ノート:マタイによる福音書

最新のコメント:9 年前 | トピック:記事冒頭の署名付き注意書きについて_2015年4月 | 投稿者:Sumaru

マタイ福音書の著者について 編集

マタイは、ユダヤ教の語律法学者に対する激しい批判が繰り返されている書なので、ユダヤ教の指導者(この時代にはファリサイ派)が書いたということはありません。それと、この時代には、すでにキリスト教とユダヤ教がかなり明確に分かれていたようです(ネロの迫害等)。--以上の署名のないコメントは、218.226.241.30会話/Whois)さんが 2003-05-03 12:42:40 (UTC) に投稿したものです。

おそらく、私の書いた物と同趣旨でしょう。「ユダヤ教のラビ」ではなく、「ユダヤ教のラビであった者」と書いたのは、書いた段階ではユダヤ教から離脱していたであろうという趣旨です。「ラビ」の本義は、「律法に通じた者」ですから。--Falcosapiens 13:36 2003年5月3日 (UTC)

「異教徒への宣教に対する強い使命感」 編集

異教徒への宣教に対する強い使命感もその特徴」ということですが、これってルカのことじゃないでしょうか? 確認のために読み返したところ、8章の百人隊長のエピソード以外に、異教徒における宣教の問題を扱ったところはありません。逆に 10:5-6 を読む限り、異教徒は後回しにされていますし。実際、この福音書は、ユダヤ教徒に対して改宗するよう勧告する目的で書かれた、と考える学者もいます。ヘブライ書と並んで、ユダヤ人にとってしか意味の無い律法の再強調がなされている文書ですしね。--以上の署名のないコメントは、218.226.241.30会話/Whois)さんが 2003-05-13 10:05:45 (UTC) に投稿したものです。

記事の日本語表現について 編集

冒頭の「〜は」っていうの、日本語としても事典の形式としても、同語反復ですごく不自然なんですけど。

ウィキペディアだけを考えて、画面で見るなら、そう思えるかもしれませんね。しかし、そもそもウィキペディアの記事は、他に自由にコピーされても良いように書いています。ですから、「〜は」というのを、全ての記事に入れているのです。 ですから、「〜は」というのを取り除いても、きっと他のウィキペディアンによって補完されてしまいますよ。--Yoshitaka Mieda 23:11 2003年5月22日 (UTC)

それなら、引用する際に、その人が加筆すればよいだけのことでは? 文脈によっては、日本語として不自然すぎますよ。--以上の署名のないコメントは、218.226.241.30会話/Whois)さんが 2003-05-23 00:04:21 (UTC) に投稿したものです。
まー、論争する気はありませんが、結論を言うと、これがウィキペディアのスタイルだと思って受け入れていただくしかないのです(いやなら、ご自分のサイトでということです。)。私も初めのころは違和感がありましたが、慣れてしまえば気にならなくなりました。それに、ウィキペディアでは、皆さん「ブロークン・ウインドウズ理論」的な意識を潜在的に持っておられるので、例外は許されないと思いますよ。--Yoshitaka Mieda 23:11 2003年5月22日 (UTC)以上のコメントは、Yoshitaka Mieda会話投稿記録)さんが[2003-05-23 00:08:16 (UTC)]に投稿したものです。
ウィキペディアのスタイルといいますが、ウィキペディアのスタイルというのは、決定的でなく、未だ(というか常に)流動的なものと理解していますが? それをあたかも不可侵のごとく「いやなら、ご自分のサイトで」と言われるあなたは何者ですか? --以上の署名のないコメントは、218.226.241.30会話/Whois)さんが 2003-05-23 00:16:11 (UTC) に投稿したものです。
もしくは、メタウィキペディアで議論を提案されればよいのではないでしょうか?というのも付け加えて最後にしておきましょう。--以上の署名のないコメントは、Yoshitaka Mieda会話投稿記録)さんが 2003-05-23 00:17:26 (UTC) に投稿したものです。

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────「〜は」の不自然なスタイルにどうしても馴染めないので、他の方のサイトに移ることにします。つきまして、他の方の手が加わっているものはさすがに出来ませんが、ほぼ私の独力による記事は移させて貰います。--以上の署名のないコメントは、218.226.241.30会話/Whois)さんが 2003-05-23 01:18:28 (UTC) に投稿したものです。

移動?↑Wikipdiaわかってない人? --以上の署名のないコメントは、Taboo会話投稿記録)さんが 2003-05-23 01:26:08 (UTC) に投稿したものです。
私もはじめは「〜は」という同語重複に違和感を覚えてしかたなかったのですが、すぐに慣れました(笑。人名などの場合は全名を書くので、必ずしも同語重複にはなりません。それに「〜は」の後にかっこ書きでかな読みや外国語表記を入れる習慣に慣れてしまったので、いまではこの体裁にそろえないと気がすまないです。
でも「〜は」を入れてないページはたくさん存在してますが。
「〜は」にどうしても馴染めないので他のサイトに移る、というのはあまりにも狭量ではないでしょうか。--るがこむ 06:22 2003年5月23日 (UTC)

なぜ英訳名を記載するのか 編集

新約聖書は英語の本ではありませんし、特別に英語とのみ縁が深いわけではありません。また、日本は英語圏の植民地ではないので、英題を記す必要は無いでしょう。何でもとりあえず英語で書く、というのは良くない習慣です。英語他、現代の各国語訳を知りたい場合は、リンク先を見ればよいでしょう。 --以上の署名のないコメントは、K~jawiki会話投稿記録)さんが 2003-07-06 15:12:07 (UTC) に投稿したものです。

ノートページのアーカイブ化の提案 編集

かなり時間がたって話が収束している、というよりここで議論されていた方はみな現在この項目の編集にかかわっておられない方のようですので、いちどこの議論はアーカイヴにいれるのはいかがでしょうか。しばらくおいて反対がないようでしたら過去の履歴へのリンクをおいて、白紙化したいと思います。--Aphaea* 2005年3月26日 (土) 17:31 (UTC)返信

ヘブライ語説とアラム語説 編集

 マタイの福音書はアラム語説とヘブライ語説があり、ヘブライ語説の方がよく論争されているようです。マタイの福音書本文にもその痕跡があります(以前の加筆には聖書箇所が記載されていた)アラム語は当時の話し言葉ではあったが、当時から典礼の言葉として以前使われており(19世紀に話し言葉として復活するまで)マタイが福音書をヘブライ語で記したとしても何ら不思議ではなくむしろ納得のゆくものである(あくまでも説として)あなたはそれをすべて削除してアラム語説のみを取り上げてヘブライ語説を無かったもののように否定してしまっています。このことについての明確な回答を要求します、いい加減な勉強中の聖書理解は危険なので自分の解らないところは他の人の加筆に任せるべきであります。また文章の情報だけでは福音書理解には到底足りないと思われます、よって加筆以来を付け加えます。またこの質問に対して明確な返答の得られない場合は、加筆あるいは修正させていただきます。(日本語がおかしい等の話をそらすためのの論争は受け付けません)--220.99.209.183 2005年4月5日 (火) 23:33以上のコメントは、220.99.209.183会話/投稿記録/Whois)さんが[2005-04-05 23:33:20 (UTC)]に投稿したものです。

日本語がおかしいと言うつもりはありませんが、意図を読みとるのに苦労しました。まずどの編集についてのご意見なのか、明確にして欲しいものです(2005年3月22日 (火) 16:31の版ですね?)。また、加筆はしていただいてかまわないと思います。たしかに、「マタイ福音書はユダヤ人に向けてヘブライ語で書かれた説があり」の部分が完全に無くなってしまっていますから、どうか復活させてください。(署名を加えさせていただきました。なお、このような密度の高いご意見をくださるのでしたら、ぜひログインされることをおすすめします。対話が容易になりますから)-- [Café] [Album] 2005年4月6日 (水) 06:49 (UTC)返信

差し戻しについて_2007年1月5日 編集

教皇演説を引用しておられますが「マタイの名前が付けられた」とあるだけで、マタイが筆者であるとはいっていません。読み込みすぎだと思いましたので、差し戻しました。

マタイが筆者でないという意見は、たとえば田川健三の『書物としての新約聖書』などに学説が固まる経緯が述べられています。--Aphaia 2007年1月5日 (金) 17:42 (UTC)返信

記載の主張は、「別に筆者がいる」ですが、教皇はそんなことは言っていないですよ。記者がマタイ自身であることを、自明として語っています。そして、たぶん田川さんの名前が出てくると予想していましたが、そうであれば田川氏の名前を出すべきです。あの人の書籍しか無いでしょう。何派の人かはともかく、要出典、をはずす理由は現時点ではありません。出典の明記を。--Album 2007年1月5日 (金) 23:08 (UTC)返信
田川健三、の項目を拝見しましたが、宗教批判の方ですね。私もディプログラマーで、死人が甦るとか、輪廻なんて悪趣味だと思うタイプですが、出典が田川さんのしか無いなら、そう書くべきです。大学を追放されるほどなら、少なくとも追放する側は別の意見を持っているわけですね。--Album 2007年1月5日 (金) 23:27 (UTC)返信

カトリックの見解について明確にしておきたいと思います。関連リンクから引用します。

  • 最後にわたしたちは、初代教会の伝統が、第一福音書の著者をマタイとすることを認めたことを思い起こしたいと思います。この承認は、130年頃のフリュギアのヒエラポリスの司教パピアスに始まるものです。 パピアスはこう述べています。「マタイはヘブライ語で(主の)ことばをまとめた。各人はその能力に従ってそれらを解説した」(エウセビオス『教会史』:Historia ecclesiastica, III, 39, 16)。歴史家エウセビオスは次の報告を付け加えています。「マタイは、はじめはユダヤ人に宣教していたが、他の人びとのところに行こうと決めたとき、彼らに告げた福音を彼らの母国語で書いた。こうして彼は、自分が去ろうとしている人びとが、自分が去ることで失うものを著作で代えようとしたのである」(ibid., III, 24, 6)。

以上のとおり、現代の聖書学の研究成果も認めるとしても、同時にカトリックが示した昨夏の見解も尊重されるべきです。良くも悪くもキリスト教の最大教派なのですから。--Album 2007年1月6日 (土) 13:04 (UTC)返信

記事冒頭の署名付き注意書きについて_2015年4月 編集

記事冒頭に「著作権に違反する部分を、2015年1月20日に削除させていただきました。決して復活させないでください。-Kazuboku」なる注意書きがありますが、Wikipedia:記事の所有権に「記事本文に署名を残してはなりません」とあることに抵触しますし、強い違和感を覚えます。もしも著作権侵害の記述があるというのなら、Wikipedia:削除依頼に出すことが望まれます。反面、削除なさったKazubokuさんが履歴にお書きになった「著作権問題に抵触する。日本ナザレン教団の『希望』2014年冬号に掲載の記事そのまま」という表現も私にはよく分かりません。履歴を見る限りでは2014年冬どころか、2014年中にはほとんど加筆がなされておらず、2014年冬の雑誌から転載したということが考えづらいからです。ですので(何も言わずに差し戻し合戦をするIPユーザー氏たちもどうかとは思いますが)、現状の記事では大量除去に納得できずに差し戻そうとする方が後を絶たないのも仕方ないように思います。Kazubokuさんは、なぜ大量削除したのか、もう少し詳しくご説明いただけないでしょうか。--Sumaru会話) 2015年4月6日 (月) 14:52 (UTC) / 1件修正。アドレスの数字をきちんと見ていなかったので、同一人物によるセルフリバートの繰り返しとは気づきませんでした。--Sumaru会話2015年4月6日 (月) 15:38 (UTC)返信

  報告 コメントが無かったため、一部記述を復帰させました。上のコメントを書いた時点では2014年春、夏、秋、冬号の順で出ているのかと思っていましたが、ネットで調べたところ冬、春、夏、秋号の順だったと知りました。そのため、2013年秋以降の加筆には、上のkazubokuさんのコメントに抵触することが含まれている可能性があると考え、kazubokuさんの参加前の記述(2013年7月まで)のみから、いくらかの記述を復帰しました。もっとも、出典が少なすぎるので、根本的な改稿が必要ではないかと思われます。--Sumaru会話2015年4月13日 (月) 13:42 (UTC)返信
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