ノート:中国の歴史

最新のコメント:8 年前 | トピック:修正依頼について | 投稿者:Wushi

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冒頭に中国は~とあるが、それは古くから支那人が自ら中原の美称・尊称として呼称していた「中国」ですか?それとも中華人民共和国の略称としての「中国」ですか?とても紛らわしいのでせめて中原、あるいは支那と表記したらどうですか?地域が限定しやすく、曖昧さの回避にもなると考えるのですが。それと今まで続く文明とはどのような事をもって続いていると言えるのでしょうか?支那の歴史に文化大革命があります。この革命は前時代の精神、文化、歴史を否定し破壊した運動ではなかったのでしょうか?古代の文明の遺物や古跡などは世界各地に残っておりますが、「連続」したとは表現できないと思います。
(ここまで218.224.136.252さんのコメント)

人民共和国成立以前からのことを書いているのですからこの場合は当然美称としてのです。中原とは黄河流域のことで中国とイコールではありません。支那は何かと取りざたされる呼称であるのはご存知でしょう?差別語であるかどうかとかを抜きにしても、より一般的な「中国」を使うのはごく自然な事です。
文革でそれまでの文化・歴史が破壊しつくされたとお考えなのでしょうか?そんなことが容易に出来ないことは解りきった事で、現状を見てもそれは明らかです。連続したと言うのは前代の王朝の文化がその次の王朝の文化に濃厚に影響をもたらしているとの意味合いで使っており、こちらも明らかです。
また文革などを関連項目として挙げる事に関してですが、ここは中国の通史の項であり、文革や毛沢東などの人民共和国に限った事を関連項目として挙げるのは変です。らりた 2004年12月13日 (月) 13:19 (UTC)返信

>当然美称としてのです
それは支那人が自らを呼ぶとき美称なのでしょう?なぜ日本語で記事にする場合に彼らの美称に合わせなければいけないのかが分かりません。日本には古くから支那という呼称があるのだから、支那と呼ぶ方が中立的な呼称だと思いますが?それに中原が湖南省辺りを中心とした地域名なのは明らかですが、かといって単純に「中国」と言った場合に、ではそのときのチベットその他の民族自治区は中原に含むのか、といった曖昧さが生じます。もともとそれら民族自治区は中原ではなく、中国共産党が1940年頃から武力併合した地域です。ですからPRCの略称としての「中国」は当てはまりますが、中原に限った美称である「中国」には一致しません。それに支那を使わず「中国」を使い始めたのは1949年の外務省の外務次官の通達からであり、自然発生的な呼称ではありません。自然というなら、古くから用いられた支那呼称の方が自然だと思います。 >文革でそれまでの文化・歴史が破壊しつくされたとお考えなのでしょうか?
とのことですが、全くの破壊とは記述していません。しかし、文革で膨大な数の文化財が失われたのは支那人自らの調査でも明らかにされており、次、 >連続したと言うのは前代の王朝の文化がその次の王朝の文化に濃厚に影響をもたらしているとの意味合いで使っており
とありますが、辛亥革命で清王朝は滅んでおり、決して「連続」はしていないと思います。そのような意味でなら他のどの国、地域も文化が「連続」しています。
>また文革などを関連項目として挙げる事に関してですが、ここは中国の通史の項であり これもまた意味が不明ですね。通史とするにしても当然国共内戦から文化大革命くらいは記入されるべきことがらでしょう。
(ここまで218.224.136.252さんのコメント)

>なぜ日本語で記事にする場合に彼らの美称
『中原とは黄河流域のことで中国とイコールではありません。』と書いてあるのを読んでいただけてないようで。「中国」の呼称が指す領域は時代と共に変化しているものです。「中国」が自然発生的な呼称ではないと言いますが、中国は長い間中国人の自称として使われており、現在はごく一般的に使われているそれをどうして使ってはいけないのでしょうか?何かと問題にされる支那をどうしても使わないといけない理由がどこにあるのでしょうか?
>文革で膨大な数の文化財が
膨大な数の文化財が失われたことは確かですが、だからといってそれが文明が継続していないと言うことにはならないでしょう。現在の中国で古代より引き継いだ文化が多く残っているのは明らかです(と先ほども同じことを言いましたが。)
>辛亥革命で清王朝は滅んでおり
革命により文化が断絶したするのならフランス革命によりフランスがそれまで積み上げてきた文化(文化と呼んでいるのはフランス文明と言うよりはヨーロッパ文明と呼ぶべきだと思っているからです)は断絶してしまったのでしょうか?そんなわけはありません。ヨーロッパで何度か革命が起きましたが、文明が継続しているのは明らかです。この場合の「連続した」の逆の例を挙げれば、ギリシャ・ローマとヨーロッパ文明は連続していないと考えられます。このような意味合いで連続したと書いています。
>通史とするにしても
「関連項目として挙げる事に」です。これも読んでいただけてないようで。国共内戦や文革のことは本文中に書いてあります。
とりあえず議論中は編集をお控えください。と書いている間に編集されたようですが、これ以降はある程度議論が決着するまではお控えください。私もそうしますので。
らりた 2004年12月13日 (月) 15:19 (UTC)返信


中国という美称は支那側の言い分であり、日本側、あるいは中立的観点からは正しくない。ここは中立的観点で記事化にするわけですから、なにも彼らに倣って美称を使わなくてもいいのでは?ほかに支那を呼ぶ言い方は沢山あるのに、なぜに支那人が自然に使っているからと言って特別強制するのですか?それでは北朝鮮を共和国と呼ぶのが「自然」であり、北朝鮮と呼ぶのは蔑称だという構図と同じです。支那呼称を何かと問題にしているのは日本のいわゆる朝日などのサヨクメディアであり、先もかきましたが、本来は単なる外務官の通達です。それを上のマスメディアは突然差別用語だと言い出し、出版物や放送用語から言葉狩りを始めたのです。支那人の留学生数人に訊きましたが、支那は蔑称ではない、と答えました。それにsina.comというサイトはどこの国が作ったサイトなんでしょうかね。もし支那が差別用語であれば、そのような単語はサイト名に使わないはずですが。そのようなやり方で一方的に支那を禁止し、中国呼称を強制される方が当の日本人にとって、あるいは支那と同じ意味のチャイナを使うことを「許されている」国々にとっては、なぜ日本などに支那呼称を禁止しているのか逆に不自然に映ると思うのですが。 文革とフランス革命を一緒にするのはともかく、ギリシヤ・ローマとヨーロッパは連続していないとは何が連続していないのですか?言語ですか?着る物ですか?文化は循環し、常に連続するというのは常識だと思うのですが。それに文革で自らの歴史・文化を否定し、尚且つその指導者をその当時から「連続」して偉大な人物としているような国の「文明が連続」しているとは、言いがたいと思うのですが。関連事項に挙げるのは、文革はその後の支那に大きな影響を今も与えているからだと考えたからです。
(ここまで218.224.136.252さんのコメント)


  1. 名称について
    長々と書かれていますが、左翼がどうだとか言う話はどうだって良いのです。
    名称として「中国」は一般にも十分に浸透しており、それを無理に変える必然性はないということです。まず「中原」は明らかに用法の間違いです。「支那」は何度も書きましたが、何かととりざたされる呼称ですので使いたくないというのが私の意見です。絶対にとは申しませんが。それ以外に何か良い呼び名があるのならどうぞ、私には思いつきません。
    人民共和国が他国にはCHINAを許しているのに・・・なんて話もどうだって良いです。そんな事は共和国政府と日本の外務省に文句を言ってください。私の考えはとにかくこんなくだらない事で揉め事を起こしたくないということに尽きます。その218.224.136.252さんがおっしゃる「左翼勢力」がWikipediaに「支那」と書いてあると騒ぎ立てるかもしれません。それなら左翼にも右翼にも抵抗感の少ないと思われる「中国」で何が悪いのかと私などは思います。抵抗感の少ないと思われると言うところが218.224.136.252さんには中立とは思えないのかもしれませんが。
  2. 文明の連続性について
    例えば「古代エジプト文明と現在のエジプト」とは系統が違います。現在のエジプトの系統は明らかにイスラムの流れを組むもので、古代エジプト文明が影響を与えているとは思いますが、本流ではありません(と言っても私はエジプトのことは良く知らないのであまり確かな事はいえませんが)。こういった意味合いで中国では殷・周からの流れが現在に至るまで本流として存在した、連続したと書いてます。
    毛沢東がどうした、文革がどうした。と言う話もどうだって良いのです。時の政府がどんなに苛烈な政策をとってもそう簡単にそのような流れが断ち切られるものではありません。何度も言いますが、文革によってそれまでの文化・歴史が断ち切られたとは到底思えません。毛沢東が今もって国民的英雄だからということと文明の連続性とは関わりがあるとは思えません。
  3. 関連項目について
    前にも書きましたが、ここは通史の項です。ですから文革が歴史に大きな影響を与えたからとするのならば、(文革が大きな影響を与えた事はもちろん認めます)、それ以前の歴史に於ける大きな影響を与えたと考えられる事象もすべてあげていかなければいけない事になります。例えば淝水の戦い安史の乱・・・、と数え上げれば相当数になり、しかもその選び方が適切かどうかは人によって大きく異なります。そのようなことが不合理であるのはお分かりいただけるかと思います。
  4. 妥協案について
    それで、あまり議論を長々とやりたくないので、私からの妥協案を挙げます。ただ、これはあくまで私一人の考えであり、他の方はどう考えておられるかは解りません。ですので仮に私とあなたの間で妥協がなったとしてもまた別の方が変更の動議が行われる可能性があることを先に言っておきます。
    呼称は中国を主とした併記(要するに中国(支那)は・・・)と言う形。
    文明の連続と言う文は除く。
    関連項目は本文中に挙げられている項目は載せず、「中国の歴史」と言う主題を補完する項目のみを挙げる。(時代区分表・通貨制度史など)
    と言った所です。
  5. 意見募集
    先ほども書きましたが、218.224.136.252さんと私の間で合意が出来たとしても後で他の方が再び動議されるかもしれません。ですので、ここを見ている方がいらっしゃったらぜひとも意見をお願いします。後からではまた面倒になりますので。

以上、長文で失礼しました。らりた 2004年12月14日 (火) 13:05 (UTC)返信

218.224.136.252さんは何がおっしゃりたいのですか?「北朝鮮」にしろ、「中国」にしろ、現在の日本語においてその対象国を「最もポピュラーかつ、差別感なく」表す単語であるから(これを中立というと思うのですが)、このウェブ百科事典上で使用するだけのことです。中華人民共和国政府からの抗議は別にしても、「支那」という言葉が「中国」よりとおりが悪いという事実はお認めになりますよね。そんなに政治的な問題に置き換えずとも、むしろ、「現在中華人民共和国と中華民国のある領域内の歴史」くらいに考えればいいと思いますが。なお、私は中国(支那)の両論併記は認めたくありません。二つの言葉の意味と包摂している領域があまりにも異なります。
ただし、218.224.136.252さんのおっしゃるとおり「中国」という単語自体が大中華主義的志向を包含し、漢民族が清朝の領土をそのまま引き継いだ国家を作ることを正当化させしめていることについては、日本でも毛里和子氏や、茂木敏夫氏など、多くの近現代史の研究者の指摘するところです。あくまで問題は、らりたさんのおっしゃるとおり218.224.136.252さんが表面的な名称問題にこだわったり、ここのような大項目の記事にたいしてバランスを失した書き込みをされることです。どうでしょう、もし大中華主義に係る問題について記事をものしたいとお考えならば、もっと具体的なもの、例えば左宗棠のウイグル駐留以来の現地ウイグル族と漢民族の相克や、満州国時代に国民党政府を嫌い日本を支持した内モンゴルの王侯貴族、現在の共産党政府によって「作られた」55の民族の問題、地誌でもよし地域史でもよし人物史でもよし、一つの記事に拘泥して生産性のない揉め事をするより、もっと生産的になりましょうよ。最近私も余裕がなくていけませんが、書かれるのであれば及ばずながら手助けしますよ。Aboshi 2004年12月14日 (火) 15:49 (UTC)返信

エジプトの文化・文明がイスラム圏から影響を受けたら、エジプト文明、あるいはそこからくる文化の流れは終いですか?それなら他民族・多民族国家の支配、文化から成り立ってきた支那は一体何が本流なのでしょうね。それに「支那」がなにかと「通りが悪い」とは何のことでしょうか。もっと具体的におっしゃってほしいですね。例えば周りから右翼と言われるとか、軍国主義者と言われるとか、そもそも誰も使ってないとか、そういう「通り」ですか?むしろ、ときの民国、あるいは支那共産党からも「イメージが悪い」と圧力を受けて「支那」を「中国」に変えるほうがよほど偏った記事だと思うのですが。それに通史のことですが、なぜにそんなに文革を過小評価するのかがわかりません。影響と言えば、先にあげられた戦いなんかよりもよほど影響が(これからも)ありますよ。それにその事物の影響が完全に分かった段階でしか記事にできないのであれば、通史から現代を消すべきだと思います。最後に中原は地域名です。そこにある国家を古くは支那人が他の国と区別し、美称として「中国」と呼んでいました。あるいは単に「中原」とも呼んでいました。それならば、美称ではなく、素の中原の方がより中立的な呼称だと考え、中原(諸国家名+地域名としての)と書きました。中国(PRCの略称+中華民国の略称+中原の地域名の美称+日本の中国)という多数の意味のある呼称よりは中原の方が意味を限定しやすく、あるいは支那(外国から呼ぶ中原諸国家の意)でもいいのではないでしょうか。国家名と地域名をきっぱり分けられないところが支那史の難しいところだとは感じますが。218.224.136.252

なるほど、勉強になります。ただ、「通りが悪い」という言葉で収めたのはらりたさんの説明を凝縮した形で使用しただけです。私自身は呉智英氏の「「支那」が正しい」論を聞いて納得した口なのでその単語を否定はしません。ただし「支那」の語を教育現場で使用をやめて久しく、さらに「支那」を使っていた世代の方が既に多く亡くなっており、このために若い世代の多くは(とりわけ現在の中高生以下の世代は)「支那」という言葉の本来の意味自体がわからなくなりつつあります。そんな単語よりも、誰でもわかる「中国」を使うのが「今のところ妥当」というのが私の考えです。残念ですがそういった情勢にあるいまげんざい「支那」にこだわるのは、ある運動に向けた政治性以外に理由を持ちえません(ウィキの目的に反します)。もし支那という単語を中国に代わる形でここで使いたいのでしたら、日本語圏の社会に向けて運動して、「支那」の呼び名が一般的になってから使用なさるしかありません。
他の部分については、残念ながら私には理解できませんでした。中国共産党のイデオロギーと圧力的な姿勢を批判していらっしゃるようですが、あなたの見解自体もちょうどその裏返しのような感じで、残念ながら有効性を持ち得ないと思われます。ネット越しに大変ご無礼ですが、イデオロギーから少し離れ、もう少し学問的に踏み込んでみてはいかがですか?と提案させていただきます。また、相手の文章をろくに読まずに一方的な反論を述べ立てるのは、こちらが悲しくなりますので、お控え願いたく思います。Aboshi 2004年12月15日 (水) 12:13 (UTC)返信
誰の発言かわかりやすいようにしておきました。
さて、私のほうから若干のコメントをしたいと思います。218.224.136.252さんは、語の意味について何か誤認をしていらっしゃるのではないでしょうか。私にはそう感じられました。中国も支那も中原もその意味内容は大幅に異なります。もちろんこれらの言葉の外延がほとんど同じものとなることはありえましょうが、内包はそれぞれ相当に違うものです。日本で出版されている漢和辞典を御覧になればすぐわかるとおもいますが、「中国=中華人民共和国」としているような辞書はめったにありませんよ。Auf 2004年12月15日 (水) 12:30 (UTC)返信

現実には中国=PRCの略称として通りがいいと思いますが。一般的な人に「中国」とはなにかと訊かれて、支那人自らが称した国家の美称だ、などと答える人はまずいないでしょう。中原とは河南省当たりを中心にした地域であり、支那とは外国から言う場合の、中原から発達し、その文明・文化を継承し、かつ広めていった国々の呼称です。しかし上でもいわれている通り、支那は差別語らしいのであえてその表記は避け、それならせめて中原史としたらどうかと提案してみたまでです。

中原史という項目は立てられないこともないかと思いますが、日本語で通用するニュアンスからすれば、黄河中流域から下流域と淮河をはさんだ区域の地域史(中原を示す範囲が時代によって異なることについてはあえて無視します)であり、他の区域は捨象されて別モノの記事ができるだけのことです。なお、「支那」を差別語だから使わないとはらりたさんも私も申し上げていないことを付言しておきます。お願いですから人の文章を酌んで反応してくださいよ。
そうですね、もう一度あなたに「大項目に拘泥するよりも、一緒に中国近現代史の記事を書いてみませんか」とお誘い申し上げてもいいですか?Aboshi 2004年12月16日 (木) 00:59 (UTC)返信
  • ところで、こういう込み入った話題を論じられたいのでしたら、アカウントを取りませんか?変動IPであるためもあり、誰と話しているのかわからなくてちょっといやです。よろしくおねがいします。Aboshi 2004年12月16日 (木) 02:57 (UTC)返信

「中国」が美称かどうかですが、これは美称です。 「日本」や「朝鮮」などが美称であるのと同様に美称です。 もし中国(政府)が公式に日本のことを美称で呼ばない、たとえば「倭」とか「倭奴」とか呼び変えているのなら、相互主義に基づいて相手を別の名で呼ぶのもいいでしょう。 しかし、そうではないのですから、まっとうな良識を持っている人間なら、美称で呼ぶほうがよろしい。これはマナーの問題です。 それから「支那」ですが、これは歴史的な侮蔑語・差別語のたぐいです。 先回りしておきますが、もちろん語源的には侮蔑的意味はありません。 「秦」(Qin)の語がインドに伝わってサンスクリットとして使われ、それが仏典とともに逆に東伝してきた語の訳語ですから、本来的には侮蔑的意味はありません。 しかし、近現代の日本では、「支那」は価値中立的な用語として使われてきてはいません。時代が下るほど「遅れた」「劣等国」「三等国(民)」のニュアンスに近づいて使われてきています。 両論併記の仮面をかぶって、このような語句を「中国の歴史」の項に割り込ませることに、私は反対です。 もちろん「支那」を使いたい・布教したい人々が個人的に使用するのは勝手です。何も強制しませんし、干渉しません。Wikipediaに「支那」「支那の歴史」の項目が立てたいのであれば、ご自由にどうぞ。ただし「中国の歴史」に割り込ませないでいただきたい。 ちなみに中国の歴史の「連続」についてですが、紀元前841年より以降は紀年や画期がはっきりしております。一度も途切れていません。文化的にも変遷はありますが、黄河文明以来断絶がないことがはっきりしています。そういうことを「連続」と言っているのです。文革はたしかに旧文化否定の運動ではありましたが、旧文化を断絶するにはいたりませんでした。実際、現在でも進んでいる孔子の再評価ほか反例はいくらでも挙げられます。では。(ここまで202.224.71.33さんのコメント)

↑ええと・・日本は美称なのかどうかはともかく(日ノ本だから美称っていうのはちょっと微妙だし、支那から見た方角とする意味でも美称となるのかは疑問)、日本は外国人からジャパンとも呼ばれます。中国は外国人から支那(あるいは近似音のチャイナなど)とも呼ばれます。日本は外国人からの日本の呼称「ジャパン」を「差別語」あるいは「蔑称」として禁じたことはありません。しかし支那は民国の時代に外交によって日本に支那呼称を禁じています。今もそれは有効で、とくに朝日やTBSではおどろおどろしいテロップ(石原発言のときなど)でいかにも差別用語であるかのように印象操作しています。江戸時代末期から支那を使い始めて、明治、昭和と使っています。それがなぜいまさら差別用語になるのでしょうか。一部の人は日清戦争のときに、日本が清に勝ったときに日本人が使ったから軍国主義者の蔑称だ、と主張しています。その主張はWW2のときの国歌・国旗が君が代・日の丸だったから変えろという主張と同じで、いずれも特定の政治的プロパガンダに沿った主張です。いま日清戦争を体験した世代の人もいないのに、なぜ蔑称の意味が生じるのか常識的に考えれば疑問がわくと思います。時代が下れば下るほど年代ワインの熟成のように差別感が増していくなどという説はいまだ聞いたこともありません。あなたこそマルクス主義史観、共産主義を「布教」しているんじゃありませんか?ここは政治的プロパガンダを行う場ではなく、中立の立場で記事にするサイトです。それと歴史の連続に関してですが、そのような連続では何も特筆すべき事柄ではないですね。どの国家、地域も大体は連続していますし。

一応、支那が差別用語ではないという例を挙げておきます。

  • 東シナ海という海があります。差別語なら支那の二文字を消すはずです。社民党の事務所は「東中国海」と表記してますが。
  • 2000年あたりに新浪網公司という支那のネットを経営する会社が「支那は蔑称ではない」と表明しました。
  • そしてsina.comは支那人が作ったサイトです。日本人が「ジャップ(ニップ)ドットコム」なんてサイトは普通作りませんよね。

分かりましたか kouei 42くん。正体が文体によってばればれですよ。ここは荒らしは禁止なので2ちゃんで工作してきてください。(ここまで218.224.135.131さんのコメント)

    • 差別語かどうかの分かりやすい例

(中立的呼称)       (差別的呼称・蔑称)      (尊称・美称)

支那人、チャイニーズ  →  チンク、チャイナマン  →   中国人(支那人の自称。PRCの略称ではない方)
日本人、ジャパニーズ  →  ジャップ、ニップ    →   なし(大日本人?)

こういうことです。支那が蔑称なら支那人以外の外国人が呼ぶチャイナ、チナ、シーノも同じく蔑称になりますが、他の外国人はそう呼んでいますね。またそれらの外国人が、日本語でチャイナを表現するには「支那」と呼ぶはずです。なぜならチャイナは支那と同じ意味で、日本語が外国語かの違いしかないのですから。日本だけ(あるいは漢字圏)を逆差別する用語でもあります。では支那が日本を日ノ本の「日本」と呼ばず「倭国」と呼びだしたらどうするんだ、と言われそうですが、「倭」という当て字は、当時の支那人が背が低いとか小さい国という意味の漢字で表した、蔑称です。それなら同じく「支那」も末端の国という意味で、蔑称ではないか、と思われるでしょうが、それは宋代のときの支那人自らが「支那」と当て字をしたのです。けして日本発祥の当て字ではありません。「支那」も「チャイナ」も単なる外国人から呼ぶ場合の呼称にしかすぎないのです。(ここまで218.224.135.131さんのコメント)

再び、誰の発言かわかりやすいようにしておきました。
さて蔑称やら美称やらの議論に関わるつもりはありません。218.224.135.131さんも202.224.71.33さんも、記事のノートページの使い方を誤解していらっしゃいませんか。ノートページは「記事をよりよいものにするために話し合う場所」であり、「自説を陳列したり、論争のための論争をする場所」ではありません。Wikipedia:ウィキペチケットWikipedia:ノートページをご覧下さい。Auf 2004年12月18日 (土) 12:38 (UTC)返信

ときに朝鮮は美称じゃないでしょ。支那語の意味で貢物(朝)少なし(鮮)って意味でしょ。で、日本は単に中原からしたら日の昇る場所という意味の、方角に関する呼称でしかないとするなら、蔑称にも美称にもあたらない。外国人(日本人以外)の呼称日本国の、支那語よみから訛ってジャパンとなったわけでもあるし。何も日本という意味には世界の中心であり、他の国は辺境にすぎないという尊称は含まない(もちろん日の昇る国とあるから、周囲の国々にとっては尊大な呼称だ、と主張する人もいるが)。なによりどの国にも尊称(大日本とか)を強制はしていない。

だから、ここでメタかつ関係のない議論をするのはやめてくださいます?218.224.135.131の今なさっている議論はただの知識のひけらかしにしか見えないのですが。少なくともらりたさんや私、Aufさんの論にどこかリンクした部分がありますか?Aboshi 2004年12月18日 (土) 14:33 (UTC)返信
珍説ありがとうございます。「朝鮮」の初出は、司馬遷『史記』ですが、まず語源的にそのような意味はありません。宋微子世家第八に見るとおり、殷の聖人箕子が封ぜられたところが、そのような意味を持つはずもありません。後世的な意味としても悪意的な付会に属するというべきでしょう。そもそも「鮮」を「すくない」と読むのは、『論語』学而第一の「功言令色、鮮矣仁」(功言令色、すくなし仁)のような例がありますが、「朝」を「貢物」と取るというのはどんな漢和辞典に載ってますでしょうか?「日本日本日」「朝鮮朝鮮朝」という洒落がありますが、このあたりに両国の誇りがにじみ出ていると思います。日本の国号も『旧唐書』倭国日本伝の「倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となす」とあります。繰り返して言いますがこれらは美称です。美称を尊重するのはマナーです。私も貴方に何かを強制するつもりはありませんが、「中国の歴史」の項に「支那」を列挙するのは不適切だと思うという意見の表明の末葉にすぎません。AufさんとAboshiさんには申し訳ありませんでした。私も末葉の議論をするつもりはありませんので、以後自粛します。

これからの方針について 編集

いままで、このノートでいろいろなことが指摘されてきました。

とりあえず、これからこの記事をどうしていくのかについて、私のほうからいくつか提案したいと思います。

  • 中国の名称の問題
    中原や支那を入れておけという意見がありますが、これらの言葉を何の説明もなしに記事中に単に併記するのでは、これらの言葉の意味が誤解されうると思います。誤解を避けるためには説明を加えなくてはなりませんでしょうが、それは中国の記事で十分説明されていることでしょう。それゆえに、わざわざこの記事で説明する必要は無いと考えます。
  • 関連項目にあげるべき項目
    上で、らりたさんがおっしゃっている通り、中国史上の重要な事件を逐一あげるのは冗長ですし、それは、記事の概略の節から文章中からリンクされることが自然かと思います。
    年表やテーマ史(中国の通貨制度史など)をリストすれば十分かと思います。
  • 概略の圧縮
    中国の歴史は叙述しようと思えば、いくらでも長く書けるわけですが、この記事ではあまり長くなりすぎないほうがいいでしょう。そう考えてみると、近現代史が若干細かいところまで指摘しすぎているかもしれません。

Auf 2004年12月20日 (月) 13:05 (UTC)返信

時折、中華人民共和国の所の死者の数で緩やかな編集合戦が行われているようですが、人数自体省いたほうが良いでしょうか。らりた 2006年1月5日 (木) 04:57 (UTC)返信

記事内容に付いて 編集

刺史制度が後漢末期からと書かれてますが、前漢武帝からではないでしょうか?そういう新研究があるのでしょうか。らりた 2006年4月1日 (土) 12:23 (UTC)返信

ちょっと調べてみます。らりたさんのほうでも何かわかりましたら連絡をください。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 12:34 (UTC)返信
『漢書』に武帝元封五年初置部刺史とありました。らりた 2006年4月1日 (土) 12:39 (UTC)返信
ええ監察としての刺史制度は前漢に始まるのはすぐ確認できました。そうではなくて、ちょっと行政権との関連について調べています。監察制度としての刺史制度が武帝の時代に始まるのは間違いありません。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 12:44 (UTC)返信
ああ、そういう意味ですか。現在の記述だと誤解を招きませんか?
それで、行政権という点では現在の記述の後漢末期(霊帝期)、二千石に改められた成帝の時、治所が州内に固定されるようになった建武十八年の時と色々あるように思います。らりた 2006年4月1日 (土) 12:58 (UTC)返信
ふむ。わかりました。適正を欠く表現ですね。具体的には後漢末期に辺境での争乱が活発になると、刺史に軍事権を与えて牧伯としたするほうが正しいようです。ただし牧伯は刺史とおなじように一定の在所をもたないようですね。後漢書の巻105をサラ読みした程度で、ちょっとまだ論文には当たってませんが、刺史制度ではなく牧伯制度とでもいったほうがほうが的を射ているようです。ちょっと修正してみます。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 13:10 (UTC)返信
在所についてはちょっと調べてみます。すぐ返答できると思います。らりたさんのほうで適切な表現が思いつくなら、好きなように改めてもらってかまいません。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 13:10 (UTC)返信

とりあえず牧伯については必ずしも刺史と置き換えられたものではないようです。というのは暫定的ですが、牧伯制度を特殊な刺史制度と見ることも可能なようです。ともかく暫定的な返答で申し訳ありませんが、新事実がわかるまでこれしかいえません。刺史が何らかの形で行政に関与しているのは確かなようです。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 13:26 (UTC)返信

「新事実」というのは私の方での「新事実」です。ちょっと研究論文を当たってみないとまだはっきり刺史がこうだとは言えません。ちなみにこの箇所では宮崎の『九品官人法の研究』にほとんど依拠していたはずです。ほかにも参照してますが。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 13:29 (UTC)返信

とりあえずそんなに矢継ぎ早に返事を頂かなくても大丈夫ですので、資料を調べるのもゆっくり時間のあるときにお願いいたします。私も手元に資料が揃っている訳ではないのであまりすぐには返事できません。とりあえず山川『中国史1』に「前八年、州刺史が州牧と改名され、州は地方行政の最高の単位となり、州牧はその長官としての行政官となった。」と書いてました。これを書いた太田幸男氏がどのようなことを根拠にこれを書いているのかはちょっと解りませんが。らりた 2006年4月1日 (土) 13:37 (UTC)返信

ああそれはおそらく誤りです。刺史は牧伯に完全に置き換わったのでないことはちょっと今は具体的には言えませんが、宮崎の前掲論文での言及でも明らかであると思われます。まあゆっくり調べて満足のいく返答が出来るようがんばってみようと思います。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 13:41 (UTC)返信
というのも、牧伯制度が広汎におこなわれていて、それが軍事・行政・監察を完全に掌握していたとすれば、軍府がどうしてあらわれてきたかという問題とおそらく対立すると思われます。これは今の私の見方ですので正しいかどうかは言えませんが、牧伯とは別に刺史という表記が史料上に存在していることは明白らしく、しかも軍事権を持っていたとは言えないようです。宮崎は都督に伴う軍府制度を重視しているようです。とまあ、これ以上はどうもいまいち私もわかりません。少なくとも後漢末期に刺史制度に重要な変革があったことは確からしいという感じですかね。いまのところ。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 13:50 (UTC)返信
とりあえず宮崎の論点はわかりました。詳しく説明します。刺史は前漢にさかのぼるけれども、当初は単なる監察機関で特定の吏僚や在所をもたなかったため、この時代は地方行政を担っていたとは言えない。後漢時代になると秩二千石相当の州牧となって、群雄割拠の傾向とともに一時的に軍政も回収したようであるが、魏の時代にはすでに改められ、刺史は州の属僚人事権を持つが、軍事は軍府が別に存在しており、この人事権は中央が握っていた。しかるに徐々に軍府の長官が州刺史も兼ねるようになり、民政軍政両面の人事権をにぎるようになっていったとすることらしいです。したがってこの見方に従えば、後漢末期に刺史が軍事権を獲得したが、それがそのまま軍事権を保持したのではないこと。宮崎は州の役所を中央からの出先機関的に見ていて、郡までとは実態が異なっていると見ていること。したがって一様に州-郡-県となったという見方は保留される余地があると考えているようです。とはいえこの論文は全く人事権に伴う貴族制度の研究ですから、行政制度論が主題となっているわけではないですね。ただ刺史が牧伯に置き換わったという説明はちょっとよくないようです。とりあえずこれは暫定的な結論です。軍事的な刺史制度が後漢末期に始まったという記述もあながち的はずれでなく、州牧制度に変質したというわけでもないようです(したとしても非常に一時的)。この観点が正しいかどうかはほかの研究論文を当たってみないと何とも。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 14:34 (UTC)返信
川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』では、とくに曹操や袁紹の軍事力の由来を州牧という地位にではなくて、門生故吏関係に求めているようです。したがって川勝は州牧が軍事力や行政権を持ったのは事実だが、それは州牧という地位に完結的に由来するものではなく、後漢末期の動乱では門生故吏関係に求められるべきと考えているように思われます(川勝は渤海太守にすぎない袁紹に冀州牧である韓馥がくだったことを門生故吏関係に基づくものとみています)。まあともかく州牧に変質したことが州刺史に行政権を獲得する最も重要な契機になっているとは見づらいようです。事実川勝はこの門生故吏関係が魏の国家的性格を規定していると言及しています。したがって州牧制度という形で州牧が軍事権・行政権を回収していたかというような問題はやや複雑といわざるをえないでしょう。そもそも州牧制度自体がもともと例外的であるように思えます。したがって川勝は「漢帝国の兵制と魏の兵制が直接連続するものではないとみるべき」と述べています。行政制度としての州が魏でにわかに現実化したのは確かですが、それが後漢に生じた軍事権をあわせた州刺史としての州牧に由来するのかどうか、川勝と宮崎は(まあ師弟関係ですから当然でしょうが)どちらかといえば州大中正などに見出しているようですね。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 14:58 (UTC)返信
『東漢会要』では『通典』からの引用として、「霊帝中平五年、改刺史、唯置牧、是時天下方乱、豪傑各欲拠有州郡、而劉焉・劉虞並自九卿出領州牧、州牧之任、自此重矣」としています。宮崎の『九品官人法の研究』には、魏では「州領兵刺史(秩二千石)」になっています。軍府とは別個であったようです。『通典』は刺史制度が行政制度になったとすればおそらくここだと見ているわけです。これらの記述を信じるするならば、魏の時代には刺史に戻されているわけですから、州牧制度あるいは牧伯制度とするのではなく、行政制度としての刺史制度とすべきと言えるような気もします。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 16:10 (UTC)返信
ここまで一つ自分の誤解に気づきましたが、刺史は州牧に改められたあとに刺史に戻っているのですね。一部不適切な発言に取消線を加えます、失礼しました。つまり太田の文章は正しいです。ただしそれが州牧のまま定着したのではなくて、すぐに刺史に戻されたらしいです(呼称の上では)。州が実体化したのは中正制度との関連からもおそらく魏代だと思われますから、やはり刺史制度とするのが適切かもしれませんね。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 16:20 (UTC)返信
つぎに西嶋の『秦漢帝国』にあたりました。西嶋は前漢成帝のときに秩二千石に改められた際に、州の監察が御史中丞に移行されたらしいからこの時点で州牧が行政官になっていると見ているようです。これは太田と同じ見方でしょう。
とすれば、宮崎の「ところで州大中正がおかれることになると、これは郡中正とは少し性質が違うのである。というのは漢代まで、地方自治の単位は郡であり、州は単にこれを監督する区分に過ぎず、決して郡の上に立つ行政区分ではなかったのである」という見方と、西嶋の「後漢以降の地方行政官としての刺史(州牧)」という見方があるようですね。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 17:28 (UTC)返信
川勝は『魏晋南北朝』(これは西嶋の『秦漢帝国』と同じシリーズ)で「188年、政府は各地方を強力にまとめて中央に結びつけるために、各州に軍政・民政の両面をとりしきる州牧を置き始めた」としています。ともかくどうも視点が二つに分散しているようです。--Kanbun 2006年4月1日 (土) 18:01 (UTC)返信
中文版では「黃巾起義後,州由監察區變為行政區,成為郡以上的一級政區。」となっていました。おそらく通典の見方を継承しているのではないでしょうか。--Kanbun 2006年4月3日 (月) 12:21 (UTC)返信

毛沢東への個人批判などについて 編集

ここでは通史的内容にとどめるべきであり、毛個人の評価については毛沢東の記事などに書かれるべきでしょう。私自身も政治史に毛が深く関わっているため、自分の編集箇所で言及していますが、これは毛の評価をしようと思って含んでいるのではありません。--Kanbun 2006年4月8日 (土) 06:56 (UTC)返信

文革が大量虐殺であったなどというようなこともここでは極力言及を避けるべきでしょう。あくまで政治史的な動向のみの概略にとどめるべきだと思われますが、いかがでしょうかね?--Kanbun 2006年4月8日 (土) 06:59 (UTC)返信

多数の死者を出したことを全く記述しないのなら、十分な情報を提供することにはなりませんね。

注釈、選別しようとおもいます 編集

内部リンクと注釈どちらにも記述する必要はないと思われるので、注釈を減らしていこうと思います。ほぼ同内容である場合は注釈を削り、内部リンクと注釈で書いていることが異なる場合、注釈の内容を内部リンク先に反映させるようします。徐々にですが。--Tears for Asia 2006年7月1日 (土) 15:04 (UTC)返信

他の民族の動向などについて 編集

非常に、近代中国史の記述において、漢民族以外の民族についての記事の量が多く感じます。もっともこれは、「中国の歴史」のページの古代部分が、編年体であるのに比べて、近代部分がどちらかというと紀伝体の様相を呈していることに起因するとも思えます。ここは、「中国の歴史」本体は編年体で簡潔にし、重要な事項だけ並べ、「他の民族の動向」などは、紀伝体のように他のページでひとつのテーマとして扱う方がいいと思います。そちらの方が、「中国の歴史」本体と「他の民族の動向」「中国の枠組みをめぐる二つの路線」などの記事両方の質と量の向上に繋がると思いますが。また、地方行政制度や外交も別記事にしたほうが、編年体の簡潔な通史となって良いと思います。ド・ゴール 2006年8月2日 (水) 14:31 (UTC)返信

私も基本的には賛成です。中国の行政制度史中国の外交史中国の祭祀制度(あるいは皇帝祭祀)などに分散させるのがよい気がします。当該部分はいまのところ当方が記述したまま残っているようですし、もしそのような意向でコミュニティの合意が形成されれば、現状に大幅に改稿して新たな記事の作成に努力したいと思います。--Kanbun 2006年8月2日 (水) 14:37 (UTC)返信
通史としての流れを重視すべき記事である以上、ド・ゴールさんの意見に賛同します。漢民族以外については、各々の民族事項で詳細に述べられるべきことですから、通史的な主の流れとは別の小見出しで簡潔に紹介するだけでよいと考えます。ただ、民族問題をひとつにしてしまうのはかなり難しいとおもいますので、おおよその時期区分(これもなかなか難しいでしょうが、近現代なら「中国の民族問題」のような小見出しで)ごとに通史末尾に簡単な紹介記事を付し、該当する民族についての専門記事への誘導をはかるのがよいと考えます。--sower05 2006年8月7日 (月) 00:47 (UTC)返信
「漢民族以外の民族の動向(1913年~1945年)」内の箇条書き部分は文章を読み進めるうえで却って障碍になっていると思います。そこでの内容は、個人的には各専門記事で扱うべき事だと考えますが、執筆者が本記事内で扱うことを主張するならば平易な文章になおすべきではないでしょうか。--202.250.174.200 2007年7月25日 (水) 02:33 (UTC)返信

平勢氏の論に付いて 編集

平勢氏の論は現在の中国史学界からは半分無視された状態であり、それが「最も正確と考えられる」とは一体どこの誰がそのような考えを出しているのでしょうか。克殷年代に付いては「諸説ある」として各論を併記するのが最も現在の史学界に忠実な態度と思われますがいかがでしょうか?らりた 2007年3月13日 (火) 11:59 (UTC)返信

訂正。各論の併記はこの項ですべきではなくの項でやるべきでしょうね。私がそのことに付いて殷の項で少し書いてます。ちなみにこれは平勢氏が山川「中国史1」で書いた文章を元にしています。らりた 2007年3月13日 (火) 12:04 (UTC)返信
平勢説に対しては2001年~2002年頃より多くの批判が噴出しており、しかも平勢氏はそれらの批判にまったく答えていません。このような状況下で、平勢説が「最も正確と考えられる」と判断した主体は誰なのでしょうか?
「ただし克殷の年代については」から「参照されたい。」までは削除すべきでしょう。
ついでながら、克殷の年代も「紀元前1046年頃」ではなく「紀元前12~11世紀頃」くらいのほうが適切ではないでしょうか。
反対も内容なので削除しました。らりた 2007年4月7日 (土) 23:42 (UTC)返信

レヴォリューション 編集

革命歌の項目で、中国の革命歌について書いてみたんですけど、歴史考証等に全く自信がありません。間違ってる箇所があったら是非是非訂正をお願いします。Blueroses5327 2007年3月14日 (水) 06:22 (UTC)返信

抗日戦争について 編集

現在、1931-1937の期間を抗日戦争としていますが、日本でも中国でも抗日、日中戦争は1937-1945とするのが主流だと思うのですが。あと、このまとめ方だと、この時期の国民政府の統治を軽視しかねないと考えます。例えば註8にある法幣改革にしても、これは1935年に行われたものです。--ポコポコ 2008年10月8日 (水) 04:52 (UTC)返信

1931-1937の期間について、「満州事変と中日対立」などと項目名を改めることを提案します。あわせて、第二次国共合作もこちらに移すべきでしょう。また、国民政府の項目もせめて1937までは延長すべきとは思いますが、それはまた後回しで。--ポコポコ 2008年10月28日 (火) 03:31 (UTC)返信

一部撤回--ポコポコ 2008年10月28日 (火) 12:07 (UTC)返信

とりあえずタイトルのみ修正。十五年戦争史観にとるにせよ、37年までを「抗日戦争」、37年以降を「日中戦争」と分けるのには違和感がありました。余裕があれば満州事変後の日中関係も入れるべきなのでしょうが、時間が・・。--ポコポコ 2008年11月5日 (水) 14:44 (UTC)返信

Template:中国の歴史における議論について 編集

現在、Template‐ノート:中国の歴史において明を滅ぼした李自成が建国したとされるTemplate:中国の歴史に入れるか否か、また入れるとしたらどのように入れるかが議論されています。テンプレートに入れるべき王朝の範囲を決める重要な議論になるかと思いますので、の位置づけも含め、ご関心のある方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントとご教示をお願いします。--203.124.91.163 2008年10月19日 (日) 17:51 (UTC)返信

Wikibooks移動草案 編集

Wikibooksに移動したほうがいいと思います。

  • 理由は、
    1. 百科事典というよりフリー文書向けだから
    2. ここでは{{cleanup}}が貼られるほど加筆されているが、向こうでは優遇される[要出典]
    3. 客観的に。

以上草四郎時貞Talk/Log 2011年12月10日 (土) 03:24 (UTC)返信

修正依頼について 編集

本記事は中国の近代史部分について冗長の記載があります。また、大言壮語的な記載も散見されてます。記事全体の修正が必要と思います。--Leowll会話2015年11月25日 (水) 14:34 (UTC)返信

とりあえず具体的提案がほしいです。どこが冗長で、どこが大言壮語か。WP:Vを踏まえたうえでの外科手術を貴殿がなさるのであれば、問題ないと思います。そういった執筆者をウィキペディアは歓迎します。--Wushi会話2015年11月26日 (木) 15:08 (UTC)返信
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