ノート:佐治一成

最新のコメント:13 年前 | 投稿者:M.F

三姉妹の情報ですが、江の離縁後の略歴は、最低限の情報で脚注に入れておくと良いのではないかと思います。あと、茶々については秀吉の室となった経緯を紹介しておかないと、なぜ「御台」と称されるのかこの記事における情報だけでは不明ですから、脚注部分で補足が必要であると考えます。加えて、後段部分も市の最後を書きたいわけではなく江を含む三姉妹の動向情報ですから、一成との婚姻に関して最低限必要な情報の一部ではないでしょうか。私はなるべく読者の予備知識がない状態でも、ひとつの記事内だけで意味が通じる構成にしたいと考えているのですが。--でここ 2011年4月17日 (日) 13:16 (UTC)返信

予備知識がない読者にも意味が通じるようにするべきなのは、その通りだと思います。しかし、この記事はあくまで佐治一成の記事なので、江については佐治一成との接点に絞って記述するべきなのではないでしょうか。この記事で直接の関係がない人物の経緯を過剰に記述することは、記事のテーマを発散させ記事を読みにくくしたり、記事間で矛盾を発生させたりする原因になります。すなわち、この記事では佐治一成自身の動向がもっとも重要であるはずなのに、それが追いにくくなってしまいます。よって、他の人物についての記述は、必要最小限にとどめるべきだと思います。たとえば市が柴田勝家に嫁いだり、三姉妹が豊臣秀吉に引き取られたりといった記述は、佐治一成との接点がほとんどなく不要だと思います。江、市、茶々などの動向については各人物の記事がありますので、クリックしてそちらの記事を参照してもらえば済むことです(アンカーを使用して、記事中の記述を参照させるようにすればより親切でしょう)。
なお、佐治一成と江の婚姻関係については、各説の結論とその出典のみを簡単に紹介すれば充分ではないでしょうか(根拠を詳細に知りたい人は、出典の文章を読むべきだと思います。そのための検証可能性なのですから)。--M.F 2011年5月1日 (日) 06:09 (UTC)返信

M.F様、ご意見ありがとうございます。どうやら市や江の動向が一成と関係があるかどうかという点において、考え方の相違があるようです。

福田千鶴氏の新書『江の生涯』において、江と佐治一成の婚姻は信長存命時の縁談のみであった可能性が提示され、つまりは一成との婚姻は小牧・長久手合戦の政治動向における出来事ではなく、信長政権による国衆懐柔であった可能性が出てきたのだなと思います。

M.F様は市や三姉妹まわりの情報が佐治一成と関係がないのではと言われますが、本当にそうでしょうか。結論から言えば私は婚姻や縁談が生じた相手の基本的素性や動向が当人にとって関係ないことはありえないものと考えております。戦国期において婚姻が極めて政治的背景の強い意義をもつ点についてはご異論がないと思うのですが、佐治氏という知多半島の国衆にとって織田家の血を引く息女との縁談が信長最晩年時や小牧・長久手前後の政治状況においてどのような意義をもつのかを把握・考察するためには、三姉妹まわりの基本的情報は必須であろうと思います。

市や柴田勝家に言及せざるを得ないのはなにせ三姉妹が幼年である事情から、致し方のないことではないでしょうか。重要なのは「市」や「柴田勝家」という固有名詞ではなくて、信長死後の織田家において幼女であった江は母とともに秀吉の敵方の織田家臣のもとにいたが、やがて秀吉に引き取られ小牧・長久手の政治状況のなかで佐治との縁談が生じたという経緯でありますから、固有名詞を伏せて著述することもできますが、固有名詞を伏せることに意味はないでしょう。

つまり縁談相手の政治的立場(幼女であれ)に関する基本的情報を提供するに当たって、一成当人と関係ないとは個人的には思えないのですが、いかがでしょうか。

この記事の主題はあくまで佐治一成であり、江ではないことに注意してください。江の背景については、必要最小限に触れることは必要だと思いますが、触れるべきなのはせいぜい「信長の姪(明智光秀の娘)である」「秀吉の元から嫁に出された」という程度だと思います。現時点ではこの記事の「生涯」節の約半分が、江や家族についての説明になっています。他の戦国武将の記事で、妻の生い立ちや家族について、そこまで深く立ち入って記述されている記事があるでしょうか?(これが江の記事の中で説明されるのであれば、問題ないと思います。)
佐治一成と江の婚姻(婚約)に関して紹介されている説は、大きく分類すれば「信長による国衆懐柔」と「秀吉による織田信雄の懐柔」の二説に絞られると思います。「江が秀吉の敵方の柴田勝家に引き取られた」という点は、どちらの説にも直接の関係はありません(多少の因果関係はあると思います)。どちらの説にしても、それを意図して行ったのは江側(信長・秀吉)であり、佐治一成はその対象になったにすぎません。よって、これらの戦略やその背景に関する説明は、この記事ではなく江の記事で記述されるべきだと思います。
佐治一成の記事で記述されるべきなのは、江を迎える側の立場としての出来事や、佐治家の立場からみた意図・意義などではないでしょうか。政略結婚という駆け引きの相手になった秀吉や信長との関係について、この記事で説明することには意味があると思います。しかし、単に妻の育った背景にすぎない柴田勝家や市、茶々、初について、この記事で延々と説明することは、佐治一成自身に関する情報を得にくくする原因になると思います。--M.F 2011年5月6日 (金) 18:25 (UTC)返信
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