ノート:マルチステーション5550
IBU (Independent Business Unit) の設立時期
編集マルチステーション5550についてはオンラインの資料が少なく、ウィキペディアでの記述が公然の事実になってしまうことを危惧して、私が記事を執筆するにあたり気になった点を残しておきます。
5550開発プロジェクトがIBUの適用を受けたことについては文献により差があります。鈴木智彦 『IBM 5550 活用法』(オーム社、1984年)では「米IBM本社の社長直轄の元に開発をスタート」とあり、IBU設立はプロジェクト開始と同時。『日経産業新聞』1986年9月8日の三井氏の発言によれば、1982年7月にIBU「JPBU(ジャパンプロダクトビジネスユニット)」を立ち上げて、小型機は日本で開発するべきとしエストリッジ氏のIBM PC開発に対抗したとのこと。戸塚正康 『日本IBMのパソコン新戦略』(日本工業新聞社、1991年)では、米IBMのIBUに相当する組織を日本IBMでビジネスユニットとして発足させて5550の開発が始まったとあります。
戸塚の文献には川原氏の名前は出てきませんので、5550開発当初の話には半信半疑なところがあります。三井の発言は、5550の開発を急かせるために82年7月にIBUを立ち上げたということかもしれません。これも1986年と比較的後年の話なので信用性は中程度。
鈴木の文献では冒頭に三井、川原から資料を収集したとあり、開発史も内部の人にしか知り得ない話が十分にあるため、信用度はそれなりにあるでしょう。関口和一 『パソコン革命の旗手たち』(日本経済新聞社、2000年)によれば、IBMは新しい商品分野が登場したときに世界各地の事業所に技術を競い合わせていて、端末事業部を営んでいた日本IBMはパソコン事業を獲得しようとしてコンペでボカラトンの事業所に敗れ、代わりに多機能業務端末を提案したそうです。その流れでエストリッジ率いる開発部隊と並行して5550開発のIBUが立ち上がったというのなら自然です。ところが、『日本経済新聞』1984年2月1日および鈴木の文献では、通信端末機能は当初の想定になかったとあり、関口の文献と今ひとつ噛み合いません。
結局、本文の開発史はおよそ鈴木の文献に倣うことにしました。--Darklanlan talk 2019年3月4日 (月) 16:35 (UTC)