ノート:内田百閒

最新のコメント:3 年前 | トピック:改名提案 | 投稿者:Schwei2

ふと疑問に思ったのですが、「芸術院会員辞退の辞の原文」の掲載は著作権上どうなんでしょう?TY 10:18 2004年2月19日 (UTC)

著作権保護期間内ですし、どうやら本人の個性が出ている発言ということのようなので保護の対象になりそうな気もします。引用の必然性があるか、というと、字義どおりに必然性を問題にするなら、なさそうですね。本当にこの基準が字義どおりに運用されているのかどうか僕はどうもよくわからないのですが。Tomos 17:27 2004年2月19日 (UTC)

件の引用をしたものです。「本人の個性が出ている」からこそ、その人について書くに当たって引用する必然性があると私は考えます。出典を明記しなかったのは私のミスで、これに関しては責めを負ってしかるべきだと思います。この文章は元は百閒が弟子の多田基氏に伝言を頼んだメモで、直接の引用元はちくま文庫「まあだかい」の巻末に収録された多田氏の「『イヤダカラ、イヤダ』のお使いをして」(これがおそらくこのメモの初出)です。その他、新潮日本文学アルバム42「内田百閒」に紙片の写真が収録されており、それも参考にしました。この引用が不可とされるならば、著作権保護期間内の作家の項目は年表的な事実と作品名の羅列しか書けないことになってしまいます。Goodmoon 22:26 2004年2月20日 (UTC)

出典元情報、ありがとうございます。私は、引用の必然性については、加筆で対処出来そうな気もします(ついでに、文学の記事が充実するのは個人的にうれしいです・笑)。それよりも、GNU FDLでは改変・商用の自由も認めているから、著作権存続期間中の引用には問題があるのではとの議論があるようなので、その辺がクリアできるのかを疑問に感じました(ノート:音楽の定義ノート:アンパンマンなど参考)。それと、今回のように文書ではなくて発言の場合はどんな扱いになるんだろう? という素朴な疑問から書き込んでみたわけです。疑問だらけですけど……。別にGoodmoonさんを非難しようとか、そんな話ではないので(笑)ご理解下さい。TY 14:32 2004年2月21日 (UTC)←わかりにくい文章を後で訂正しました。TY 23:25 2004年2月21日 (UTC)

非難されたという意識はありませんけれども、権利というのはヤヤコシイものだと改めて頭がこんがらがっています。さて、TYさんの問題提起は「GFDLのもとで公表された文章では引用された部分にもGFDLが適用されるのだから、他者の著作物を含めるのは問題があるのではないか」という理解でよろしいでしょうか。たとえそうだとしてもWikipedia:著作権#総則に「GFDLは、他人の著作権、商標権その他の権利をを侵害する形での利用を許諾するものと解されてはならず、また、日本国の法令その他一切の関係する法令に牴触する形での利用を許諾するものと解されてはなりません」とあるように、元著作権者の権利は保護されるのではないでしょうか。「李下に冠を正さず」の精神で、当該部分を削除するという選択肢もありますが、その場合は外部サイトへのリンク(たとえばここ)などをもって変えようと思っています。Goodmoon 02:39 2004年2月22日 (UTC)

俳句・短歌などの評論では、全文引用が当たり前です(必然性により)。ただし引用元明記と評論などの必然性がもとめられます。いま問題になっている「引用」は、「従とする」という法の要件をどこまで満たすか、が争点となるのではないでしょうか。KIZUAphaia会話投稿記録)による偽署名、投稿日時は2004年2月22日 (日) 02:45 (UTC)返信

TYさんが指摘されたGFDLと引用の関係ですが、その点が非常にわかりづらかったので、Wikipedia‐ノート:著作権などで議論をして、Goodmoonさんの指摘された「総則」の部分が書かれたという経緯があります。これがあればたぶん大丈夫なんじゃないか、という対策を導入してみた形です。これが本当に大丈夫なのか、あるいは大丈夫だとしてウィキペディア日本語版では引用を含んでいてもよいということにするかどうか、というのはもっと多くの人の意見を聞いてみたらまた話が違ってくる可能性はありますが。(Wikipedia‐ノート:著作権の方ではT. Nakamuraさんと僕の意見交換が圧倒的に多く、他の方の意見があまり入っていないので)。

ただ、GFDL関連の問題がクリアされたとしても、KIZUさんの指摘されている必然性の問題がひとつあるかと思います。この必然性というのを実際にどういう風に運用しているものなのか、文字通り、引用しなければ絶対に議論が成り立たない、というような場合にのみ引用を認めるのか、実際にはもう少し緩い基準があるのか、というのを僕は知らないのですが。

内田百閒の個性がどういうところに現れているのか、などを加筆すると解決する可能性は十分あるだろうと思います。ただ、履歴から辿れる過去の版にはそういう措置がされていないままのものが残ってしまいますし、措置がされていないままのものが著作権侵害になっている可能性が残るのであれば、一旦削除して再投稿してもらう、というような形がよいのかも知れないとは思います。Tomos 03:34 2004年2月22日 (UTC)

GFDLに関してはまだ議論の余地があるようなのでひとまずおいておきます。引用の必然性ですが、運用例として、Googleの検索結果をあげておきます。個人ページは別として、著作権を熟知していると思われる朝日新聞社のページにも引用されており、これを見る限り、さほど厳密(Tomosさんの言う「引用しなければ絶対に議論が成り立たない」)ではないと感じました。とはいえ、出典を明記していないことや、引用部がぽつねんと置かれていることなど、問題があることは確かですから、改稿・加筆等なんらかの処置が必要だとは思います。 本筋とは別になりますが、ひとつミスをやらかしてしました。というのは、朝日新聞社のページはトップページ以外へのリンクを許していないにもかかわらず、先の投稿でディープリンクを含めてしまっていることです。これも含めて、一旦削除してから再投稿が妥当な処理ではないかと思えてきました。その場合、どのような手順、手続きになるのでしょうか? Goodmoon 04:33 2004年2月22日 (UTC)

私もわからない事だらけなのですが、 ディープリンクが許されるかどうかについてはWikipedia‐ノート:ニュースサイト井戸端会議ログ11 で議論されて保留中、GFDLについても議論中と考えていいのでしょうか? だとしたらこの記事(内田百間)だけ性急に削除を考えなくてもいいのかな、と思います(少しでも不安なら削除すべき、という意見があったら反対はしません)。また、せっかくなので記事に引用元だけは加筆しておきました(過去の版への不安は解決しませんが。将来「特定の版の削除」ができるようになるかもしれませんしね)。ちなみに詳しい人であれば、記事を書くことによって、これが百間の性格を端的に表す発言だと示すこと自体は可能だと思います(たしか百間は「いかにもこういうこと言いそうな」人物だったはず)。TY 11:21 2004年2月25日 (UTC)

「イヤダカラ、イヤダ」の全文をWikipediaに掲載したことで誰かが訴えられるということは現実問題としてありうるんですかね。やれやれ。--Arpeggio 2006年1月19日 (木) 08:39 (UTC)返信

旧仮名遣いを固守 編集

エピソードに「執筆においては旧字・旧仮名遣いを固守し続け、没後においてもこれを守り通していた。」とありますが、故人が守り通すことは不可能です。守り通すように遺言したとかならば可能ですが、遺言した裏付けがなければ書けないし、どうしたものでしょうか? 金子Mckj会話2020年2月26日 (水) 02:21 (UTC)返信

改名提案 編集

WP:NCによる使用漢字の制限が緩和されました。「閒」の字はIBM拡張漢字に収録されていることから、「内田百閒」への改名を提案します。--Schwei2会話2020年6月9日 (火) 06:47 (UTC)返信

なお、「內」はJIS X 0213やIBM拡張漢字に収録されていないことから、「內田百閒」への改名は行わず、{{記事名の制約}}は引き続き使用することを考えています。--Schwei2会話2020年6月9日 (火) 06:52 (UTC)返信
  報告 移動しました。--Schwei2会話2020年6月16日 (火) 05:45 (UTC)返信
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