「聖晩餐(その自己犠牲におけるイエス・キリストの現在に答え彼の将来を待ち望みつつ為される感謝としての聖晩餐)」、「神の和解の業に対応する自主的性格を持つキリスト者の(人間的!)業」――この思惟と語りは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを前提とした思惟と語りであって、その<直接性>における神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという神と人間との混淆論を述べているのではない――、「和解論を締めくくるキリスト教倫理の冒頭に述べられた洗礼」、「今日では、非常に好んで、そして非常にしばしば(あまりにも好んで、そしてあまりにもしばしば)、神に対して成人になったと称するについて、語られている。……そのような世よりも私にとって興味があるのは、神と世に対して成人になるべき人間である。成人のキリスト者と成人のキリスト者の群れである。神に対して活きた希望を懐き、世において奉仕し、自由な信仰をし、絶えず祈る、彼らの思惟、言説、行動である。そして、私の考えでは、霊と火による洗礼において起こるのは、そのようなキリスト者また教会として責任を負うことの解放の開始であり、水による洗礼において起こるのは、そのような責任遂行へとキリスト者また教団が歩き始めることである」。これらのことから、「嬰児洗礼の風習ないし悪習に対する……反対」という結果が生じてくる。しかし、この問題のある「嬰児洗礼」(この風習ないし悪習は、「新約聖書によっては基礎づけられず、ようやく三世紀以降に認められるもの」である)に関する問いは、「特に、古い神学的自由主義の代表者たちに対しても、その『歴史的・批判的』方法の新発見を大声で自慢している最新の神学的自由主義の代表者たちに対しても、向けられ」ているにも拘わらず、自由主義国家が近代主義国家のことであるのと同じように、神学における自由主義者・近代主義者である彼らにおいては、「神とその現実存在の三一性に至るまで、すべてのものが、そこでは『非神話化』され得るのに、この問題に関して」は、彼らを「森の中の最も深い沈黙のようなものが支配している」、彼らは、この問題を、真剣に取り扱おうとはしない。これだけのバルトの思惟と語りを聞くだけでも、この最晩年に生きるバルトが、自由主義神学・近代主義神学(近代神学)に「回帰」・復古・逆行・退行していないことは確実であるということを、われわれは承認し確認することができるであろう。「私は、この嬰児洗礼の問題においてある種の突破が起こることによる全面的な恢復を、教会に期待してはいない。しかし、教会がすべてのより良い知識や良心に反対して、千何百年来そうして来たように、かたくなに洗礼の水をあのように恐れげもなく乱費することを続ける限り、教会がどうして、今日いろいろな方面から言われているように……その本質にふさわしく伝道的教会(したがって成人せぬ教会ではなく成人した教会)であり得るであろうか」・「教会が、神に対しても教会自身の使信に対しても、また外面的あるいは内面的に『壁ノ外ニ』いる人々に対しても、責任を負い得ないそのような仕方で、教会の人的構成の後継ぎについての心配を、静めることができると、かたくなに考えている限り、どうして教会が、他の世の人々に対して、信用できるものであり得るであろうか」・「この改革を回避することに固執しようとする限り、最上の教会論も、われわれにとって、何の役に立つであろうか」。

 これらの事柄を、バルトの処女作『ローマ書』「第2版序言」およびバルトの成熟の書『福音と律法』からこの『教会教義学』「和解論Ⅳ キリスト教的生<断片>」および『シュライエルマッハー後書』までの総体性・全体性において言い換えれば、どうしても次のような思惟と語りとならざるを得ないのである――神の側の真実としてある、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身が持っている啓示に固有の証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、換言すればその第一の形態の神の言葉である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身(啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解)を起源とするキリスト教に固有な類――すなわち預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉、この聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した教会の客観的な信仰告白および教義としての第三の形態の神の言葉――と、その時間性(時間累積)としてのキリスト教に固有な歴史性を持っている。このように、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」のである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教(説教と聖礼典)は、その一つの機能としての神学は、その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神言葉を、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉を、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、「律法の成就」・完了そのものである純粋なイエス・キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のことである)――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」であるところの純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを目指さなければならないのである、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(啓示者である父なる神の子としての啓示、和解)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないのである。そのような決断と態度が大切であり必要なのである――これが、「はしがき」に述べられた「神の和解の業に対応する自主的性格を持つキリスト者の(人間的!)業」であると言うことができるであろう。したがって、「神と世に対して成人になるべき人間」、「成人のキリスト者と成人のキリスト者の群れ」は、(ア)「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての起源的な第一の形態の神の言葉としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストに、それ故に第二の形態の神の言葉としての聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に基づいて行わなければならないのである、(イ)それ故に「正しい注釈」を、「最終的に……(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な≫)教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う(≪人間学的な≫)歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ことを終わらせなければならないのである、それ故にまた「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである限り、教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、(ウ)「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待すべきである」・「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まるべきである」・「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」から、それが欧米・日本等であろうが、中国やロシアであろうが、それら一切から対象的になって距離を取るという仕方で対応すべきである(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配である。したがって、どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」、無条件に「然り」と言うべきではない(『啓示・教会・神学』)、「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」、しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪現存する世界が、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いており、その民族国家が一部国家支配上層の意思によって動員することができる巨大で強力な軍事組織・国軍を持っている限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」ということを認識し自覚している必要がある(『バルトとの対話』)、(エ)「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに、礼拝改革とか、キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことを終わらせなければならない、教会の「宣教の規準を、聖書と同時に、最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」、「哲学、道徳、政治」等に置くことを終わらせなければならない・「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとすることを終わらせなければならない・ある「社会機構、あるいは経済機構の保持」、「廃止」に貢献しようとすることを終わらせなければならない(『教会教義学 神の言葉』)。これらのことが、前述したバルトの思惟と語り――すなわち、「……私にとって興味があるのは、神と世に対して成人になるべき人間である。成人のキリスト者と成人のキリスト者の群れである。神に対して活きた希望を懐き、世において奉仕し、自由な信仰をし、絶えず祈る、彼らの思惟、言説、行動である。そして、私の考えでは、霊と火による洗礼において起こるのは、そのようなキリスト者また教会として責任を負うことの解放の開始であり、水による洗礼において起こるのは、そのような責任遂行へとキリスト者また教団が歩き始めることである」と言える。

(2)それからまた、この『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、「聖霊の神学」について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならない――バルトの処女作である『ローマ書』「第2版序言」における「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異という一貫したバルトの思惟と語りは、最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』(1968年、81歳、邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)にまで貫徹されている。バルトは、「第三項の神学」(「聖霊の神学」)――換言すれば彼の教会教義学で言えば未完に終わった終末論的な聖霊の業に関わる「救贖」論・「完成」論(『バルトとの対話』)を展開することが「夢」であったし、「霊的に精神的(≪神と人間との無限の質的差異を認識し自覚した学識的≫)にきわめてしっかりした基礎を持つ人々」が聖霊論を書くことを衷心から切望したのであるが、その神学の動向は、現実的にはその最初から今に至るまで「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者やそれに類する者たちの神と人間との混淆論、人間学と神学の混合学としての人間学的神学の段階(総括的に言えば、自然神学の段階)で停滞した、それ故に教会の一つの機能としての神学としては非自立的で「非学問的な」聖霊論によって、バルトのそのような衷心からの切望は容赦なく打ち砕かれてしまったのである。そして、現在も打ち砕かれ続けているのである。例えば日本で言えば、「バルト神学においては人間の経験の位置づけが弱いから、人間の経験を尊重すべきである」、換言すれば近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験を尊重すべきであると主張するルドルフ・ボーレンや彼の聖霊論的説教論に依拠した佐藤司郎や小泉健は、神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象してしまって、聖霊や聖霊の言葉を神学者自身や説教者自身(人間自身)の自由事項・決定事項として実体化する聖霊論を展開している――実践神学者の小泉は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を「わがまま勝手に」止揚し捨象してしまって、それ故に「わがまま勝手に」聖霊を実体化し、近代的な自己意識・理性・思惟あるいは人間的欲求が対象化し客体化した人間化された対象物(存在者)に過ぎない「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」というようなことまで平然と述べている。

 さて、最高度に最善・最良の「第三項の神学」(「聖霊の神学」)の構成を目指したバルトは、聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、第二の形態の神の言葉)に信頼し固執し固着し連帯して、例えばシュライエルマッハーの「絶対依存感情」(敬虔心)の概念との関わりの中で、それは「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯できるかどうかという「問いに弁証法的に答え」て、次のように述べている――シュライエルマッハーにおけるその概念は、人間の自由な自己意識の類的活動(無限性)としてあるところの、ある対象を知覚作用によって対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(内在化された対象の了解化・時間化)する概念化作用、あるいは感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化、快・不快の感情)する感情作用と同じものであるという点において、それは人間論的・人間学的な概念であるから、換言すれば神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学の水準にあるものであるから、総括的に言えば自然神学の段階にあるものであるから、「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として首肯することはできない、と。バルトにとって「聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊によって更新された理性も聖霊と同一ではないのである(『教義学要綱』)。この「聖霊」は、客観的な「啓示の主観的側面」として、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)の中において注がれるのである、それ故に人間の側の自由事項・決定事項ではないのである。このバルトにとって「聖霊の働きの本質的なもの」・「直接性」は、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、すなわち全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」における聖霊は、(ア)「われわれが、一人の主なる神をのみ、主として持つ自由をわれわれに与えるがゆえにそのように告白することを要求する」、(イ)「われわれ人間の中にも・中からも、純粋なもの、聖いものは何も出て来ないと告白することを要求する」、(ウ)われわれ人間の生来的な自然的な「理性や力ではイエス・キリストを主と信じることもできず、知ることもできないと告白することを要求する」、(エ)われわれ人間の究極的限界性・終末論的限界を告白することを要求する。何故ならば、キリストにあっての神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、われわれ人間は「神の不把握性」の下にあるからである、それ故にあくまでも全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は与えられるのである――Ⅰコリント13・8以下。また、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すればわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある「成就と執行」・「永遠的実在」・客観的現実性として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉』)。このような訳で、バルトは、『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」、逝去した1968年の執筆)において、シュライエルマッハーに対して、「最終的」に、「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道に踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」と述べたのである、換言すればバルトは、神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学、例えばシュライエルマッハーやブルトマン等々自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の系譜に属する自由主義的神学・近代主義的神学・近代神学の道ではないところの、その自由主義的神学・近代主義的神学・近代神学の段階を、すなわち総括的に言えばその自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的に原理的に包括し止揚し克服したところの、<非>自由主義的神学・<非>近代主義的神学・<非>近代神学の段階、すなわち総括的に言えば<非>自然神学の段階あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の道に「踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」と述べたのである。この時、われわれは、『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>とは全く違って、バルト自身は、その原理、その認識方法と概念構成において、処女作の『ローマ書』「第2版序言」から最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』まで、一貫性をもって最後の最後まで、決して、「近代神学」・「近代主義神学」・自由主義的神学(神と人間との混淆論、人間学と神学との混合学)、総括的に言えば自然神学、自然的な信仰・神学・教会の宣教へと「回帰」・逆行・復古・退行したことがなかったということを明確に認識し承認し確認することができるのである。

 それから次に、この執筆者は、「『教会教義学』(Kirchliche Dogmatik, 1932年 - 1968年)」と書いているのであるが、バルト自身の最晩年の『教会教義学 断片』「はしがき」には、「一九六七年の復活節の季節に、バーゼル市ブルーダーホルツで」となっているから、1932年-1968年ではなくて、1932年-1967年と書いた方がよい。すなわち、バルトの最晩年の『教会教義学 和解論』(「断片」)の出版年は1967年なのである。因みに、逝去した最晩年にバルトが執筆したものは、1968年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)である。さらに執筆者が「晩年の書簡」と言うのは、その内容からして、「書簡」ではなくて、この『シュライエルマッハー選集への後書』のことであると思われる。また、この執筆者は、バルトは「『教会教義学』最終巻 (IV/3, § 69) などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している。……『教会教義学』……」、「これが未完である事情は単に年齢の問題だけではなく、晩年の書簡の以下のような表現にもうかがわれる。『私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい』」というような曖昧模糊とした言い方で書いている。しかし、バルト自身は、「神ご自身の中および(≪その神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的な≫)その業(≪存在の仕方≫)の中での父・子・聖霊の共存の中での三位一体性全体」を考察の対象として『教会教義学』の構成をしていたのであるから、執筆者の書いた「もう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」ということは、バルト自身の『教会教義学』の構成に即して言えば、バルトにおいては、未完に終わった愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊に関わる『教会教義学 救贖論』(終末論、『バルトとの対話』に即して言えば「完成」論)へと向かわざるを得ないということは必然的・不可避的なことであるから、執筆者は、このように具体的に記述すべきであると考える。執筆者は、このようにバルト自身の主要著作に即して論じるべきであると思われる。さらにこの執筆者は、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、短絡的な仕方で、バルトは「敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった。したがって(≪?≫)、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)のである」と書いている。さらに言えば、バルトの主要著作に即して論じようとしていないこの執筆者は、また処女作についての概念規定を持たないこの執筆者は、バルトの処女作(神と人間との無限の質的差異という概念によって確実に明らかに、近代主義的神学の段階、総括的に言えば自然神学の段階を包括し止揚し克服した『ローマ書』「第2版序言」)を確定することなく、ここでも根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、短絡的な仕方で、「彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰している(≪?≫)」と書いている。さらにもっと言えば、このようにバルトの主要著作に即して論じることをしようとしていないこの執筆者は、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身の信仰・神学・教会の宣教におけるその原理それ自体で、その認識方法と概念構成それ自体で、近代主義神学の段階を、総括的に言えば自然神学の段階を包括し止揚し克服したところでの「第三項の神学」(「聖霊の神学」)の構成への「夢」を論じた1968年(逝去した年)の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)をじっくりと腰を据えて精読し理解しようとしないまま、あの言葉――すなわち、ここでも根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、短絡的な仕方で、「晩年の書簡の以下のような表現にもうかがわれる」・「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」・「また彼は敬虔主義(≪逝去した1968年の『シュラエルマッハー選集への後書』において、バルトは、「敬虔主義」に属しているシュラエルマッハーに対して、根本的包括的な原理的な批判を展開している≫)や他の諸宗教にも関心を示すようになった」・「したがって(≪?≫)、彼は晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)のである」と書いているのである。このような執筆者に対して、『シュライエルマッハー選集への後書』、すなわち邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」の翻訳者の蘇は、「訳者あとがき」で、バルトの「第三項の神学(≪聖霊の神学≫)という発言について」、「これをバルトの『転向』と誤解する者」は、すなわち『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者のように「近代神学」への「回帰」・復古・逆行・退行と誤解し曲解し誤謬する者は、換言すれば「近代神学」への「回帰」・復古・逆行・逆行・退行と「誤解」し曲解し誤謬する者は、「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」(あるいはそうした読み方をしている誰かの意見をそのまま鵜呑みにしたかである)というように指摘しているのであるが、この指摘は、客観的に正当で妥当性のある指摘なのである。ここで最大級の問題は、教会の宣教にとって最善・最良の神学を構成し展開したバルト自身の信仰・神学・教会の宣教に対しても、また『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の読み手に対しても、徹頭徹尾甚だしい誤解と曲解と誤謬をさせ・迷惑をかけてしまうという点にあるのである、処女作の『ローマ書』「第2版序言」以降、「イエス・キリストの名」にのみ感謝を持って信頼し固執し固着したバルトがその生涯を賭してレンガを積み上げるように積み上げ構成されたバルトの神学を台無しにしてしまうという点にある。このような訳で、私は、この執筆者が、バルトの主要著作をじっくりと腰を据えて精読し理解するという仕方を通して、可及的速やかに、この記述<内容>を、自己検証され的確に訂正されることを切望する者なのである。私は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のわれわれは、教会の宣教にとって客観的に最善・最良の神学を構成したバルトのその神学を(それ故にキリスト教に固有な類を)、キリスト教に固有な類の時間性である歴史性に時間累積させていくことが大切で重要なことであると考える者である、バルトのその神学を決して台無しにすべきではないと考える者である。


 また、「方法論の確立」の項目について<未検証>だと考える。その理由は、以下の通りである。

 この執筆者は、バルトの、その神学的実存を含めたその一貫性のある神学的立場を、その神学の「方法論」を、その神学の原理、認識方法、概念構成を、内容的な意味での本当の処女作を、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降の主要著作に即して、またその総体的全体的構造において把握し理解し記述しようとしていないように思われる。この執筆者は、「方法論の確立」で、次のように記述している――「神ひとりが神であり、人間という他者に依存しないため、この自己依存性 (aseitas) が神の自由である。しかし神は自己のみで存在しようとせず、人間を創造し、語りかけ、交わりをもつ。なぜならば、『神我らとともにいます(インマヌエル)』という神のあり方が神の愛である、というキリスト論的方法論をバルトは確立させるに至った」、と。この執筆者の曖昧な記述内容の仕方を読まれた方は、私が、先に、(1)において『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、三位一体の神について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならないということを書くべき不可避的な必要性と、(2)において『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の記述<内容>の問題を、厳密に正確に取り扱うためには、先ず以て聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身は、「聖霊の神学」について、次のように認識し概念構成を為しているということを知っていなければならないということを書くべき不可避的な必要性を理解していただけると思う。


 また、「思想と業績」の項目について<未検証>だと考える。その理由は、以下の点にある。

 ここでも、この執筆者は、バルトの、その神学的実存を含めたその一貫性のある神学的立場を、その神学の「方法論」を、その神学の原理、認識方法、概念構成を、内容的な意味での本当の処女作を、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降の主要著作に即して、またその総体的全体的構造において把握し理解し記述しようとしていないように思われる。この執筆者は、例えば「晩年の書簡」と言うのであれば、どの書簡のことであるのかという明記を為していない。また、この執筆者は、バルトが「私がもしもう一度『教会教義学』を書くなら、今度は聖霊論的に書きたい」と言ったというのであれば、具体的にどのような書物を指すのかを明記していない。もっと言えば、この執筆者は、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って、また時系列的判断にだけ依拠して二元主義的に、さらに短絡的な仕方で、「『教会教義学』前半」の「『キリスト論的集中』」はバルトの「晩年の思想とは異なり」と記述している。この時にも、この執筆者は、そのように規定することができる根拠となるバルトの著作を示していない。この執筆者が、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って短絡的にバルトについて記述していることは、最晩年、すなわち逝去した1968年11月中旬のスイス放送で放送された番組における次のようなバルト自身の思惟と語りを、すなわちバルト自身の「自分の生涯について」の「最後の言葉」を引き寄せてみれば、すぐに分かることである。その最晩年の「最後の言葉」でバルトは、「イエス・キリストの名」にのみ感謝を持って信頼し固執し固着して、すなわち「イエス・キリストの名」にのみ引き寄せて、次のように述べている――「私が神学者として、そしてまた政治家としても」、すなわち神学者としても、また個、対・家族、社会的政治的な共同性としての人間という人間存在の三様式において不可避的に政治に関わらざるを得ない者としても、「語るべき最後の言葉は、恩寵といった概念ではなく、一つの名前」、すなわち「イエス・キリストなのです。この方こそ恩寵であり、この方こそ、この世と教会とそしてまた神学との彼岸にある、究極のものなのです……。私が私の長い生涯において努力してきたことは、いよいよ力をこめて、この名を強調し」、「そして、そこにこそ! と語ることでした。この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません。そこにこそ、恩寵があります。そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間の人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります」、と(エーバーハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』)。

 言い換えれば、この執筆者は、バルトの「キリスト論的集中」という概念の説明を少しもしないでその概念を使っているのだと思われる。したがって、この執筆者の「キリスト論的集中」の概念内容が全く不明瞭なのである。私の場合は、「キリスト論的集中」の概念内容は、バルトの著作に即して言えば、例えば、徹頭徹尾神の側の真実としてあるキリストの死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの(『福音と律法』)である「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、換言すればイエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの(平和の概念は、救済概念に包括されたそれである)ということを意味している。また、それは、『教会教義学 神論』に即して言えば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(あくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」ということを意味している、すなわち先行する「神の用意」に包摂された後続する「人間の用意」という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということを意味している。イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊という三一性を意味している。このような訳で、時系列的判断だけに依拠して二元主義的に「『教会教義学』前半」の「『キリスト論的集中』」はバルトの「晩年の思想とは異な」っているというこの執筆者は、根本的包括的な原理的な誤解と曲解と誤謬を持って短絡的な仕方で、記述していると言うことができるのである。また、この執筆者は、バルトの「思想の変遷を表す著書として」、前期著作に属する「『ローマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いたのに反して」、後期著作に属する「『教会教義学』前半では、特に倫理問題を扱うにあたり、『神』よりも『イエス・キリスト』という言葉を多く用いるようになり、キリスト論に彼の神学が集中していった」と記述している。私には、このように記述する執筆者に対して、本当に『ローマ書』「第2版序言」を精読し理解しようとしているのだろうか、また『教会教義学』に関しては、「神の言葉論」から「和解論 断片」までのバルトのその構成の仕方とその内容を本当に理解しようとしているのだろうかという疑問が湧いてくるのである。何故ならば、例えばバルト自身の『ローマ書』における「神」は、「一般的抽象的言葉」では決してなく、明確に神と人間との無限の質的差異の下におけるキリストにあっての神であるからである。例えば、『ローマ書』においては、次のように述べられている――内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」におけるまことの神にしてまことの人間である「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」、と。また、『ローマ書』「第二版序言」(1922年、「序言」は1921年9月に書かれている)を読んでみれば明々白々である。バルト自身は、「第二版序言」で、次のように述べている――「(中略)……私が、パウロはローマ書の中で本当にイエス・キリストのことを語ったのであり、それ以外の何かに語ったのではない」という「仮説」を立てたとして、「もしその仮説が間違っているなら、すなわち本当にパウロが時間と永遠との恒常的危機以外の何かについて語っているなら、パウロのテキスト自体が進展してゆくうちに」、すなわち啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動が進展してゆくうちに、「私は自ら不条理に陥ることであろう」・「もし人々がパウロの名のもとに、表面はイエス・キリストを説きながら、実は」所与の「絶対的な相対物や相対的な絶対物から成る全く人智学的混沌(≪神と人間との無限の質的差異を「わがまま勝手に」止揚し捨象した、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した対象物、人間的自然、「存在者レベルでの神」、諸々の偶像的「混沌」≫)を説くとすれば、それこそパウロを歪めるというものである」・「さて、この私のローマ書注解の内容について言えば、私は、三年前と同様、今もいわゆる福音の全体ということよりも真の福音」、内容的にまさに純粋なキリストの福音「ということを問題にした、ということをみずから認める。けだし、私見によれば、福音の全体に至る道は真の福音」、内容的にまさに純粋なキリストの福音「の把握を通じてよりほかになく、しかもこの真の福音はいまだ何人にもその全側面を同時に顕わしたことがないからである」。したがって、われわれは、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身を、それ故に具体的には預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)を、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教における、その一つの機能としての神学における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神・<純粋>なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(「律法の成就」・完了そのものとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)――すなわち、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為す純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを目指していかなければならないのである、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していかなければならないのである。このような訳で、この執筆者について言えば、この執筆者は、本当は『ローマ書』「第二版序言」を精読し理解していないに違いないのである。何故ならば、この執筆者が、『ローマ書』「第二版序言」を精読し理解していたならば、バルトは「『ローマ書』において神という一般的抽象的言葉を用いた」というような誤解と曲解と誤謬のただ中にある短絡的な仕方で記述を行うことは決してできないであろうからである。またこの執筆者は、曖昧模糊とした述べ方で「キリストを通じての神啓示が教会を越えて起こる可能性に言及した『教会教義学』最終巻……などでは三位一体の第三位格である聖霊に注目している」、と記述している。この執筆者は、バルトにおいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)には、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面としての聖霊の注ぎによる信仰の出来事が必要であるということを認識していないのである。客観的な啓示(啓示の客観的側面)とは、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉(「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト自身)およびこの第一の形態の神の言葉を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)ならびにこの聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義のことである。このような訳で、この執筆者の記述内容を厳密に正確に述べるならば、次のように述べるべきである――神の側の真実としてある、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身が持っている啓示に固有の証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、換言すればその第一の形態の神の言葉である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身(啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのもの、啓示・和解)を起源とするキリスト教に固有な類――すなわち、預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」としての第二の形態の神の言葉、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯した教会の客観的な信仰告白および教義としての第三の形態の神の言葉――と、その時間性(時間累積)としてのキリスト教に固有な歴史性を持っている、と。

 バルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)」とまさに誤解と曲解と誤謬のただ中で記述したこの執筆者は、ブルンナーの側に身を寄せて、「この関連で、エミール・ブルンナーとの自然神学論争において彼が主張した『人間にはもはや「神の像」なし』という主張もまた再検討されうる。神認識がキリストの契機なしには起こらないという点ではブルンナーとバルトは主張を同じくするが、ブルンナーが主張した『人間における結合点』とは人間において聖霊の力が働いて神を認識することを言っているからである」と、ここでも曖昧模糊とした述べ方で、全くの誤解と曲解と誤謬に満ちたことを短絡的な仕方で記述している。この執筆者は、ブルンナーのその聖霊概念が、神と人間との無限の質的差異を止揚し捨象し、キリストにあっての神の全き自由の愛も止揚し捨象し、あるいは後景へと退けて、また第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の宣教における、その一つの機能としての神学における、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉(それ故に具体的には、その第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言)も後景へと退けて、自然神学の段階で停滞している概念的水準にあるそれであるということを認識していないのである。それに対して、徹頭徹尾聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯すること(例えば、『説教の本質と実際』に即して言えば、第二の形態の神の言葉である「聖書への絶対的信頼」)で自然神学の段階を包括し止揚し克服した<非>自然神学の段階にあるバルト自身の聖霊概念は、次の点にある――神と人間との無限の質的差異の下で、またキリストにあっての神の全き自由の愛の下で、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」、それ故に聖霊によって「再生」・「更新」された理性も、聖霊ではないのである(『教義学要綱』)。しかし、自然神学の段階にあるブルンナーの聖霊概念は、「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」(『教会教義学 神の言葉』)のことである、それ故に生来的な自然的な人間の理性・自己意識・思惟であり、それは、新たな神との「共働者」関係の構築を目指すそれとして、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」ように一致する概念的水準にあるそれなのである(『カント』)。この執筆者には、ブルンナーのその聖霊概念は、「聖霊論が人間学である」という自然神学の問題を宿しているそれであるという認識が欠けているのである。また、ブルンナーは、内容的には「神の像」は「全く失われてしまって、人間は徹底的に罪人であり、人間の中には罪で汚されてないものは何もない」と語るのであるが、「人間には啓示なくしても」、啓示とは独立して、「人間自身が本来持っていて(≪生来的に自然的に持っていて≫)、そして啓示の中で言わば甦って来る」、人間に内在する「啓示能力」、「言語能力」、「言語受容能力」、「呼びかけられうる能力」があり、それは、「人間の持っている(≪生来的に自然的に人間に内在する≫)『神の像』」であると言うのである。すなわち、ブルンナーは、それらは、「啓示の中で初めて甦って来るところのものである」としても、キリストにあっての啓示とは独立して「人間の側から」する「啓示に先立つ『啓示能力』」、「結合点」」、すなわち人間的契機の<直接性>、先行する人間に内在する人間的自然を「主張する」のである。この自然神学の段階にあるブルンナーの教説おける人間に固有な「結合点」は、罪人からも喪失してしまっていない「形式的な神の像」であり、それは具体的には生来的な自然的な人間の「人間性」、「理性や応答責任性や決断能力」のことであり、「神の啓示に対する客観的可能性」となるものである(『ナイン!――エーミル・ブルンナーに対する答え』)。このブルンナーの教説は、神と人間との混淆論あるいは「協働」・「共働」論として、まさに自然神学の段階にある神学、自然神学なのである。また、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、ブルンナーの目指している神学的課題は、「理性的思惟の絶対化」や「理性万能の妄想と理性の孤立の中」で、「神的汝をあこがれ求めている理性を解放する」ことにあるのだが、しかもそういう仕方で「近代的精神」を温存させることにあったのだが、まさにそれ故に、「啓示に先立つ『啓示能力』」、「結合点」、すなわち人間的契機の<直接性>、人間に内在する人間的自然を主張するのである、換言すれば「人間の側から」主張するブルンナーの「神的汝をあこがれ求めている」「自信過剰」の<半減>された「近代的精神」は、すなわち近代的な人間の自己意識・理性・思惟は、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も、人間的契機の<直接性>も、近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験も、人間学的な哲学原理・認識論・世界観も、キリストにあっての啓示とは独立させたその現にあるがままの生来的な自然的な人間の人間性・理性性・意志性・応答責任性・決断能力も、先行を欲求する「人間の側から」する神との混淆・共働・協働もという、「近代主義」、近代主義的神学、自由主義神学、近代主義的プロテスタント主義的神学へと向かうベクトルを持つものでしかないから、総括的に言えば人間が先行することを欲求する「人間の側から」する神と人間との無限の質的差異の止揚と捨象あるいは後景化、キリストにあっての神の全き自由の愛の止揚と捨象あるいは後景化において、自然神学を志向し目指すものでしかないから、このようなブルンナーに対して、バルトは、「否」と答えたのである。

 それから、この執筆者の言う、バルトは「また……敬虔主義や他の諸宗教にも関心を示すようになった」から、バルトは「晩年に自身の出発点である近代神学に回帰していると言える(≪?≫)のである」という記述の仕方に従えば、例えばバルトがカントやヘーゲルをあくまでも<批判的><否定的>に媒介して『カント』や『ヘーゲル』を著わした時、すなわちそうすることで本当は、教会の宣教における、その一つの機能である神学における近代主義を、総括的に言えば自然神学を根本的に原理的に包括し止揚し克服するためにそうしているにも拘らず、バルトはその著作で最高に近代主義的な神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見したヘーゲルに「関心」を示したから、バルトは、「近代神学に回帰」・復古・逆行・退行したというような、全くの誤解と曲解と誤謬のただ中における短絡的な仕方での記述とならざるを得なくなってしまうのである。また、この執筆者の記述の仕方に従えば、「晩年」では全くない前期の1922年の『ローマ書』において関心をもって論じられているキルケゴールも、1968年の『シュラエルマッハー選集への後書』において関心をもって論じられているシュラエルマッハーも(そして、この書におけるバルトの思惟と語りは、根本的包括的な原理的なシュライエルマッハー批判である。このバルトは、『ヘーゲル』で、根本的包括的な原理的な批判の観点で、シュライエルマッハーに西欧近代主義者「ヘーゲルの強力な痕跡」を見ている)、バルトに言わせれば「敬虔主義」に属しているのであるから、「晩年」のバルトは「敬虔主義……にも関心を示すようになった」から「近代神学に回帰している(≪?≫)」というこの執筆者の記述自体に決定的な矛盾が生じることになるのである。

 さて、「第三項の神学」(「聖霊の神学」)における「聖霊」について、『教会教義学 神の言葉』によれば、内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ずる御霊」・聖霊なる神は、救済主なる神(救済の神)、永遠なる霊である。すなわち、三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、三度目に、愛に基づく父と子の交わりから生じる一つの存在の仕方、すなわち第三の存在の仕方である。したがって、この聖霊という第三の存在の仕方は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではなく、聖霊は、あくまでも神の本質の区別を包括した単一性において「父なる神と子なる神の愛の霊」である。したがって、『神学者カール・バルト』の訳者である蘇は、その「訳者あとがき」で、時系列的判断に依拠して、「バルトが『聖霊』を口にする場合、それは『教会教義学』の第四巻(殊に第三部)以来ますます載然と、排他的にイエス・キリスト自身の霊的臨在またはその力をさし……」と述べているのであるが、その「キリスト自身の霊的臨在」の強調は、和解論が三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストに関わる事柄だからであり、その場合バルトは、「神の本質の単一性と区別」(神の本質の区別を包括した単一性)における内的・内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(和解)に重点を置いて論じているだけなのである。このことを念頭に置けば、前述した『シュライエルマッハー選集への後書』にある「第一項と第二項の理解するところに従い、父なる神と、子なる神とについて信じ、考え、語らなければならないすべてのことは、父と子との間の平和の絆である聖霊なる神によって基礎づけられて、明らかにされ、光を受けなければならないであろう」という神の本質の区別を包括した単一性おいて「第三項の神学」(「聖霊の神学」)を構成したいというバルトの「夢」の事柄について理解することができる。すなわち、聖霊は、愛に基づく父と子の交わりの中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」であるところの性質・働き・業・行為・行動・活動である。ここに、神は愛である・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。この「父なる神と子なる神の愛の霊」としての内的・内在的な三位一体の神の、その外的・外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊は、イエス・キリストの父(起源的な第一の存在の仕方)と子としてのイエス・キリスト自身(第二の存在の仕方)の交わりであり、神と人間との交わりの根拠である。このような訳で、終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の聖霊によって「再生」・「更新」された理性による信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)には、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事を必要とするのである。したがって、神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」(『ヘーゲル』)シュライエルマッハーに対して、総括的に言えば自然神学の段階に属するシュライエルマッハーに対して、バルト自身は、逝去した年の1968年に著わされた『シュライエルマッハー選集への後書』において、最後的には次のように言わなければならなかったのである――「わたしは、事柄そのものにおいて、シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道」、すなわち自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道を包括し止揚し克服した<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の道に「踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」、と。このようなバルトに、この執筆者の言う「近代神学(≪近代主義神学、自由主義神学≫)に回帰している」バルトを、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教へと「回帰」・復古・逆行・退行しているバルトの姿を見ることは全くできないのである。--T-B会話) 2020年1月26日 (日) 14:46 (UTC)--T-B会話) 2020年1月27日 (月) 22:43 (UTC)--T-B会話2020年1月28日 (火) 00:35 (UTC)返信

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