ノート:上大河駅
立てました
編集立項しました。「全国一の赤字線」に転落していた国鉄宇品線が1966年以降、1972年まで旅客営業を維持していたのは、上大河駅の需要を考慮したためである(上大河より先の駅(旅客営業)は廃止され、残された他の駅も大須口駅は信号所に格下げされ、南段原駅は時間帯によっては通過)ことは明らかで、そのぶん宇品線の中での上大河駅の比重の大きさがうかがわれるのですが、現状で記念物も設置されていない?ためか、あまり宇品線の関連サイト(サイト自体は結構多いのですが)でも言及されることが少ないようです。往事の駅の姿を(とはいえもうあまり定かではない記憶ですが)知る者としては、そのような状況をかねがね残念に思っていましたので、手元にあるだけの文献を頼りに記事のたたき台を作成しました。しかし私は鉄道関係の専門用語に疎く、その上参考文献などのソースが限定され、駅の位置など一部は私の記憶(広島に現住していないのでかなり曖昧です)に基づく部分もありますので、事実誤認や加筆が必要な箇所が多々あると思います。みなさんの加筆編集をお願いします。--Straysheep(会話) 2012年7月22日 (日) 09:46 (UTC)
踏切の名称について
編集いくつかのソースでは現在の「出汐2丁目北東角交差点」(国道2号線の方)を「出汐踏切」としています。私の記憶では、2号線から南に入った現在の「出汐3丁目9番交差点」の方が出汐踏切であり、確か付近にそういう名称のバス停があったような気がしていましたので、若干違和感がありました。長船氏の当該著書(『宇品線92年の軌跡』)に広島鉄道管理局作成の図面が掲載され、そこに各踏切の名称が書かれていましたので、それに従って記事を編集しました。--Straysheep(会話) 2012年7月25日 (水) 12:35 (UTC)
上大河駅(2代目)は比治山駅の改称・再開ではありません
編集長船友則氏の『宇品線 92年の軌跡』(ネコ・パブリッシング、2012年)はすばらしい本ですが、上大河駅(2代目)に関しては一部問題があります。16ページと45ページに、「比治山」が「上大河」として復活、旧「上大河」は廃止、とする記述がありますが、その根拠となる文献等は示されておらず、駅間距離が一致することによる推測であろうと思われます。
縁あって、私の手元には1947年3月20日の上大河駅落成式における広島県知事と広島鉄道局長の祝辞の原稿(実物)がありますが、前者には「駅を(県)庁舎前に移され」、後者には「本日こゝに上大河駅の移転新築落成式を挙行せらるゝに当り」とあり、比治山駅にはまったく触れられていません。このことから、1943年に営業が休止された比治山駅は、安芸愛宕・東段原・下丹那駅と同様、そのまま廃止されたと考えるのが妥当です。しかも、1943年に営業が休止された宇品線の4駅は、芸備鉄道時代にガソリンカー専用の停留場として開設されたもので、施設が簡便であり(ホームが短く、駅舎もなかった?)、上大河駅(2代目)は比治山駅とは無関係に、1946年9月から6か月をかけて新築されたものです。残念ながら、長船氏はこの祝辞の原稿をご覧になっていないのではないでしょうか。--Lichenes(会話) 2017年12月21日 (木) 01:17 (UTC)
- 長船友則について。個人的にも好きですし、発行された書籍は読んだり買ったりしています。とはいえ、全く疑問が無い訳では有りません。例として、ノート:広島電鉄/過去ログ1#被爆3日後再開時使用車両についてで、長船友則の執筆した文章に対して問題点を指摘しています。もう少し出典を固めてみて、「祝辞の原稿」が県立図書館や市立図書館。市役所・県庁など他の所でも読むことが出来るのか。他の出典と矛盾が無いかなどしっかり検証してみる価値はあると思います。その中で有力案を選んで主文にして、長船友則の文章はそれなりの影響力がありますので、異説に廻すことになると思います。--Taisyo(会話) 2017年12月21日 (木) 03:43 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。祝辞の原稿は手書き(墨書)で、鉄道局長のものには鉛筆で読点が加筆されています(詳細についてはノート:宇品線をご覧ください)。十数年前に入手したもので、読み上げ用の原稿という性格上、あまり多くの方の目には触れていないと思われます。図書館や古書店などで可能な限り調べておりますが、上大河駅の移転新築落成式の祝辞を収録した刊行物には未だに出会っておりません。落成式を詳しく伝える資料すら発見できておりませんので、当然のことでしょう。なお、当時の「中国新聞」についてはまだチェックしておりませんので、機会が訪れるのを期待しております。--Lichenes(会話) 2017年12月23日 (土) 00:53 (UTC)