質問:三田渡mp盟約と通信使来日の時系列 編集

【疑問】三田渡の盟約と通信使来日の時系列下記2点について教えて下さい。

相次ぐ侵略

の項に関し、

1636年1月、ホンタイジは10万の兵を率いて疾風のように鴨緑江を越え、わずか5日目にソウルを蹂躙した。

の時期は、
1637年(または1636年12月)
ではないでしょうか?(参考wikiタイトル:丙子胡乱)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AD%90%E8%83%A1%E4%B9%B1

また、

通信使

の項に関し、

この年正月に三田渡の盟約によって清の冊封国となったので、本格的に日本との安定的友好関係を築こうとしたからであろう。このため、通信使任絖らは日本に朝鮮が大清の傘下に入ったことを伝えるとともに南方物産確保のために特別に日本に赴いたものである。

の考察は、
三田渡の盟約が1637年であり、この通信使来日が1636年であるならば、タイミングが逆転しているのではないでしょうか?(参考wikiタイトル:朝鮮通信使)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF

(私の疑問を読んでいただいてありがとうございます。仁祖の時代は日清との外交上、大変興味を持って拝読しています。) --JyuenGojussen会話2015年7月13日 (月) 15:15 (UTC)返信

多重アカウントによる文献での所在が確認できない後宮の取扱について 編集

KDDIのv6可変IP群(頑強な対話拒否の咎で投稿ブロック依頼が現在提出されています)により執拗に加筆されている淑儀朴氏(現在コメントアウト中)について一時的に記事から除去する事を提案致します。仁祖の後宮は朝鮮王朝実録(補充資料として燃藜室記述や韓国民族文化大百科事典、斗山百科などの歴史文献やオンライン百科事典)で所在確認をし所在が確認されている、あるいは朝鮮語版で記事が作成されており、そちらで文献が担保されている(こちらに該当する方は少ないですが)人物に限り記事中に掲載をしております。

問題の淑儀朴氏ですが、前者は所在未確認のため加筆時に記事から外したのですが、件のIPおよびそのソックパペットにより執拗に加筆が行われております。どこの文献に出ているのか明記しろと呼びかけてはみましたが対話拒否を行っている状態です。所在が確認できましたら掲載する事自体は問題がないのですが、それまでは記事中に掲載するべきではない人物と考えます。--Ohtani tanya会話2019年3月26日 (火) 15:17 (UTC)返信

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