ノート:ポア (オウム真理教)
ポアとポワ
編集ポアとポワについて、いずれも「魂の転移」を意味する同じ言葉であると宗教学者の渡邊学は「オウム真理教関係未公開資料について」p19で明言しています。本記事ではポアとポワは異なる旨の記載が散見されます。少なくとも出典のない注釈での記載「本書や『チベットのモーツァルト』(1983年、せりか書房)など、少なくとも後述する麻原が殺人の意でポアの語を使い出した1987年以前の中沢の著作中にはポワと表記されており、ポアという表現はない。特に本書の章名の一部にまで用いられているポワを差し置いて、一度として現れない「ポアという言葉をオウムに教え」ることが如何にして可能だったのか、整合性の欠如した指摘になっている。」は独自研究に該当しますので削除した上で、加筆します。--240F:36:82F2:1:B59C:5F93:141D:DD00 2021年7月14日 (水) 15:09 (UTC)
「マイクロウェーブや薬品で死体をポアしていた」という表現について
編集コメントIPユーザーの58.0.223.227氏が、「他組織との類似点」節における「オウムがマイクロウェーブや薬品で死体をポアしていたことなどの」以下の記述に対して「その後始末としての死体の処分まで「ポア」と呼んでいた、という話は本記事のほかの部分を含めて見聞きしたことがなく」と疑問を呈しておられるので、愚考を述べたいと思います。常識的に考えて、死体の「後始末」としてのマイクロウェーブの使用に如何なる実質的効果があるのか極めて疑問であり、これは宗教的処置と考えるのが妥当ではないでしょうか。つまりこれは、ニューエイジ式にゆがんだ形とはいえ、オウム流の'pho ba(ポワ)、すなわち原義としての「意識の転移」ではなかったかと考えられます。日本を含めた大乗仏教では死者は最長で四十九日の間、中陰という状態にとどまるので、その間にNHKのチベットの死者の書に関するドキュメンタリーで描かれたような、死体への「引導」の儀式が行われるには普通です。ゆえに、ここで問題なのは'pho ba(ポワ)という言葉をオウム真理教に限り=「殺人」の隠語と狭い意味に取るのではなく、オウム流に「死に至らしめる殺害行為も含めた」ものであるとはいえ、オウムにおいてもチベット仏教における「意識の転移」という意味も含まれていたと解釈するべきではないでしょうか。故に、当該記述に問題があるのではなく、そもそも冒頭の定義に問題があり、これを書き直すべきだと考えます。すなわち、広義の「意識の転移」という語義に加えて、オウム内では「殺人というプロセス」も含意していた云々というようにです。--Ryo 625(会話) 2022年6月21日 (火) 16:28 (UTC)
- 返信 IPアドレス58.0.223.227で編集をしていた者です。今回のRyo 625氏のコメントに対する私見の一部を返信いたします。
先ずは、大前提として確認しておきたいのですが、近隣の図書館に件の文「オウムがマイクロウェーブや薬品で死体をポアしていたことなどの(遺体に対する)他者感覚の無さは、チベット仏教や武士道に見られる仏教的な死生観よりも神道(国家神道)に近いとの仏教側からの見解もある。」の出典とされる『あなたはどんな修行をしたのですか? オウムからの問い、オウムへの問い』が所蔵されていないために、これが適切な要約かどうかを確認できていません。仮にこれが出典書籍中の文章を適当につなぎ合わせて元の文意を捻じ曲げたものであった場合は出典無効として直ちに削除すべきと考えますが、この点にご異議はありませんでしょうか。
さて、本題に入ります。ここで仮にRyo 625氏のおっしゃる様に『オウム(のポア)においてもチベット仏教における「意識の転移」という意味も含まれていたと解釈する』と、件の文はいかなることを述べていることになるかを見てみましょう。それはチベット仏教由来の「意識の転移」を施すことは「他者感覚」を有さず、「チベット仏教や武士道に見られる仏教的な死生観よりも神道(国家神道)に近いと」いう見解を持つ仏教側の人間がいる、ということになります。仏教の儀式の死生観が仏教よりそれ以外の宗教に近いと言う仏教側の人間がいる、と主張する自己撞着に陥っています。結局は、より一層「当該記述に問題がある」ことになるのですが、それでよろしいでしょうか。--220.209.244.80 2022年7月2日 (土) 10:36 (UTC)- コメント元の文章を捻じ曲げたものであった場合、削除すべきなのは勿論のことです。この文章は0.999休宗純という方が、2018年6月20日 (水) 10:52時点で追加したもののようです。
- 「それはチベット仏教由来の「意識の転移」を施すことは「他者感覚」を有さず、「チベット仏教や武士道に見られる仏教的な死生観よりも神道(国家神道)に近いと」いう見解を持つ仏教側の人間がいる、ということになります。」とのことですが、その「意識の転移」をマイクロウェーブや薬品などを使って行った場合は、他者感覚が異なるということでしょう。いわゆる「死はケガレ」、「死体はケガレたもの」という感覚であって、仏教はそうではないと主張したい文章に見えます。
- あるいは国家神道における非神道信者の合祀のような、他教徒への強制的な宗教行為も問題となるでしょう。キリスト者を勝手に「極楽浄土に遷移」させる行為などです。
- 「他者感覚のなさ」とはそういう意味ではないでしょうか。
- それで、神道にそういう他者感覚がない、勝手に神様にしてしまう(あるいは勝手に「極楽浄土にポア」してしまう)というのは必ずしも誤りであるとは思えません。ですので、当該箇所は、二通りの処理のいづれか、すなわち(1)「チベット仏教や武士道など仏教的な死生観とは異質なものであるとの仏教側からの見解もある」と訂正するか、(2)注釈を挿入して訂正を入れる『べきでしょう。前者が一番無難だと思います。--Ryo 625(会話) 2022年7月2日 (土) 19:23 (UTC)
- 済 図書館から『あなたはどんな修行をしたのですか?:オウムからの問い、オウムへの問い』を借り、確認しました。ご指摘の通り、本項における件の記述は、出典の2~3頁に渉る文章(144~146頁が該当)を継ぎ接ぎして作り出した記述であって、出典ある記述というより独自研究というべきものでした。オウムが「マイクロウェーブや薬品で死体をポアしていた」というような「ポア」の用法も見られませんでした。正しくは「死体処理の徹底さ」(145頁)、「マイクロ波による消滅、硫酸による溶解。」(146頁)でした有益なご指摘により不適切な記述を修正できたことに感謝いたします。--Ryo 625(会話) 2022年7月3日 (日) 09:01 (UTC)