ノート:佐久間象山

最新のコメント:15 年前 | トピック:佐久間象山遭難碑について | 投稿者:Tak1701d

佐久間象山の電信実験について 編集

佐久間象山の電信実験について、 「さらに嘉永2年(1849年)には、故郷松代で日本初の電信実験を成功させている。・・・ ペリーが日本来航の際、電信機を持ち込んだが、象山はその4年も前にその実物を書物を駆使して完成させたということである。」  とありますが、これがまったく事実でないことはすでに十分明らかになっております。このような説が現在でも多数流布していますが、影響力の大きいWikipediaにまで記述されることは問題なので、以下に説明します。

 もともと象山の早期(ペリーの再来航1854年以前、以下同じ)実験説には資料的根拠はまったくありません。調べた限りでは、「日本電気事業発達史」(加藤木重教)1916(1)に、「蘭書に拠り電信機の原理及構造を研究して自ら之を製作し信濃国松代町に於て通信を試みたりと伝えられる。」と載っているのが最も古い記載ですが、「伝えられる」と言うだけで、何も根拠を示していません。 以来多くの書物がこれとほとんど同じ内容を繰り返していますが、特に影響が大きかったのは、「江戸時代の交通文化」(樋畑雪湖)1931(2)、「逓信事業史」(逓信省)1940(3)、「日本科学技術史」(朝日新聞社)1962(4)であり、特に後の2つは、その出版元の権威から,大きな影響力を持ったと思われます。しかし、これらの記事はいずれも樋畑雪湖の影響下にあるもので、独立な資料とは認められません。 早期実験説の根拠とされるものは、  1.逓信博物館(現逓信総合博物館)所蔵の絹巻き銅線  2.五明静雄談(1921年、齋藤 勲の記録(1970年)(5)による) しかありませんが、1.は24ターンの絹巻き銅線で、「嘉永二年比佐久間象山翁電機ニ使用シタル絹巻銅線」という記載が銅線を載せた板?の上にあります。この記載がいつ書かれたか不明であるうえ、「電機」とあって「電信」とはいっていません。  2.は当時86歳の老人の70年以上前にあたることの懐旧談の、数十年後日の記録で、その信頼性に疑問があります。   一方早期実験説を否定する根拠は多数ありますが、代表的なものは、  1.象山が参考にできた書籍の存在  早期実験説の多くの資料が「ショメールの百科全書」を挙げていますが、これは電信発明以前の書で、電信のことは書かれていません。わが国に舶載された蘭書で、電信機のことを記載している最初の本「理学原始」第2版のオランダでの出版は1847年でありますが、嘉永2年(1849年)春までに象山が入手できたか、当時の交通事情からきわめて疑問視されます。  2. 電池の製作時期(6)   象山が電池の製作に始めて成功したのは安政5年(1858)であり、電池がなくてどうして電信の実験ができるでしょうか。   3.象山自身の手紙(8)  象山自身が、嘉永6年(1853年)薩摩屋敷で見たファンデルビュルグ窮理書で「テレガラフ・ヂアマグネートの事など始て承知」したと書いています。 特に電池と、象山の手紙は決定的なものと思われます。象山自身の発言は最近の「サムライITに遭う」(中野 明)(9)でも強調されています。  早期実験説否定の詳細な考証は関 章のきわめて説得的な論文(6)にあります。  以上説明したように、早期実験説は完全に否定されていますから、Wikipediaのこの部分は抹消されるべきと思います。現在でも、地元長野県の観光資料はもちろん、多くの書籍で述べられているのは事実ですが、ナショナリズムがバックにあり、前人の記載をそのまま繰り返し引き継いできた結果でしょう。  電池完成後のいつかの時点で、電信の実験が行われたかについては、はっきりした資料がなく、「何とも言えない」(7)というのが正しいと思います。科学技術史の学術的な書籍 (10)では当然ながらこの件はまったく取り上げられていません。したがって象山の概略伝記では、電信実験のことは何も触れないのが妥当と思います。もちろん象山の、他の、資料のはっきりしている科学技術に関する業績は述べられるべきと思います。

 参考文献  1.加藤木重教:日本電気事業発達史 前編、電友社、1916  2. 樋畑雪湖:江戸時代の交通文化、刀江書院、1931  3. 逓信省編:逓信事業史 第二編、逓信協会、1940  4. 朝日新聞社:日本科学技術史、朝日新聞社、1962  5. 齋藤 勲編:日本の先覚者佐久間象山、第2版、象山神社奉賛維持会、1970  6. 関 章:佐久間象山の電信実験、産業考古学 32号、産業考古学会、1984  7. 若井 登、高橋雄造:てれこむノ夜明ケ-黎明期の本邦電気通信史-、電気通信振興会、1994          8. 東 徹:佐久間象山と科学技術、思文閣出版、2002  9. 中野 明:サムライ、ITに遭う 幕末通信事始、NTT出版、2004  10. 例えば日本科学史学会:日本科学技術史大系 第19巻・電気技術、第一法規出版、1969

                        2006.3.10   中川三男  上記ノートに明らかなように象山のペリー来航前の電信実験説は今日完全に否定されている。このノート掲載の後、一度訂正された版に変わったのに、また誤った記載ものが出ているので、再度訂正を お願いする。もっとも明白な理由は象山自身が勝海舟あての嘉永6年の手紙(書簡番号437)(1)に、薩摩の蘭書で電信のことなど初めて知った書いていることである。Wikipedia の説明文には他の多くに信頼すべき出典が付記されているのに、この「嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行った」という部分には全く出典がない、当然である。  これに関し「日本電信発祥之地」の石碑写真は削除すべきである。この碑は信越通信局(電電公社の地方組織)が昭和28年に松代市の「開国100年記念行事」の際、象山神社の境内に建て、昭和36年に現在地に移転したものであるが(2)、創建当時も何ら確実な資料の裏付けはなく、移転の際にも電電公社並の調査(3)を行ったが、当然ながら根拠となる資料はなかったものである。象山の早期電信実験が否定されれば、後に仮に何らかの実験を行ったとしても(これも資料は全くない)、佐賀、薩摩藩の実験より早いと言えず「電信発祥之地」とはいえない。写真の持つ影響力を考えると、歴史に対する誤った認識が固定することを恐れる。 出典

  1.象山全集(改訂版)、信濃教育会、1934-35

  2.信越の電信電話史、信越電気通信局、1972 

  3.赤羽弘道:佐久間象山の電信機の研究、電信電話業務研究、1963,1.31,日本電信電話公社業務管理局、通信文化振興会

                        2017.2.5 中川三男

電信機について 編集

上記の意見もあり、コメント化しました。情報源が明記された時点で、再表記して頂きますれば、と思った次第です。--一般人 2006年8月14日 (月) 02:48 (UTC)返信

佐久間象山がダニエル電池を製作したのはいつなのか 編集

これについて調べてみた結果『1849~1860の間』という曖昧な結論しか出ませんでした。様々な年代が唱えられているという事を書き留めておきます。

--釣本直紀 2008年2月11日 (月) 18:48 (UTC)返信

佐久間象山遭難碑について 編集

 佐久間象山の遭難碑として掲載されている写真ですが、これは京都市中京区の三条木屋町にある道標で、写真をよく見れば「北に約壱丁」という指示が読み取れます。実際の碑は、更に北へ行った場所にありますので、そちらを掲載すべきだと思います。

  • 佐久間象山の遭難碑ではないのですから、画像を削除しても差し支えないと思います。実際の碑は「旅館幾松」前の高瀬川の対岸にあります。

--Tak1701d 2008年9月13日 (土) 22:24 (UTC)返信

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