ノート:冊封体制/過去ログ1

最新のコメント:17 年前 | トピック:言語間リンク(zh:朝貢体系) | 投稿者:Amanatsu
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>冊封国の立場が弱い場合は過酷な貢納を要求される朝貢関係も存在した と言うのは具体的にどの時代のどの場合を指してるのでしょうか?私がパッと思いつくのは高麗の関係ですけど。らりた 2006年2月26日 (日) 12:04 (UTC)

元と高麗の関係=冊封関係ですが、烈王の時代はたしかにそうです。 --Lulusuke 2006年5月1日 (月) 08:53 (UTC)

越南も同じです。

坂野正高 『 近代中国政治外交史 』 (東京大学出版会 東京 1973   76ー78 、 87 頁

冊封体制については、定番 西嶋定生『 西嶋定生東アジア史論集 』(岩波書店、東京、 2002 )、 5 - 58 、 95 - 104 頁 属国については、『 清史稿 』の属国伝などに記載されています。--Lulusuke 2006年5月1日 (月) 09:07 (UTC)

文意の確認ですが、坂野研究の指摘した頁にどういう事を書いていると言われたいのですか?「属国」も同様。もう少し詳しくご説明願います。反論というよりも、純粋に文章の意図の確認です。--Dokutou 2006年5月1日 (月) 14:34 (UTC)

6/15の投稿に関する確認

「しかし、このような冊封体制だけでは説明のできない場合もある。」とありますが、具体的に誰の研究ですか。というのも注で書かれていた「現代韓国歴史研究者、歴史家」は冊封体制だったといっている、という風に読めるので。また「冊封体制だけでは説明のできない」という意見は日本や海外に於いてどの程度認められる見解なのですか。--Dokutou 2006年6月15日 (木) 14:06 (UTC)

この趣旨は東京大学の平勢隆朗らの西嶋の研究批判を言います.西嶋は封建体制と儒教文化を考えての記述です.
したがってこれ以外の部分は封建体制を説明できない場合があるのです.古代に関しては,
「東亞文化圏的形成与発展−」(中文)台湾大学歴史厳暑 2003年で柵封体制を亀趺碑からアジアの柵封体制の西嶋研究の不足分を書いています。
近代では,一番明解なのは平勢隆朗ら南越の研究でしょうか.御査収下さい.そのなかでやはり清の史書も触れられていますので。余り詳しいことは書いてありませんが,http://kande0.ioc.u-tokyo.ac.jp/で若干の解説があります。--Lulusuke 2006年6月16日 (金) 02:31 (UTC)
金度亨の主張は日韓共同歴史研究の報告書の批判文をご覧くださればよいと思います。あまり良い彼らの主張への批評ではないのですが、HOMEPAGEでは日韓文化交流基金のホームページで見えるようです。(未確認)--Lulusuke 2006年6月16日 (金) 02:47 (UTC)
HOMEPAGEで少し見つけました.ここhttp://edo.ioc.u-tokyo.ac.jp/edomin/edomin.cgi/edohira/_tBwlL8C.htmlをご覧ください。日韓のホームページは韓国側に保存されているはずですが、見つけられませんでした。

--Lulusuke 2006年6月16日 (金) 07:32 (UTC)

ご返答ありがとうございます。まだ不明な点があるので、もう少しおつきあいください。平勢氏の研究というのは分かりましたが、最初の質問にも書きましたが、学会でどの程度認知されているのですか。京都や他の大学、あるいは韓国や中国、アメリカといった海外でも広く認められた見解なのでしょうか。この辺り当方疎いのでご教授お願いします。
また今他の件で史料調査に追われており、手抜きの誹りを免れないのを承知で伺いますが、『清史稿』云々にふれてある論文名を具体的に教えていただけないでしょうか。全てを当たっている時間が本当に今月はないので。
最後に金度亨氏の研究(「開港後近代改革論の動向と日本認識」など)についての理解ですが、端的に言って当方の「冊封体制だったと金氏は主張している」いうのは間違っているのでしょうか。細かくいうと色々あるでしょうが、大局的な方向性について誤解しているかどうかということです。--Dokutou 2006年6月16日 (金) 17:16 (UTC)
> 学会でどの程度認知されているのですか
>残念ながら定量的にはわかりかねます。
> 金度亨氏の研究
失礼かもしれないけど基本的に民族主義的歴史学が多いようですね。したがって民族にとっての不都合な部分は。。以下省略--Lulusuke 2006年6月17日 (土) 10:58 (UTC)

出典提示を求められていたので、書こうかと思ったのですが。コメントアウト部分に載せられている質問の『日本語で』という所が良く意味が解りません。冊封と言う言葉は『新唐書』などにあり、これを西嶋氏が使用して冊封体制と言う用語を使い始めた…というのではおかしいのでしょうか?
平勢氏の論に付いてですが、リンク先の文章を読む限りでは「西嶋は冊封体制の始まりを王莽の時に於いている→それは自らの地域を特別として看做す考えが西嶋はこの時期に成立したと考えたから→しかし平勢は自らの地域を特別として看做す考えは『「春秋」と「左伝」』に書いているように戦国時代に既に成立していたと考える→故に冊封体制はもっと遡ることが出来る」と言う論だと理解しました。とするとこの論を「冊封体制だけでは説明できない」と言うことの例として挙げるのはおかしいのではありませんか?
なお、平勢氏の一連の説(春秋が云々、中国・夏・華が云々)に関しては支持されているとは到底言いがたい状況だと思います。私の印象で言えば「緩やかに無視されている」と言うところだと思います。少なくとも現時点でウィキペディアに書くのは時期尚早ではないかと思います。春秋の記事で平勢説が時期尚早と削除されたように。らりた 2006年6月17日 (土) 12:06 (UTC)

> 「緩やかに無視されている」
 わかりました.これは知りませんでした。
意味は日本語でというのは日本の研究文献でという意味です 感謝します。
新唐書をhttp://www.guoxue.com/shibu/24shi/newtangsu/lianshu.htm でみております。どの章に冊封があるのかお教えいただければ幸いです。史書で冊封という単語を見たことがなかったもので。不勉強なもので申し訳ないです。--Lulusuke 2006年6月17日 (土) 13:04 (UTC)

--Lulusuke 2006年6月17日 (土) 13:04 (UTC)--Lulusuke 2006年6月17日 (土) 13:55 (UTC)

これを参照してください。ちょっと上手く繋がるかどうか解らないので、繋がらない場合はこちらから入って、二十五史から冊封で検索をかけてみてください。
それと外部リンクを示すときには[リンク先のURL]と言う書式にすると良いと思います。[リンク先のURL リンク先の説明]と言う風にも出来ます。らりた 2006年6月17日 (土) 13:13 (UTC)

ご親切感謝しますが、Frameで呼び先をみたCGIなので無理のようです。感謝です。--Lulusuke 2006年6月17日 (土) 13:55 (UTC)
戻って見ました.
  1. 本資料庫以本院安裝於WWW上並正式開放者為限。
  2. 申請個人使用權者限居住於本國地區之人士。
残念です.ソフトをINSTALLして台湾でないとだめなんですね。ありがとうございます。--Lulusuke 2006年6月17日 (土) 14:05 (UTC)
当方は別にソフト無しでも見えるので、大学なり他のところで再度試してください。なお「冊封」は問題ないでしょうが、基本的に繁体字でないと検索できませんのでその点注意してください。
こちらの勘違いでしたら容赦していただきたいのですが、コメントアウトした箇所、「中華民国の編纂した清王朝に関する正史『清史稿』によれば、冊封国で属国と分類する国家群もあり、邦交国(外交している国)という国家群もある」という箇所、及び注は削除してよろしいですか。平勢説がとりあえずスタンダードでないことはご理解いただけたようなので。冊封関係など中国史関係の研究状況をもしお知りになりたいのであれば、1月にでたばかりの『中国歴史研究入門』(名古屋大学出版会、ISBN 481580527X)を参照してください。この本が万全とはいいませんが、ある程度指針になるはずです。残念ながら平勢説は未だ検討すべきとは思われていないようです。今後は分かりませんが。--Dokutou 2006年6月17日 (土) 14:37 (UTC)
>当方は別にソフト無しでも見えるので、

私のIPからはだめなようです。CD-ROMで確認しました。ありがとうございました。 博学の皆様がいるところでドサクサにまぎれて質問です。

さて、現在の冊封の説明では
原則的に中国皇帝からの内政干渉はなかったが、冊封国の立場が弱い場合は過酷な貢納を要求される朝貢関係も存在した。
となっております。

しかし

南越国 高麗国の忠烈王から忠定王までにあてはまるのでしょうか?私には記述の通りではないと思えます。

上記2国の当時は地方組織の長官=王となっており、(瀋陽やチベット等の王にもなっているので)単に冊封国の状態ではないですよね。(特別な例?)

南越国は冊封国→(属国)→領土となっていますよね.
高麗は 冊封国→(属国)→冊封国となっていますよね.
以上をふまえれば
原則的に中国皇帝からの内政干渉はなかったが、
  1. 冊封国の立場が弱い場合は過酷な貢納を要求される朝貢関係
  2. 王が地方組織の長官を兼任する
  3. 完全な地方組織化

という例を説明できないことになりませんか? --Lulusuke 2006年6月18日 (日) 08:39 (UTC)

博識ではないので、簡単に二つだけコメント。高麗について言えば、同時期あったのはですよね。西嶋説では儒教を思想的バックボーンにした国際秩序といった感じで説明しています。翻って元はどうだったでしょうか。儒者の社会的地位は高かったでしょうか。儒教を国教としていたでしょうか。このあたりが答えとなるのでは。
再度書きますが、『清史稿』の注についてですが、読者に誤解を与えるので現状では掲載するのは望ましくありません。削除したいのですが、よろしいでしょうか。属国の記事の分もあわせてです。不許可であれば、最低限見えないようにしたいのですが、いかがでしょう。--Dokutou 2006年6月18日 (日) 09:34 (UTC)

冊封の部分は理解いたしました.  さっそく削除します.--Lulusuke 2006年6月18日 (日) 11:43 (UTC)

おそらくはこのノートの一番上に私が書いた文を問題にしているかと思われるのですが、この時は元と高麗の関係が冊封で説明できるのかといった考えはまるで持たずに『「過酷な貢納を要求される」と言えば元かなぁ。』と単純に考えてそう書いただけなので、元と高麗の関係が冊封体制で説明できるのかは私には解りかねます。すいません。
あと、南越に関しては西嶋氏は冊封体制の始点を王莽のときに置いているので、南越は範疇外ということになります。
なお、西嶋氏自身も「冊封体制だけで東アジアの国際関係が全て説明できる」とは言っていないようです。一回、西嶋氏の文章を読み直してから改めて返事をします。らりた 2006年6月18日 (日) 12:50 (UTC)

『清史稿』属国伝について

削除に同意していただきありがとうございます。ただ属国記事の方は不同意ということですので、当方の説明不足のため、内心ご納得いただけない部分があるのではと察しました。ですので、簡単ですが卑見を述べさていただきます。本来は『清史稿』に触れた平勢論文を読んでからと思っていましたが、しかたありません。正確な論とは言えませんが、ご容赦のほどを。また長くなるので章を分けました。

まず「属国」という語彙ですが、語彙そのものは『史記』や『漢書』にも登場し、現在まで使用される歴史あるものです。しかしその意味内容が一貫して同じであったかというと違います。冊封本文にも「近代国家の基本概念である領土・国民・主権の概念がなく、属国、保護国のように主権の一部を条約により外国により制限されることは無かったので、このような表現をとったとされる」とあるように、近代国際法の意味を内包しているかどうかという点で「属国」の意味は時期によって異なります。

では何時から異なるのか。それは冊封体制が「条約体制」ともいうべき西欧由来の国際秩序に出合った時からです。結果冊封体制は変化を余儀なくされ、最終的には取って代わられることになります。具体的にはアヘン戦争以後、清の外交理念は変更を強いられ、さらに明治日本が清や李氏朝鮮に突きつけたことが変容の速度を加速させました。この時期の冊封体制について、たとえば日本の学会では清朝の皇帝を中心とした朝貢関係(冊封体制の経済的側面)が変化しはじめた、といったことばでよく説明されます(浜下武志氏や茂木敏夫氏など)。これはなにも日本の学会特有のものではなくアメリカ(古い例ですがフェアバンクなど)や中国(冊封というよりも華夷観念や宗属関係という方が多いですが、それがこの時期崩壊したとする)、韓国(教えていただいた金度亨氏なども細部は違えど大局では冊封関係に同意しているように思えます)などにも見られスタンダードな見解と思われます。

では『清史稿』属国伝の「属国」はどう考えればよいのか。『清史稿』が編纂されたのは民国に入ってからのことであり、その属国の含む意味は近代的に変化していてもよいはずです。しかしこの属国伝一の序言の中に「國家素守羈縻屬國之策、不干内政、興衰治亂、袖手膜視」(國家素より羈縻屬國の策を守りて、内政を干さず、興衰治亂は、袖手・膜視す)とあるように伝統的な意味で使用しています。あるいは副島種臣が朝鮮は属国なのかどうかと総理衙門に問い質したとき「朝鮮雖藩屬、而内政外交聽其自主、我朝向不預聞」(朝鮮は藩屬と雖も、而れども内政・外交は其の自主を聽し、我朝向に聞に預らず)と答えており、近代国際法の意味を内包する属国とは意味が違うことを清朝は述べています。

独自の研究の誹りをかわすためにさらに一例を出しましょう。Lulusukeさんが教えてくださった日韓文化交流基金HPでダウンロードできる原田環氏の論文ですが、これはすぐLulusukeさんもすぐ確認できるか、すでにお読みかと思います。氏は論文において「属国」のことばを使用しながらも(朝貢国)と付記しています。つまり現代的な意味での属国ではないとお考えのようです。それを端的に示すのが、98頁からの金度亨氏とのやり取りです。金氏は原田論文の「属国」をおっちょこちょいにも(失礼)取り違え、兪吉濬のことばを引き朝鮮は「贈貢國」であって「属国」ではないと反論しています。これに対し原田氏は兪吉濬の「属国」は近代国際法での用語であると明言しています。その上で「近代国際法の訳語に在来の漢語を適宜当てたため、本来は共通の意味を持っていたものが異なる意味を持たされる事態が生まれた」と言われています。原田氏は清と朝鮮の間の宗属関係は単に儀礼的なものでなく実質的なものがあったというお考えのようですが、それでもなお近代国際法的な意味での「属国」ということばは峻別しているように見受けられます。この点全く当方も同意見です。

以上、くどくど述べましたが「属国」ということばを根拠に『清史稿』属国伝を注として冊封及び属国の記事に加えることは反対です。それは学説がスタンダードではないからといった消極的な意味ではなく、事実誤認という積極的な理由からです。今のままだと読者は清朝では朝鮮や沖縄を(現代的な意味で)属国支配していたのか、と思いかねません。どうしても注として残したいとお考えであれば、冊封記事において(属国記事では以下の事柄に触れるのは不適切でしょうからやめた方が良いかと)、冊封体制の変容と終焉を詳述し、さらにことばの変化についても触れた上でなければ不適切だと思います。わざわざ追記していただきながら、このようなことを申し上げ大変恐縮ですが、ご一考ください。長々と失礼しました。--Dokutou 2006年6月18日 (日) 15:39 (UTC)


どうも感謝します。いまゆっくり読んでいます。 > 屬國 屬邦 冊封国 たしかに言葉も多様で定義が明確でないですね。

> 原田環氏の論文 とうか書き物でしょうね。レフェリーもいない書き物なので荒いですね。

> 冊封体制の変容と終焉を詳述し、さらにことばの変化についても触れた上でなければ不適切だと思います。 たぶん、これが一番大切なところだと思います。つまりアヘン戦争後と前では違うこと。 いずれにしても長い歴史のなかで多くの冊封国があるのですべて同じではないということ、 多民族国家なので政権ごとに大きな政策が違っているということでしょうか?--Lulusuke 2006年6月18日 (日) 23:48 (UTC)

属国記事のノートに書くかどうか迷ったのですが、こちらに質問があったのでまとめてこちらに書くことにします。
「レフェリーもいない書き物なので荒いですね」ということですが、これは別の論文を挙げればご納得いただけるということでしょうか。原田氏が朝鮮史研究においてどういう立ち位置にいるかは不明ですが、「属国」という語彙に関する限り中国研究と照らし合わせてみてもスタンダードな見解を取っていると思われます。
「アヘン戦争後と前では違うこと。・・・中略・・・政権ごとに大きな政策が違っているということでしょうか」という質問ですが、答えは語弊を恐れずにいえばイエスです。ただもう少し説明すると、当方が特に意味が異なるというのは近代の前後での差異を指しています。そしてアヘン戦争前後でくっきり違うといっているわけではありません。ことばはそんなに急速に変わりません。アヘン戦争によって条約体制に組み込まれ時は、清朝自身はそれを夷狄への恩恵程度にしか思っておらず、その後立て続けに朝貢国喪失を体験して始めて、事の重大性を理解したのです。「属国」に近代国際法的な意味合いが付加されるのはそれからです。これには『万国公法』の翻訳や日本において和製漢語化した「属国」が他の東アジア諸国に伝播した影響などが考えられます。
属国記事を引き続き加筆されているようですが、恐縮ですがやはり反対の意思を表明させていただきます。6/20 10:00現在の記事では、近代前後で「属国」の意味が違うことを述べていますが、その後緩やかでない冊封関係があったこと、『清史稿』の「属国伝」を書いておられます。しかしこれでは『清史稿』の「属国伝」が近現代の「属国」ととられてもおかしくありません。むしろ緩やかでない云々を中に入れることにより、よけいに誤解しやすくなっているといわざるを得ません。それともやはり「属国伝」は近代国際法下での「属国」を意味しているとお考えなのでしょうか。また冊封体制と近代国際法との「属国」の違いはなにも国同士の関係が緩やかかどうかだけにかかっているわけではありません。当方の書き方のせいでまぎれたのかもしれませんが、6/18にも最初の方で引用した冊封記事本文「近代国家の基本概念である領土・国民・主権の概念がなく・・・」とあるように、国際法の基礎をなす国境線の概念や主権が確立しているかどうかも重要なポイントです。「条約体制」ということばには、条約の締結を全ての国際関係(国境線の画定等)の根底とみなすという意味がこめられているのです。
以上は学術研究の側面からの意見ですが、編集方針の側面からも反対です。現在属国記事はさしたる内容が無く、基本的事柄すら押さえられているとは言い難い状況です。元々西欧起源の概念であるのにもかかわらず、それが成立した西欧での経緯に特に触れずに、ことさらに冊封を取り上げる必要があるとは思えません。イギリスやフランスその他の属国観を書いた上ならともかく、不要でしょう。百科事典であって論文ではないのですから、その点記事全体の中での構成比率に気を配る必要があるのではないでしょうか。取り上げるのであれば、よりハードルが低い(西欧での成立経緯を書く必要のない)冊封記事の方が適切でしょう。(こういう意見ですのでこちらのノートに書きました) それでも冊封の変容・終焉を詳しく説明し、はっきり「属国伝」の「属国」は近代的な意味ではないと明記する必要はありますが。さらに今現在Lulusukeさんは、平勢論文のうち『清史稿』に触れたものを具体的に挙げられておられません。別に平勢氏のものなくともよいので、とりあえず具体名を挙げていただけないでしょうか。でないと独自研究と言われかねません。それはLulusukeさんにとっても非常に不本意でしょう。以上の理由からこの件の決着が付くまで、一時的にコメントアウトするのが、現時点での最善策ではないでしょうか。当方も闇雲に削除を願っているわけではありませんので、その点ご理解お願いします。
後考え方についてですが、どうも冊封や属国でのご意見を拝見する限り、数学の公式に近い感覚(事象に公式を適用した場合、正確な再現性を期待する感覚)で冊封を捉えておられるように感じるのですが、誤解なら謝罪します。西嶋氏が発表したこの学説はいわばモデルであって、東アジア地域における外交・国際関係を最大公約数的に言い表したものです。説明装置としてみるとき、多種多様な現実を端的に言い表しており、たとえば百科事典で読者の前に提示する上で非常に便利です。それ故今まで命脈を保っているのでしょう。また研究の道具としてみた場合、それは平たく言うと定規です。たとえば南越なら南越と中国の関係にこのモデルを当てはめ、最大公約数的な概念からどの程度違うのかを明確に認識するといった働きがあります。それを学説にフィードバックして、学説を修正するなり、別の学説に乗り換えたり、新たに考案したりする契機とするものです。ですので個別にみていくと色々異なる部分が現れてくるのは当然で、むしろそれを浮き彫りにするのがこうした学説・モデルの役割なのです。ですがそうした相違点を指摘するのは百科事典でするものではなく、論文でなされるべきでしょう。そんなことは承知の上だ、と思われているかも知れませんが、老婆心までに申し上げました。ご無礼お許しください。
あと6/18の自己発言を若干修正しました。趣旨に変更があるわけではなく、同じ言い回しや、見えないフォントを直しました。推敲せず十分ほどで書き上げたためです。失礼しました。--Dokutou 2006年6月20日 (火) 05:01 (UTC)
前掲原田論文の解釈点としましては、日朝修好条規直前の「朴珪寿は日清修好条規第1条の「大清国・大日本国……両国所属邦土……不可稍有侵越……云々」に依拠し、日本は軍艦で朝鮮を威嚇しても攻撃はしないと主張した。朴珪寿の考えでは、朝鮮は清の「所属邦土」に含まれていた。」という部分、朝米条約締結直前の「これは清の対朝鮮政策の転換であり、従来の宗属関係の変質であった。これ以後、清は自らの安全保障の観点から朝鮮に積極的に関与した。李鴻章の李裕元宛書翰(1879年8月26日付)では、従来の①日本との条約遵守以外に、②軍備の強化、③欧米への開国の2点を新たに勧めている。李鴻章によれば欧米に朝鮮を開国させて日露を牽制する「以夷制夷」策であった。」という部分、「朝清商民水陸貿易章程の前文には、「惟此次所訂水陸貿易章程、係中国優待属邦之意、不在各与国一体均霑之列」(『中朝約章合編』、東京大学阿川文庫所蔵)と、この条約は宗主国(中国)の清が属国の朝鮮を優待して締結するものである事を明記していて、朝鮮が清の属国であることと、その朝鮮に清が恩恵を施すものであることを強調している。しかし、実際は朝清商民水陸貿易章程以下の3章程はいずれも朝鮮側にとって不利な内容であった。要するに清は旧来の宗属関係(朝貢関係)下の朝鮮との国境交易を条約化して維持しようとしたものである。」という部分が問題となるところでしょう。一方金の批評では、「前近代の東アジアの国際秩序は、中国を中心とした華夷体制として維持されていた。中国は武力と文化の力で周辺の「夷狄」を抑圧し、権威を確立して自己の体制を維持していた。それに対して周辺の国家は中国との事大関係を通じて自国の支配体制を維持し、またその交流を通じて経済的、文化的に水準を維持することができた。中国は隣接弱小国を冊封という形式(朝貢、頒暦)を通じて挑戦を抑制し、隣接の小国はその体制の中で内治と外交を自主的に行っていた。このような中国中心の東アジア国際秩序は、西洋の侵略以後変貌を遂げ、新しい万国公法を根拠とした国際秩序に改編された。」という解釈は自国の外交史をかなり東アジアの国際関係に投影していると思われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵、江戸幕府の外交政策を考えても、こう一面的に「華夷体制」として断じることはできないでしょう。原田論文に「しかしこれを単純に宗主国と属国という言葉にだけこだわり、当時の意味よりは近代的な国際関係で論じられる「従属関係」と見ている。甚だしきは朝貢関係を「宗主国と朝貢国(附庸国)」と見ている。当時の朝鮮の知識人たちもこの点をすでに批判していた。例えば兪吉濬は贈貢国と属国を区分し、朝鮮は贈貢国ではあっても属国ではないとした。また小中華を固守した斥邪論者も贈貢国と附庸国を区分している。」というのはやや短絡的であり、朝鮮がさまざまな冊封儀礼により中国に藩属国として従っていたのは事実で、当時の朝鮮が独立国であったかどうかといえば、少なくとも半独立国であったといわざるをえません。それを前近代の東アジア国際秩序の独自性から曖昧にしようとする論旨はあまり的確なものとは言えないでしょう。もちろん冊封関係を直ちに近代国際法の宗属関係におきかえてしまってはいけませんが、この冊封関係を近代化する東アジアの国際関係のなかで清国が国際法的な意味での宗属関係に置き換えていこうとしたことが、原田論文であとづけられていることは重要です。そのことを考えると、「第二に、朝鮮と清との関係も、最初に胡乱当時に設定された構造のままずっと維持されたわけではなく、時期によって絶えず変化していた。特に朝鮮後期の時点では、ベトナムでもそうだったが、朝鮮でも既存の華夷観を批判し、自国文化の優秀性を強調する雰囲気が高まっていた。そして日本との通信使派遣も、あくまでも優位に立って維持していた。朝鮮の立場では、中国―朝鮮―日本という位階秩序のもとで、「事大交隣」を行っていた。門戸開放以後にも朝鮮は米国などの西欧国家とも近代的な形態の条約を結び、清国との関係も「派使駐京」を試みた。このような点から見るならば朝鮮後期以来の朝貢関係は儀礼的なもので、朝鮮自身の独自で自主的な国家経営には何らの影響もなかった。属邦というものも、外交上の名分だっただけである。甲申政変での清国の干渉排除も、このような次元から提起されたもので、原田教授の指摘のように、朝鮮後期以来の「変化しなかった朝貢関係」を問題とするものではない。」というような論点は金自身がその直後に「特に韓半島を支配しようと相互に競争していた清国と日本の関係から見てもこの問題は単純ではない。開港以後にも儀礼的にゆるやかな形態の華夷体制維持を考えていた深刻は、壬午軍乱以後に前近代的な「従属関係」を近代的な形態の属国、属邦、つまり植民地にしようと画策していた。(深刻というのは清国の誤植と思われる)」に述べているように、清国の側からすれば全然別の意識を持っており、日本もその清国と朝鮮の関係性を的確に見抜いて行動したと言わざるを得ないでしょう。金の視点はあまりに朝鮮本位に立っていると言わざるを得ません。「これは1876年「朝日修好条規」でも明らかであり、さらには日清戦争を起こす名分としても利用した。一方朝鮮は従来の事大関係の中で国の自立と運営を維持しようとしながらも、同時に世界情勢の変化の中で西欧との近代的な形態の条約を締結した。こうした中で次第に自立、自主を追求していった。甲申政変でこれを一番目の条項に入れたのも、このような認識から可能なものであった(清国との朝貢関係を撤廃するということを当時「独立」という用語で表現したが、かといってこれを「独立運動」と呼ぶ原田教授の表現は理解できない)。当時の国際関係の近代化は、この構造の下で進行していた東アジア三国の立場をそれぞれ考慮しなければならない。」と論じますが、当時の朝鮮で清国からの「独立」問題が大きな関心を持って論じられていたのは事実です。開化派官僚が1896年7月に「独立協会」を設立し、「慕華館」「迎恩門」を「独立館」「独立門」と改名したこと(いずれも元は清を意識した表現)がそれを物語っています。彼らの発行した独立新聞1896年5月16日づけの論説は「日本と清国が戦った後では、朝鮮は独立したと言葉では言ったが、実情では日本の属国のようになった」(糟屋憲一「近代的外交体制の創出、朝鮮の場合を中心に」より引用)と言っていることから、この独立が清国の属国のような立場からの「独立」をさしていると考えられるでしょう。
ただし下でも述べていますが、君主同士の君臣関係である「冊封関係」がただちに国家同士の君臣関係である「宗属関係」と結びついたかという点については、私自身は「冊封関係」それ自体が国家にも「宗属関係」を設定したということに懐疑的です。少なくとも前近代の朝鮮が外交を自主的に選択するのに苦労するほど清国に依存していたこと(このような朝鮮を清から独立しているというのは非常に苦しいでしょう)は事実と見ています。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 01:02 (UTC)
つまり、冊封関係が直ちに国家間の宗属関係を規定するわけではないが、こと清国と朝鮮王朝の場合を考える限り、近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当であろうということです。その理由は外交の主体としての主権が宗主国によって制限されているからです。冊封関係自体は名目はともかく、実際において国家の外交権を制限するものではなかったことは西嶋に依れば明らかです。よって朝鮮は単なる冊封関係を超えた強い清国との宗属関係のもとにあったと判断して良いでしょう。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 01:25 (UTC)
下のコメントと合わせてどうも言われていることの論旨がつかめませんが、まず第一に「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」というコメントですが、これは李氏朝鮮がずっと歴史的にそうだったといわれているのですか。第二にKanbun さんは結論として『清史稿』属国伝を掲載すべきだとお考えなのですか。本格的な私見は後ほど提出しますが、とりあえず簡単に二点だけ述べました。--獨頭 2006年7月7日 (金) 03:48 (UTC)
外交儀礼としての「冊封」と外交体制としての「冊封体制」が異なるということ、東アジアの国際関係自体は歴史的に大きく変容しており、「冊封体制」という言葉だけで全時代的に中華帝国を中心としたヒエラルキーから説明するのはおそらく適切ではないでしょう。そもそも西嶋自身も「冊封体制」を当初は極めて限定的に使用しており、のちにその用語の一般化とともに概念が拡大してから、当初の概念は非常に異なった意味合いになっています。ちなみに『清史稿』属国伝については参考として乗せても良いと思いますが、それがどうこうということは考えていません。ただし「冊封関係」が名目的であったから、清国に対して朝鮮が名目的に従属していただけなのだということは当たらないでしょう。「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」というのは、近代国際法から見るとそのように結論できるという意味で、当時もちろんそのような論点が一般的であったという意味ではありません。しかし金の論旨が「当時の東アジアの国際関係が前近代的な国際秩序の元にあったから、朝鮮を近代的な意味での属国というふうに捉えるのは当たらない」というように解釈できましたので、あくまでそれでは朝鮮本位の視点になっているため、当時の状況を説明する研究としては適切な視点ではないと述べているまでです。全近代的な「冊封関係」が一般に名目的だからという理由で、清と朝鮮の「冊封関係」が名目的であったということは上にあげた具体例からして適切とは言えません。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 04:14 (UTC)

つまり「しかし、このような冊封体制だけでは説明のできない場合もある。」という視点は清国と朝鮮の場合にも当てはまるのであろうということです。属国伝については参考までに記載しても問題ないのではないでしょうか。原田論文にも日朝修好条規のくだりで朝鮮側が「所属邦土である」旨述べているという箇所は、これが近代国際法的な条約交渉の場であることを考えると示唆的に思われます。日清修好条規が日朝間の外交事案も対象としていると朝鮮側が考えていたことが事実だとすれば、近代国際法における対外主権としての独立権を喪失していたといえるでしょう。原田論文は越南の事例をあげることで、越南が嗣徳帝にいたるまで対外主権として独立権を行使しているのを示しています。つまり「冊封関係」は必ずしも独立権の喪失を条件とするものではありません。このことから朝鮮が「冊封関係」をこえて清国に従属的な立場であったと結論づけることができます。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 04:23 (UTC)

なお補足的なことですが、「この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国といい、こうした冊封によって構築された周辺国と中国の国際関係秩序のことを冊封体制という」という論は西嶋の「冊封体制論」とは異質です。西嶋の「冊封体制論」はあくまで「6-8世紀の東アジア国際関係」を「冊封関係」から性格づけた上で、その構造が以降の文化伝播を基本的に根拠づける政治背景となったと述べるもので、必ずしも恒久的な外交体制として「冊封体制」を論じているわけではありません(これは誤解されやすいですが重要です)。実際西嶋はヴェトナム以南は「冊封体制論」の舞台である「東アジア文化圏」から除外しています。したがって清朝の時代がもっとも広範に冊封関係が行われているにもかかわらず、西嶋の「冊封体制論」はあくまで隋唐をその画期としています。このことは「冊封体制論」での「冊封体制」なるものが「冊封関係」と同一ではないということです。実際西嶋自身は日本が「冊封関係」にはなかったにも関わらず、「冊封体制」に組み込まれていると論じています。西嶋においては「冊封体制」は6-8世紀の東アジアに特殊具体的なものであったということです。ただし西嶋自身はその後、例示として宋以後の政治関係・文化交流を述べ、それを「冊封体制」から根拠づけようとしたために全時代的に拡大しているように見えますが、それはおそらく外交背景の基底として述べているのであって、当時の東アジア国際秩序で冊封体制が絶対的であったとするものではないと考えられますが、これは「冊封体制」が必ずしも「冊封関係」を前提としていないことから真意を探ることは難しいでしょう。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 10:49 (UTC)

属国というのは、主として現在使われている国際法の概念で解説されるべきであり、『清史稿』属国伝の属国をこれと等しく捉える事は無理があるのでは?むしろ別の節を作って解釈を入れるべきでは?--水野白楓 2006年7月7日 (金) 10:58 (UTC)

私が言っているのは『清史稿』の論理がどのような「属国」観を示しているかはわかりませんが、前近代の朝鮮が清国の「属国」であったかもしれぬということは、近代国際法の「属国」観から論じることができると言ってるまでです。すなわち前近代的な国際秩序が近代的なものとは異なるから、そこに近代的意味での「属国」観を見出すことは無価値だという視点は成り立ちません。なぜなら、それがおそらく朝鮮の植民地化という問題と複雑に絡んでいるからです。その意味で、『清史稿』の「属国」表現が伝統的であるから近代的意味と異なるというのは、朝鮮と清国の関係が以上のようなものであったとすれば、それを説明するのは難しいと述べているわけです。またこのような関係が「冊封関係」だけに規定されるものではないという視点が重要であるように思われます(これは『清史稿』の「属国」が近代的な意味で使われているということではなくて、以上の関係性から清国側の視点として「冊封関係」だけでは規定されない何らかの「属国」意識が存在している可能性もあるということです。したがってかとくに積極的に『清史稿』を論拠として使うべきだというのではなくて、参考程度に示しておくのも現段階では有意義では?ということです)。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 11:06 (UTC)
それは現実的にこの東アジア国際秩序が近代の国際秩序に置き換えられてしまったのですから、東アジア国際秩序における清と朝鮮の関係が近代の国際秩序でどのような意味づけをもつかということはこの時代を扱う歴史学にとって少なからぬ意味を持つということです。原田論文は朝鮮と清との関係に近代的な「宗属関係」に容易に転化するような強固な関係性があったと見ているわけです。金の批評はそれに対して朝鮮の主体性を主張するものですが、この記事に関連することとして、「冊封体制」を前近代の東アジア国際秩序と規定した上で、「冊封関係」が名目的なものであったから、「朝貢国」の立場も(近代的意味での)「属国」の立場ではないという論は、おそらくこの場合苦しいのではないかと言っているまでです(なによりこの論は原田もですが、本来的な「冊封体制論」とは異質な「冊封体制」論を論じているため、非常にややこしいです。とくに金は原田がある程度自己の冊封体制を説明しているにもかかわらず、自己の論じる冊封体制を華夷秩序としか説明していないため、それが外交秩序を意味するのかその上位概念としての外交通念を意味するのか、それとも実際の外交事務手続きまで踏み込んでいるのか曖昧です)。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 11:31 (UTC)

論ずるべき点が多すぎて少々困惑しますが、まず原田氏と金氏の論の相違について触れておられますが、これは私の論とは直接関するものとは言えません。原田氏が冒頭において「19世紀の初頭の東アジアの伝統的な国際関係は、清を中心とする冊封体制、すなわち朝貢関係であった」と述べ、それが西欧起源の「条約体制」と出会うことで変容を余儀なくされた、という意見と、金氏の「東アジアの中世的国際秩序は西洋の近代的国際秩序とは異なり」という類の意見を取り上げてわたしが証明しているのは、大まかには近代を境に国際関係秩序が変化したと解せるという点、そして「属国」ということばの意味が近代前後で異なってくるということに尽きます。したがって金氏が朝鮮を主体的に捉えようとしていた云々というKanbunさんのご意見はずれています。もしわたしが上記のこと以上に踏み込んで言及しているといわれるのであれば、その文をご指摘ください。「属国」ということばの意味変化と、原田氏と金氏の論の相違が論理的に関係しますか? あるとすればどう関係するのですか。

次にどうも1800年代後半の外交関係を例に「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」と言われているように見受けられますが、それは通常の外交史研究と大きくかけ離れた理解です。「宗属関係」あるいは「朝貢関係」、「冊封関係」でもよいですが、そうした前近代の国際秩序が「条約体制」と出会って変化を余儀なくされた。その過程において前近代の国際秩序と「条約体制」とが併存していた。併存の間、清朝・朝鮮・日本・西欧といった国・地域が綱引きを演じた。「属国」ということばにいかなる意味を込めるかもその一つである。清朝側は、李鴻章は若干相違点がありますが、西欧的「属国」をことばにこめようとし、朝鮮側は「自主」を保つ上での方便であると割り切って理解していた。これが一般的な外交史研究の理解です。細かく言えば差異はありますが、大きな方向性として一致しています。たとえば茂木敏夫氏は「李鴻章の属国支配観」において「陰寓操縦」という概念を取り出し、伝統的な清朝関係を清朝側は「形式=自主、実質=介入」に変化させていった、と論じています。これに対し岡本隆司氏は『属国と自主のあいだで』において茂木氏の論を「歴史事実としてその定義を支えるはずの重要な具体的な論点は、なお判然としない」と批判していますが、それは具体性に欠けるといっているだけであって、少し後の文で、「その整理自体は、以下に本書でも述べるように決して誤りではない」といっているように、方向性そのものは概一致しています。(岡本氏は結論冒頭において「西洋近代の国際関係と東アジア在来の、具体的にいえば、清韓の宗族関係。19世紀後半の東アジア史は、だいたいにおいて、「併存したこの両者の関わりを軸に展開した、とみなすことができる」とも述べています」)この点については具体的な事件を例に属国のノートにも書いています。すなわち1800年代後半の東アジアの外交関係はいわば過渡期あるいは変容期として捉えるべきであって、それをもって「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」とか「外交の主体としての主権が宗主国によって制限されているからです」といった結論はものすごい論理の飛躍です。「原田論文にも日朝修好条規のくだりで朝鮮側が「所属邦土である」旨述べているという箇所は、これが近代国際法的な条約交渉の場であることを考えると示唆的に思われます。」というご意見が本来の外交研究から離れていることは、理解いただけるのではないでしょうか。また「しかし、このような冊封体制だけでは説明のできない場合もある」という文面を私がコメントアウトした点ですが、これは本来Lulusuke さんが平勢氏の説にしたがって書いたと言われたので消去しては、と述べたものです。それをKanbunさんは1800年代後半の外交関係に引きつけて意見を述べておられますが、これも下に書いたように、このごく一部のみの時代を取り上げて残すのは問題大ありです。冊封体制の変容期から終焉に向かう過程において、イレギュラーがあるからといって、詳しい説明もなくこの一文を残すと冊封体制の全期間に当てはまるかのように取られるからです。

長い歴史の中にあって、朝鮮は日清戦争によって冊封体制からの離脱が確認され、やがて日本によって植民地化されますが、Kanbunさんが言及している時期はそれまでのほんの数十年の事に過ぎません。もしこの時期のことのみを取り上げて、清・朝の宗属関係の歴史を断定している論文・研究があればご教授ください。糟屋氏の開化派についての論も、そうしたこの時代の国際関係を過渡期と見る視点から論じられていることは言うまでもありません。独立云々についても、それまでの清と朝鮮の駆け引き、西欧や日本から国際秩序の知識流入といた諸条件に刺激されてナショナリズム的なものが芽生え、発生した動きです。具体的には、繰り返しになりますが、それまでの伝統的関係を改め朝鮮を属国化しようという清朝側の思惑・施策に対して出てきた反感であって、この点のみをとらえ、「この独立が清国の属国のような立場からの「独立」をさしていると考えられるでしょう」というのも的はずれです。そもそも糟屋氏のような堅実な研究される方が「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」といった立場に立っているとは到底思えません。そのように言及している箇所があるのならば具体的に提示してください。

『清史稿』属国伝掲載の件。この点でも意見を異にします。具体的な文案を提示されていない点から考えるにLulusukeさんの編集をそのまま受け入れる立場だと解しました。わたしはすでに述べているように、冊封体制の変容期から終焉に向かう過程を詳述し、「属国」ということばの変容を記述しない限りは反対します。具体的に述べていきますと、「前近代的な国際秩序が近代的なものとは異なるから、そこに近代的意味での「属国」観を見出すことは無価値だという視点」とか、「東アジア国際秩序が近代の国際秩序に置き換えられてしまったのですから、東アジア国際秩序における清と朝鮮の関係が近代の国際秩序でどのような意味づけをもつかということはこの時代を扱う歴史学にとって少なからぬ意味を持」たないとか、そういった観点を提示した人は誰もいません。わたしや水野白楓さんは何故一般の読者に誤解しやすい表現をするのか、と問うているだけです。「前近代的な国際秩序が近代的なものとは異なるから、そこに近代的意味での「属国」観を見出すことは無価値だという視点」をわたしの意見に見出すことができるのですか。具体的にはどこにでしょう。ご指摘ください。百歩譲ってそういう箇所があるにしても、誤解を受けやすい編集をする理由には何らありません。ここは百科事典であって論文ではありません。まず何をおいても可読性を優先させるべきでしょう。やはりここでも論点がずれていると思うのです。

ここの記述について。「西嶋の「冊封体制論」とは異質です。」など随所に西嶋氏の論について触れていますが、この冊封項目は冊封及び冊封体制について書くところなのですか、それとも西嶋説のみを取り上げるところなのですか。仮に後者だとすると、その後の堀敏一氏の論や藤間生大氏の東アジア形成論など多くの研究が捨象されてしまいます。つまり西嶋説と違うから云々というのはそもそも論点がずれています。

後要望ですが、史料を引用する際は中国学を学んだことのない人も読む可能性があるので、必ず書き下しするか現代語訳してください。--獨頭 2006年7月7日 (金) 15:51 (UTC)

なるほど貴重なご意見です。とりあえず一つ一つ整理していこうと思います。まず近代外交史における理解についての部分。「「属国」ということばにいかなる意味を込めるかもその一つである。清朝側は、李鴻章は若干相違点がありますが、西欧的「属国」をことばにこめようとし、朝鮮側は「自主」を保つ上での方便であると割り切って理解していた。これが一般的な外交史研究の理解です。細かく言えば差異はありますが、大きな方向性として一致しています。たとえば茂木敏夫氏は「李鴻章の属国支配観」において「陰寓操縦」という概念を取り出し、伝統的な清朝関係を清朝側は「形式=自主、実質=介入」に変化させていった、と論じています。これに対し岡本隆司氏は『属国と自主のあいだで』において茂木氏の論を「歴史事実としてその定義を支えるはずの重要な具体的な論点は、なお判然としない」と批判していますが、それは具体性に欠けるといっているだけであって、少し後の文で、「その整理自体は、以下に本書でも述べるように決して誤りではない」といっているように、方向性そのものは概一致しています。」とありますが、これは前掲原田論文の「朴珪寿は日清修好条規第1条の「大清国・大日本国……両国所属邦土……不可稍有侵越……云々」に依拠し、日本は軍艦で朝鮮を威嚇しても攻撃はしないと主張した。朴珪寿の考えでは、朝鮮は清の「所属邦土」に含まれていた。」という部分、朝米条約締結直前の「これは清の対朝鮮政策の転換であり、従来の宗属関係の変質であった。これ以後、清は自らの安全保障の観点から朝鮮に積極的に関与した。李鴻章の李裕元宛書翰(1879年8月26日付)では、従来の①日本との条約遵守以外に、②軍備の強化、③欧米への開国の2点を新たに勧めている。李鴻章によれば欧米に朝鮮を開国させて日露を牽制する「以夷制夷」策であった。」という部分、「朝清商民水陸貿易章程の前文には、「惟此次所訂水陸貿易章程、係中国優待属邦之意、不在各与国一体均霑之列」(『中朝約章合編』、東京大学阿川文庫所蔵)と、この条約は宗主国(中国)の清が属国の朝鮮を優待して締結するものである事を明記していて、朝鮮が清の属国であることと、その朝鮮に清が恩恵を施すものであることを強調している。しかし、実際は朝清商民水陸貿易章程以下の3章程はいずれも朝鮮側にとって不利な内容であった。要するに清は旧来の宗属関係(朝貢関係)下の朝鮮との国境交易を条約化して維持しようとしたものである。」ということに朝鮮側の「「自主」を保つ上での方便であると割り切って理解していた」という点は見いだせないと述べているまでです。金の批評とDokutouさんの論点がそういうことであれば、清-朝鮮-日本の間の外交関係は清-日本-朝鮮三国それぞれから論じられなけければいけないと言う意味で、仮に朝鮮が主体的に行動したと自負していても、実際はそのように運ばなかったことが近代外交史の共通理解だと思っていたのですが。自主的に行動したのなら、どうして諸外国の抗争の結果、日本の植民地支配に甘んじる結果になったのか、朝鮮の主体性以前に外交史として論じることはあるでしょう。外交史の共通理解が朝鮮が主体的に行動したのに、植民地化されてしまったというのではあまりにお粗末です。もちろん一時的に朝鮮側がこういう行動をとったという意味でなら、それは十分論として成立します。つまり一般論としてこの時代の朝鮮が主体的に一貫性を持って外交を選択していたとするのはちょっと無理があるでしょう。私自身は東京大学出版会『アジアの中の日本史』所収の粕屋憲一「近代的外交体制の創出、朝鮮の場合を中心に」が比較的親しみやすく、また原田論文と主旨がほぼ通じているという意味でこれを利用しました。この論文は1992年に出版されたものでそれほど古い研究であるとも思えず、また日韓の文化交流基金の事業の時期を考えれば、おそらくこの研究とほぼ同時代的な視点が研究に取り入れられているはずだと見たからです。端的に言えば糟屋の論は朝鮮の状況を「独立がまず清からの独立として把握されたことが、日露両国による対朝鮮支配の進展という情勢に対応して朝鮮内部の諸勢力(皇帝とその側近勢力、政府、独立協会など)が展開したさまざまの動きに、どのように影響したのかを、具体的に考察する必要がある。すでに紙幅の余裕がないので、この重要な課題が残されていることだけ述べて、本稿を終えることとしたい」と述べています。つまり朝鮮内に統一した主体性を設定するのではなく、あくまで競合する複数の勢力が諸外国の動きと連動しつつ朝鮮の近代外交体制を形成したという視点に立つものであり、そのうえで朝鮮の独立運動を多角的に解明すべきだと述べているわけです。とすれば、金(Dokutouさんもですが)が朝鮮人を朝鮮人として一体として認識して、朝鮮外交史を論じようというのはおそらく糟屋そして原田論文の意図とは異なるという点。さらにこう考えると朝鮮を朝鮮側の視点だけで論じるのではなく、その関係諸勢力と結びついた裏側の勢力の視点が当然必要とされるのであり、その意味であらためて朝鮮の近代外交体制を論じるときに、清と朝鮮の間の宗属関係の性格も明らかにできると述べているわけです(これは近代の外交交渉の場での各国の動きから翻ってという意味で)。つまり変容期だからその時期には近代国際法の論理は完結されていないと見るのは方便で、変容期だからこそ従来の伝統秩序が近代国際法の論理におきかえられていく過程が明らかになるのであり、その意味で近代国際法と従来の宗属関係の論理を比較することが可能だということです。つまりDokutouさんの言ってる意味が変容期だから近代国際法の論理を持ち込むべきではないということをおっしゃっているなら、おそらく原田そして糟屋の論点とも異なり、またおそらく近代外交史の問題意識とも異なるものであろうと述べておきましょう。実際原田が朝鮮と越南を比較して論じていることから、変容期をどのように捉えているか、おわかりだと思います。参考までに朝鮮の自主独立可能論の一つのパターンとして「甲午農民戦争」に関する梶村秀樹の解説(「世界歴史の基礎知識」1977年)を参照すると、彼は朝鮮の内在的発展による近代的可能性を簡単に述べた後、「農民軍は国内の力関係では完全に官軍を圧倒しており、全国化する機運も成熟していた。日・清の軍事介入さえなければ、甲午農民戦争は確実に朝鮮の自主的な近代国家形成の出発点となっていたに違いない」と述べています。とすれば、日・清の介入を招いた原因こそが問われるべきであり、これを手許の高校の世界史教科書(山川『詳説世界史』1995年。いちおう原田論文などと視点は同じようなので)は「李朝内部では複雑な政治抗争が展開され、これにからむかたちで朝鮮半島における日・清の対立は深まっていった」と朝鮮内部の複雑な事情に目を向けています。とくに同教科書で「李鴻章が中心となって朝鮮に対する干渉政策が推進された」と言っていることは、彼が米朝条約に深く関わっていることからも、果たして朝鮮が主体的に近代外交政策を選択していたといえるのか。少なくとも一般化して論じるにはまだかなりの余地があるのではないでしょうか。なお論文中の白文を書き下し文にすべきとDokutouさんはおっしゃっておられるようですが、原田論文の箇所はそのまま引用しており、その解釈の意味は原田が文脈で示しているのみで、書き下しをあえて私がするのは適切ではないということはご理解いただけると思います。とりあえず近代外交史の問題だけを返答いたし、ほかの諸点についてはこの部分での一定の進展を経て後考えたいと思いますが、いかがでしょうか。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 19:46 (UTC)
近代国際法における独立権の定義内に「外交能力」があり、「外交能力を他国との関係で制限されずに保持し行使できる国家が、主権国家または独立国である」「ところが、国家の中には、他国と結合することによって、外交能力の一部または全部を喪失するものがある。このような国家は、半主権国とか半独立国とか呼ばれる」「保護関係は、重要な外交問題を処理する権能を委譲するという方法で、弱国が強国の保護下に入るときに成立する」(有斐閣『国際法講義』2001年増補)が関連しているでしょう。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 22:11 (UTC)
なお堀敏一らの所論についても具体的には本記事の表現は当たらないと思われますが、それはおいておくとして、すくなくとも何もなしに「冊封体制」あるいは「冊封体制論」と言ったとき、それが西嶋説であるのはこの論を巡る論争が西嶋説を中心に行われていることからも明らかです。したがって西嶋説を主張しすぎだと言いますが、むしろ西嶋説の本来の意図と異なった「冊封体制論」が主流的であるかのような言い方はどうかと。少なくとも「冊封体制論」と言った場合、とくに何も規定がなければ、それは西嶋の学説としての「冊封体制論」であることは、日本史における黒田の「権門体制論」と同様ですよね。とくに初出は西嶋だといいつつ、西嶋説と全く異なった自前の「冊封体制論」を説明するこの記事は、あまり良心的とは言えませんね。とくに制度としての冊封関係についての西嶋の理解に対する反論が基本的に西嶋説(これは「冊封関係」がかならずしも「冊封体制」ではないからだということは述べました)を克服できず、現代においても「冊封体制論」は西嶋説の主流に従っていると解説している李成市の解説(『古代東アジア世界と日本』)は傾聴すべきでしょう。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 19:46 (UTC)
山川の『中国史研究入門』は西嶋説に言及した後、「旗田巍「10-12世紀の東アジアと日本」は、冊封体制の政治的規制力について否定的である。堀敏一は「東アジアの歴史像をどう構成するか」、「近代以前の東アジア世界」、「古代東アジアの国際関係を巡る若干の問題」において、占領した周辺地域を州に編成し、異民族の首長を刺史として統治させる羈縻州の体制が当時盛行したことなど、隋唐の対外支配は冊封体制に限られず、諸民族と中国との現実の力関係に応じて多様な関係からなっていたことを指摘した。また藤間生大「東アジア世界形成の端緒」は、東アジア世界形成の上で仏教および仏教徒の果たした役割を重視し、また唐末以後の東アジア諸国に頻発した諸反乱の根底に、当時の海上交通の発展による商業活動の活発化を見出している。鬼頭清明の学説史「古代東アジアへの接近」は、中国に対する周辺諸国の主体性を強調する。また武田佐知子「古代国家の形成と身分標識」は、古代東アジア諸国家における服色の身分的機能に注目して、各国の身分制や日唐衣服令の性格の相違などを分析している。」としています。これによれば、少なくとも堀敏一らの所論は西嶋説にかわる新たな「冊封体制論」の提示ではなく、むしろ「冊封体制」以外の国際関係を設定してそこに東アジア世界の性格設定をするものでしょう。このことからも西嶋説以外の「冊封体制論」が別個に主流として存在しているというのはちょっと考えづらく、「冊封体制」はいまのところ西嶋説を中心に展開しているといわざるをえません。よって「この冊封項目は冊封及び冊封体制について書くところなのですか、それとも西嶋説のみを取り上げるところなのですか。仮に後者だとすると、その後の堀敏一氏の論や藤間生大氏の東アジア形成論など多くの研究が捨象されてしまいます。つまり西嶋説と違うから云々というのはそもそも論点がずれています。」というのは、ちょっと当たらないような気がします。「冊封体制」はまず西嶋説であるというべきでしょう。さらにこの場合とくに注目すべきは東アジア世界そのものを否定的に見る旗田の論かもしれませんね。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 23:13 (UTC)

希少なご意見ありがとうございます。まず整理すると、大前提としてこの「『清史稿』属国伝について」の項目についてご意見を書かれてある以上、以下に述べるわたしの意見に対するコメントと考えて良いのですよね。当初わたしは、Lulusukeさんの編集に対し、詳しい説明もなしに属国伝を注として加えると、「清朝では朝鮮や沖縄を(現代的な意味で)属国支配していたのか、と思いかねません。どうしても注として残したいとお考えであれば、冊封記事において(属国記事では以下の事柄に触れるのは不適切でしょうからやめた方が良いかと)、冊封体制の変容と終焉を詳述し、さらにことばの変化についても触れた上でなければ不適切だと思います。」と意見を述べました。それから派生するご意見と理解してよろしいですね。そして上のわたしの意見に反対であるから色々述べられていると。それでKanbunさんの展開された論は、わたしの意見にどのように資するのですか。いろいろ言われていますが、わたしの意見に反対であり、冊封体制の変容と終焉を詳述すべきという意見にもコメントや文案提示がない以上、Lulusukeさんの編集そのまま注として載せればよいと思われているわけですよね。つまりKanbunさんのご意見は「属国」云々に関する限り、注以外何も付加しないということになりますよね。付加しないにもかかわらず、細々とご高論を述べておられるわけですが、まずその関係について説明してください。「冊封体制の変容と終焉を詳述」すべきというわたしの条件に賛成されないのに、今日以後外交史理解云々を論じても時間の無駄なので、省かず明快簡潔にご意見お聞かせください。(できれば100字以内で、且つ熟考して一回の投稿で。履歴を追うのが億劫になってきているので。単なる個人的希望ですが。)

次にご希望されている外交史の理解についてもコメントしますが、「朝鮮側の「「自主」を保つ上での方便であると割り切って理解していた」という点は見いだせないと述べているまでです」というコメントをされていますが、Kanbunさんは朴珪寿や李鴻章の手紙、「朝清商民水陸貿易章程」を挙げた上で、金氏批評の「外交を自主的に行っていた」という意見を批判し、「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当であろうということ」という結論の証明となっているのですよね。それなのにそれとは異なる研究をわたしが提示したのに対し、「述べているまでです」とトーンダウンさせるのはいかがなものでしょう。これへの正確な反論はなされていませんよね。そもそもわたしが紹介した茂木氏や岡本氏の見解は、全く金氏と重なるのですか。どこかどう重なるのですか。具体的に指摘してください。「外交を自主的に行っていた」の「自主」と「形式=自主、実質=介入」の「自主」とは同じ意味なのですか。そしてこれは「仮に朝鮮が主体的に行動したと自負していても、実際はそのように運ばなかったことが近代外交史の共通理解」に反するものですか。

「「自主」を保つ上での方便であると割り切って理解していた」の前に各勢力の駆け引きが有ったとわたしは述べていますよね。章程や条約に「属国」や「属邦」ということばを盛る/盛らないのにもそれぞれ思惑があり、朝鮮側の意向を全く無視して清朝が強行する状況ではなかったのですよ。Kanbunさんの言われるようにほとんど外交政策決定に決定権がないなんていう結論は到底あり得ません。もしそうなら事前協議など必要なく、清朝側が立案した文面をそのまま使えばよいのですから。だいたい糟屋氏の論文自体「清の宗主権強化政策の展開と朝鮮国王・政府の抵抗」という項目を設けロシアと密約を結ぼうとしたことやアメリカ公使派遣問題、妃の弔問勅使問題を取り上げ朝鮮側がさまざまな抵抗を試みている事を述べているではないのですか。それらの試みは全部清朝につぶされたと書いていますか。引用されている袁世凱の電文には朝鮮国王は各国の公使が駐在しているので「自主」の体を保とうとしている、述べているではありませんか。原田氏は特に触れていませんが、こうした朝鮮の自主志向について、袁世凱は「斥華自主」・「背華自主」と呼んで指弾し、力を前面に押し出した「属国化政策」を行おうとします。無論それは激しい朝鮮の抵抗に遭うのですが。結局こういう清韓の主導権争いは下関条約まで完全な決着を見なかったと解すべきでしょう。

また「朝鮮側の「「自主」を保つ上での方便であると割り切って理解していた」という点は見いだせないと述べているまでです」というKanbunさんのコメントにより即して言うと、まず朴珪寿の件ですが、Kanbunさんの引用のすぐ後に「朴珪寿は冊封体制の枠組みの中において朝鮮を考えていた」と原田氏は述べており、これをKanbunさんの「「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」という論旨の中で使用するのはおかしいでしょう。原田氏ははっきり「冊封体制」と書いています。またその少し前のページでは「ウェスタン・インパクトがもたらす対外的危機に対する大院君の戦略は朝鮮への欧米の開国圧力に対しては清を防波堤とし、日本の明治維新後の近代化に対しては清の日本に対する牽制力を期待するといった、清との宗族関係を基軸とするものであった」とのべているように、朝鮮側はただ唯々諾々と清朝に従っていたのではなく、最小のコストで自立を保てるよう努力していた旨明記しています。

次に李鴻章の李裕元宛書翰(1879年8月26日付)の箇所についてですが、すぐ後で原田氏は「朝鮮は②は受け入れたが、万国公法の受容につながる①③は拒否し、朝鮮自身の近代化も否定した」と述べ、清朝の意見に対し主体的に選択している旨書いています。

最後に朝清商民水陸貿易章程についてですが、その少し後にこの章程の押しつけに対し「朝鮮政府は、『朝鮮策略』を逆手にとって、清との宗属関係の廃棄まではいたらないまでも、朝鮮の負担を軽減しようとしたが、失敗した」と述べています。失敗しこそすれ、唯々諾々と従っていたのではないことがはっきりします。

このようにKanbunさんの依拠するものを詳しく見ると、朝鮮側に「外交政策決定に決定権がない」とか「果たして朝鮮が主体的に近代外交政策を選択していたといえるのか。少なくとも一般化して論じるにはまだかなりの余地があるのではないでしょうか。」いう根拠になりえないことが明確化したことがわかるでしょう。上記の当方の出した茂木説や岡本説の提示と併せてより強い説得力を持っていると思います。また付随していえば、Kanbunさんは何度かわたしの意見が「糟屋そして原田論文の意図とは異なる」と書かれていますが、上記の説明にあるように、むしろ二人の研究者の意見をくみ取っていないのはKanbunさんの方ではないですか。引用のほんの数行前後を抜かしているものが複数あると少々困惑させられてしまいますね。

だいたいKanbunさんが何度も引用する糟屋氏の論文にも朝鮮と清朝の君主の関係について「このような皇帝と国王との君臣関係は、冊封によって設定された関係であるから、冊封関係と称される」と書いていますし、原田氏にしても「19世紀初頭の東アジアの伝統的な国際関係は、清を中心とする冊封体制、すなわち朝貢関係であった」と明記した上で、朝鮮を筆頭に挙げています。さらにその注として『清史稿』「属国伝」を引いています。つまりこのお二人の説に忠実に従う限りは、「東アジアの国際関係自体は歴史的に大きく変容しており、「冊封体制」という言葉だけで全時代的に中華帝国を中心としたヒエラルキーから説明するのはおそらく適切ではないでしょう」といったコメントはできないはずです。つまりKanbunさんは何度も両論文を引用しながら、ご高説に都合の良い部分のみをチョイスしているのではないですか。無論その他の研究においても、Kanbunさんのご意見を補強するものは無いと思いますよ。具体的な反論お待ちします。

また朝鮮が主体的に行動するかどうかという点について。それによって「日本の植民地支配に甘んじる結果」が生じるものなのですか。主体的に行動すれば全て独立を勝ち取れるのであれば、非常に歴史は単純となり、ブローデルなんかはお払い箱ですよね。

「自主」の考え方についてこれまで述べたことから「(Dokutouさんもですが)が朝鮮人を朝鮮人として一体として認識して、朝鮮外交史を論じよう」としているわけでは断じてありえないことは明白です。そもそもわたしの紹介した茂木氏や岡本氏の著作・論文を読んだ上でコメントすれば、このようなコメントをできないはずです。先日のわたしのコメントにも「独立云々についても、それまでの清と朝鮮の駆け引き、西欧や日本から国際秩序の知識流入といた諸条件に刺激されてナショナリズム的なものが芽生え、発生した動きです」と書いてあり、開化派や保守派のことを念頭においた発言をしています。なぜそのような解釈が導き出されるのか不思議です。むしろKanbunさんの方こそ「朝鮮人を朝鮮人として一体として認識して」朝鮮側に「外交政策決定に決定権がない」と、朝鮮外交史を論じようとしているように見受けられます。なにしろご自分で「この時代の朝鮮が主体的に一貫性を持って外交を選択していたとするのはちょっと無理があるでしょう」といわれているわけですからね。

「朝鮮を朝鮮側の視点だけで論じるのではなく、その関係諸勢力と結びついた裏側の勢力の視点が当然必要とされるのであり、その意味であらためて朝鮮の近代外交体制を論じるときに、清と朝鮮の間の宗属関係の性格も明らかにできると述べているわけです」という箇所についてですが、再度書きますがわたしはさきに「併存の間、清朝・朝鮮・日本・西欧といった国・地域が綱引きを演じた。「属国」ということばにいかなる意味を込めるかもその一つである」と明確に述べていますよね。

さらに「近代国際法と従来の宗属関係の論理を比較することが可能」だとKanbunさんは述べておられますが、この点は同意します。しかし以前にも別の方に述べ、今日のコメント冒頭で述べたわたしの出した条件(冊封体制の変容と終焉を詳述し、さらにことばの変化についても触れた上でなければ不適切)をクリアせずしてどのように論ずるのですか。そもそも『清史稿』属国伝をそのまま掲載してそれが見る人に伝わるのですか。わたしは非常に疑問におもいます。

そもそも変容期についてはわたしがこの時期の東アジア外交は伝統的な国際秩序から「条約体制」に移行しつつある変容期として捉えるべきだと述べたのが最初であって、当初Kanbunさんはそのようなことを一切言っていませんでしたよね。今になって明言せずに発言を修正されるのですか。

そして前回の発言の糟屋氏の史料を引用したあと「この独立が清国の属国のような立場からの「独立」をさしていると考えられるでしょう」とKanbunさんは述べておられますが、その総括部分に置いて糟屋氏は「清からの独立の強調は、清による旧藩属国視政策への対抗という現実的な意味をもっていたといえる」と書いています。これをKanbunさんのいうような「清国の属国のような立場からの「独立」をさしている」とはとても言えないでしょう。「旧藩属国」というのは近代国際法下での属国を指さないのは明白ですから。

史料の翻訳・書き下しについて。Kanbunさんは「そのまま引用しており」と断っておられますが、以前の引用では「金自身がその直後に「特に韓半島を支配しようと相互に競争していた清国と日本の関係から見てもこの問題は単純ではない。開港以後にも儀礼的にゆるやかな形態の華夷体制維持を考えていた深刻は、壬午軍乱以後に前近代的な「従属関係」を近代的な形態の属国、属邦、つまり植民地にしようと画策していた。(深刻というのは清国の誤植と思われる)」」とあるように()内にご自分のコメントを付けていますよね。ですので(投稿者訳:云々)というかたちにしてもらえば問題ないでしょう。実際査読論文でもそのような引用は多数有ります。

有斐閣『国際法講義』の部分について。この部分に実際の朝鮮が当てはまるか否かは、論文・研究に従うべきでしょう。でなければ独自の研究と言われます。ですので、「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」とのべている論文研究を前にも言いましたが提示してください。糟屋氏や原田氏の研究が当たらないことは上で述べました。でないと[1][2]のようなふざけた投稿を是正できません。早急にお願いします。

西嶋説について。堀敏一氏が批判した件を前回述べたのに対し、堀敏一氏が西嶋説にかわる説をとなえた云々と書かれていましたが、批判はすぐ説の交替を意味するのですか。わたしは堀敏一氏の羈縻論と冊封体制説についての学説を承知していないほどの人間だと見られていたわけですか。一応申し上げるとこの時代が専門ではないとはいえ、『中国と古代東アジア世界』ぐらいは持っていますよ。また「Dokutouさんが「冊封体制論」の典型として西嶋説を紹介するのが適切ではないというのならば、それは当たらない」と述べていますが、わたしは西嶋説だけを代表させたかたちで論じるのは適切ではないと申し上げているのに過ぎません。むしろいろいろ変更されているのにそれに全く言及せずプロト冊封体制についていうのは適切ではないと申し上げているのです。下に述べるように、1800年代後半の清韓外交関係を論じる時には西嶋説だけを念頭におくわけにはいきません。むしろこの時代を扱う研究者は冊封ということばから朝貢システム論を連想する方が自然です。

そして李成市氏のその本は西嶋説の主流に従っていると解説しているのにくわえ、「こうした成果を前提に、対象とする地域を押し広げて、韓錫を媒介とする関係だけでなく、さらに中国王朝との「朝貢」関係までを含めて、時代も古代から清王朝にいたるまでの千数百年にわたる連綿とした「中華的世界秩序」ともいうべき秩序構造として、拡大した解釈がなされるにいたる。たとえば浜下武志氏は云々」(29頁)という文章は眼に入りませんでしたか。繰り返しますが、この朝貢システム論を賛成するにしても批判するにしても念頭に置かねば、冊封体制の変容・終焉期のことは語れません。西嶋説のみを念頭におき、名目的だの実質的だの言ってもおかしいだけです。浜下武志氏の名前は前にも出しましたね。この人はこういう問題を語るとき絶対に抜かせないひとであることをまず認識してください。--獨頭 2006年7月8日 (土) 16:29 (UTC)

まず近代外交史における共通理解について。「次にご希望されている外交史の理解についてもコメントしますが、「朝鮮側の「「自主」を保つ上での方便であると割り切って理解していた」という点は見いだせないと述べているまでです」というコメントをされていますが、Kanbunさんは朴珪寿や李鴻章の手紙、「朝清商民水陸貿易章程」を挙げた上で、金氏批評の「外交を自主的に行っていた」という意見を批判し、「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当であろうということ」という結論の証明となっているのですよね。それなのにそれとは異なる研究をわたしが提示したのに対し、「述べているまでです」とトーンダウンさせるのはいかがなものでしょう。これへの正確な反論はなされていませんよね。そもそもわたしが紹介した茂木氏や岡本氏の見解は、全く金氏と重なるのですか。どこかどう重なるのですか。具体的に指摘してください。「外交を自主的に行っていた」の「自主」と「形式=自主、実質=介入」の「自主」とは同じ意味なのですか。そしてこれは「仮に朝鮮が主体的に行動したと自負していても、実際はそのように運ばなかったことが近代外交史の共通理解」に反するものですか。」とDokutouさんがおっしゃっていることは、「仮に朝鮮が主体的に行動したと自負していても、実際はそのように運ばなかったことが近代外交史の共通理解」ということは認めているわけですよね?私が糟屋の「独立がまず清からの独立として把握されたことが、日露両国による対朝鮮支配の進展という情勢に対応して朝鮮内部の諸勢力(皇帝とその側近勢力、政府、独立協会など)が展開したさまざまの動きに、どのように影響したのかを、具体的に考察する必要がある。すでに紙幅の余裕がないので、この重要な課題が残されていることだけ述べて、本稿を終えることとしたい」をあげたのは、なぜ「朝鮮が一貫した主体性を持って外交を展開できなかったのか」またさまざまな経緯があるにせよ、「日清戦争が朝鮮を巡る国際条約からの清国の影響の排除、清国からの独立」としておこなわれたのであったこと。つまり日清戦争以前の朝鮮が明らかに外交上清国の影響下にあり、それは近代国際法的意味での「属国」観を伴っていたことを述べているわけです。私が金の批評を当たらないと言っているのは、彼は「独立」という語が、独立とはいうけれども属国意識によったものではないといい(独立協会のことを考えると当たりません)、清国の属邦だから外交に応じないというのは鎖国を続けるための方便だったというように述べているからです。朝鮮が日清戦争に至るまでの間主体性を喪失しているように見えるのは、清国との間の関係性が影響していることにはDokutouさんももちろん反対ではないということですよね?--Kanbun 2006年7月8日 (土) 22:41 (UTC)

「そもそも変容期についてはわたしがこの時期の東アジア外交は伝統的な国際秩序から「条約体制」に移行しつつある変容期として捉えるべきだと述べたのが最初であって、当初Kanbunさんはそのようなことを一切言っていませんでしたよね。今になって明言せずに発言を修正されるのですか。」とおっしゃっていますが、私が述べたのはDokutouさんが「変容期だから近代国際法と違う論理が存在していたため、ここに近代国際法の論理を持ち込むのはおかしい」と述べていたようですので、それならば「変容期だからこそ国際法の論理が問題にされるのでは?」と言っているのです。この時期が変容期でないなどと私がどこかで言っていましたか?--Kanbun 2006年7月8日 (土) 22:41 (UTC)

「そして李成市氏のその本は西嶋説の主流に従っていると解説しているのにくわえ、「こうした成果を前提に、対象とする地域を押し広げて、韓錫を媒介とする関係だけでなく、さらに中国王朝との「朝貢」関係までを含めて、時代も古代から清王朝にいたるまでの千数百年にわたる連綿とした「中華的世界秩序」ともいうべき秩序構造として、拡大した解釈がなされるにいたる。たとえば浜下武志氏は云々」(29頁)という文章は眼に入りませんでしたか。繰り返しますが、この朝貢システム論を賛成するにしても批判するにしても念頭に置かねば、冊封体制の変容・終焉期のことは語れません。西嶋説のみを念頭におき、名目的だの実質的だの言ってもおかしいだけです。浜下武志氏の名前は前にも出しましたね。この人はこういう問題を語るとき絶対に抜かせないひとであることをまず認識してください。」とおっしゃっているということは、とりあえず西嶋説を「冊封体制論」の主流とすることに賛成であるということですね?また堀らの所論があるにせよ、基本的に西嶋の「冊封体制論」の枠で記事を記述し、浜下の見方、および堀らの所論に言及するという形にしてもよいとおっしゃっているのですね?--Kanbun 2006年7月8日 (土) 22:41 (UTC)

また私自身は西嶋の「冊封体制」と歴史的事実としての「冊封関係」が異なるということを述べて、それらを別々の論理から記述すべきと言っているまでで、西嶋説だけでここの記事を書くという主張は最初から全くしておりません。繰り返しますが、私が言っているのは「冊封関係」と「冊封体制」を分けるべきということです。これはどの「冊封体制論」に立つにせよ、それがそこに単なる「冊封関係」以上の意味を見出すからには、歴史的事実との「冊封関係」とは異なる要素が当然あるということです。また私は岩波現代文庫版を参照しているのですが、李の解説に浜下説への言及はありませんね。浜下説が重要であるならば、Dokutouさん自身が説明してくだされば私も大いに勉強になりますし、よくわからない、瑣末な部分で当方の変な落ち度(?)を探し回るより、まずはお互いの基本的姿勢に対する理解を深めるべきだと思います。--Kanbun 2006年7月8日 (土) 23:02 (UTC)
ああ、なるほど。私は『古代東アジア世界と日本』を参照しているのですが、Dokutouさんは『中国と古代東アジア世界』の解説を参照されたのでしょうか?私の参照した方には浜下説への言及は全くありません。ので、それを落ち度とされるのは筋違いと思われますが、どうですか?またこのことは逆に朝貢システム論という余地はあるにせよ、西嶋説が主流の位置にあることは共通の見解であるということを一応お互い確認したと見てよいということですね?全くこの分野では類似書が多くて主要な論点を参照するのもかなり一苦労ですね。お互いがんばりましょう。--Kanbun 2006年7月8日 (土) 23:10 (UTC)

「西嶋説について。堀敏一氏が批判した件を前回述べたのに対し、堀敏一氏が西嶋説にかわる説をとなえた云々と書かれていましたが、批判はすぐ説の交替を意味するのですか。わたしは堀敏一氏の羈縻論と冊封体制説についての学説を承知していないほどの人間だと見られていたわけですか。」とありますが、別に私がDokutouさんを値踏みしてあなたがこういう程度の人物だとかそんなことは一度も言ってないのですが。どうもDokutouさんはかなりヒートアップしておられるようで心配しています。とくにブローデル云々は、彼の歴史観に対する評価も一様ではないですし、以前のDokutouさんの説がブローデルのように、朝鮮の歴史的地理の部分から論じているわけでもないのに勝手に自分の側に持っていくのは適切ではありませんね。まさかDokutouさんはブローデルばりにこの時期の東アジア世界を地理風土、民族言語状況、文化交流、政治勢力などの重層的な世界として認識した説をどこかでこの『清史稿』属国伝を注から削除することの根拠にしていたというわけですか。また私自身を「主体的に行動すればそれが独立の道だ」というようなことを述べているとおっしゃっているのなら、それは当たりません。私は旧外交体制が近代国際法の文脈に置き換えられる過程で朝鮮が「独立国」として自己完結できなかった問題が明らかにできると述べているのです。ここでブローデルを引き合いに出す理由は、全然ないと思われますし、なんで私の言っていることがブローデルの史観に反するのか、私は『地中海』を愛読していますが、Dokutouさんの意図ははかりかねます。私が考えるに、ブローデルほど広大で重層的な歴史意識があるのでしたら、冊封関係と『清史稿』属国伝の間の「属国」意識の関係性を鮮明に描き出すことも可能だと思いますがね。あるいは歴史観が単純だから当たらないと言うのも変な話で、少なくとも単純な歴史観を相互に緊密に結びつけていくことで複雑で重層的な歴史観を形成することも可能であり、実際歴史学の歩んできた道はさまざまな史観を内包しつつ、それを精査した上で取り込み、変容してきた過程です。以上なんでブローデル云々なのかわかりませんが、ブローデルに引っかけて私を批判するならそれこそDokutouさん自身が歴史風土から文化交流、現代の政治関係に至るまで東アジア世界を精緻に描いてみてはどうですか。私自身はむしろDokutouさんが「冊封体制」の一語のもとに清国と朝鮮の関係を断定し、それが「近代外交体制」と違うから、朝鮮と清国の関係は「冊封体制」だけから論ずるべきだと述べているように感じられますね。『清史稿』属国伝もそれがどのようなものなのかとりあえず表現として注目すべき事例であると思えるにも関わらず、「近代外交体制」の意味の「属国」とは違うから切り捨てる。これこそブローデルのような歴史家と相反する歴史認識なのではないですか?さて、「冊封体制論」について私が言っているのは、堀らの所論が「冊封関係」を中心に東アジア世界を構成するものではないようなので、「冊封体制論」というには当たらないと言ったまでです。もちろん彼らの「冊封体制論」批判は参照すべきです。ですので、繰り返しになりますが、「この冊封項目は冊封及び冊封体制について書くところなのですか、それとも西嶋説のみを取り上げるところなのですか。仮に後者だとすると、その後の堀敏一氏の論や藤間生大氏の東アジア形成論など多くの研究が捨象されてしまいます。つまり西嶋説と違うから云々というのはそもそも論点がずれています。」という理由で堀らの所論をあげるならば、それは私の意図を誤解していると述べているまでです。またプロト冊封体制論云々という部分ですが、別に私は冊封関係と冊封体制が異なる概念である旨述べているだけで、冊封体制がある種の発展段階をとってきたのだとか、そんなことは考えてもいませんし、主張もしていません。李も述べているように、西嶋説が一時期の東アジア国際関係から立論しているので、実際の冊封関係と冊封体制は異なり、本来的な冊封関係と冊封体制でとらえられている部分を弁別すべきだと申しているのみで、しかもそれは朝貢システム論であろうと免れることはできない問題です。ことにここは「冊封」に関する記事であるのですからね。--Kanbun 2006年7月8日 (土) 23:10 (UTC)

「有斐閣『国際法講義』の部分について。この部分に実際の朝鮮が当てはまるか否かは、論文・研究に従うべきでしょう。でなければ独自の研究と言われます。ですので、「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」とのべている論文研究を前にも言いましたが提示してください。糟屋氏や原田氏の研究が当たらないことは上で述べました。でないと[3][4]のようなふざけた投稿を是正できません。早急にお願いします。」とありますが、ほかのウィキペディアンの投稿の責任が私にあるような言い方はやめていただきたいですね。牽制でもしているつもりなのですか?とりあえずこの時期の朝鮮外交は急速に転回しているため、私も一面的にこことここがこうだから「属国」と論じたつもりもありませんし、「冊封体制」下での清と朝鮮の関係は、日韓協約の日本と韓国のようなものだなどと述べているのではありません。私自身は清国と朝鮮の冊封関係をこの時期の交渉で近代国際関係に改鋳していく際に、近代国際法的な「属国」におきかわっていく可能性が強いものであった(朝鮮側がこの交渉過程で最終的に日本からの圧力があったにせよ宗属関係の廃棄に向かっている)ということ、朝鮮の当初の外交のなかで近代国際法的な宗属関係に「冊封関係」の論理を合わせてしまっていること。よって金の「冊封体制が名目的だったから、朝鮮は以前から(近代国際法的にも)独立していたのだ」という論であるならば、金も近代国際関係と近代東アジア国際関係を都合のいいところでリンクさせているという意味で当たらないと言っているのです。とりあえず清と朝鮮の「宗属関係」が名目的ではなかったということは、いままでの討論の経緯からDokutouさんも同じ考えだと思いますが、どうですか?--Kanbun 2006年7月8日 (土) 22:41 (UTC)

「史料の翻訳・書き下しについて。Kanbunさんは「そのまま引用しており」と断っておられますが、以前の引用では「金自身がその直後に「特に韓半島を支配しようと相互に競争していた清国と日本の関係から見てもこの問題は単純ではない。開港以後にも儀礼的にゆるやかな形態の華夷体制維持を考えていた深刻は、壬午軍乱以後に前近代的な「従属関係」を近代的な形態の属国、属邦、つまり植民地にしようと画策していた。(深刻というのは清国の誤植と思われる)」」とあるように()内にご自分のコメントを付けていますよね。ですので(投稿者訳:云々)というかたちにしてもらえば問題ないでしょう。実際査読論文でもそのような引用は多数有ります。」とおっしゃられていることについて。そうおっしゃるなら、Dokutouさんが自前で書き下し文をつけてもかまいませんよ。何か誤った解釈があれば、その部分を指摘することにすれば問題ないのでは?Dokutouさん自身はその箇所を一応こういう意味であろうと汲み取ることはできたのでしょうから。「解釈上の決定的な問題だ!」というなら、Dokutouさん自身がやっぱり別訳をしなきゃいかんと思うでしょうし、書き下し文の有無は争点からしてそれほど重要ではないのでは?--Kanbun 2006年7月8日 (土) 23:17 (UTC)

「冊封体制の変容と終焉を詳述」すべきとおっしゃっていることについて。私自身は「冊封関係」と「冊封体制」が異なることを述べており、また変容と終焉を詳述するという意見には基本的に賛成です。ただ「冊封体制」をそのまま旧来の外交秩序として無批判に受け入れることは不可能(堀の所論などをあげて西嶋説の一般性を疑うDokutouさんも同じ意見のように思われます。西嶋以外の冊封体制論によるにせよ、冊封体制論の一般性を疑われる以上、単に冊封体制で旧外交秩序を論じることも当然疑ってらっしゃいますね)のように思われますので、『清史稿』属国伝を注として記載することにそれほど明示的に「冊封体制」の説明を条件とするのは不必要だということです。とくに参考として記載する分には問題ないでしょう。さまざまな要求に対応する百科事典という意味で記事の汎用性という観点からも、らりたさんが下で提示しているように、まず学界の動向と同じように西嶋説を中心に「冊封体制」を述べて、「冊封体制論」の異論・「冊封体制論」自体への反対論を記し、適当な箇所に『清史稿』属国伝の記事も注として潜り込ませてはどうでしょう?--Kanbun 2006年7月8日 (土) 23:42 (UTC)

近代外交史における共通理解について。繰り返しますが、以前「前近代の国際秩序と「条約体制」とが併存していた。併存の間、清朝・朝鮮・日本・西欧といった国・地域が綱引きを演じた」と述べていますが、当然当時の朝鮮に影響力を行使しようと清朝及び列強が圧力をかけて勢力間-これは当然朝鮮内部の派閥抗争にも影響を与えていることは勿論です-に角逐が生じたこと、そして清朝が有力なプレーヤーであったことは否定できません。李鴻章配下の馬建忠や袁世凱が近代国際法的意味での「属国」観をもって迫ろうとしたとも言えるでしょう。しかしだからといって「日清戦争以前の朝鮮が明らかに外交上清国の影響下にあり、それは近代国際法的意味での「属国」観を伴っていた」とか「朝鮮は単なる冊封関係を超えた強い清国との宗属関係のもとにあっと」といったKanbunさんのご意見は飛躍しすぎです。日清戦争以前の清・朝関係はそんなに単純ではありません。そもそもこのご意見は研究にかいてあるものでなく、Kanbunさんご自身の推理に過ぎないでしょう。糟屋氏の論からKanbunさんのご意見に至るまでの証明(無論それは誰かの研究ですが)が欠如しています。故に反論とはなっていません。
西欧列強がタフ・プレーヤーとして東アジアに登場して以降、外交という国家の権利が徐々に注視されていくわけですが、この時期の清・朝関係を中国外交史研究では概念化して「属国自主」とか「属国体制」と呼びます。今までわたしが述べてきた冊封体制の変容期に当たります。「属国自主」とは、当時の宗属関係下の朝鮮について清朝が列強に説明するとき、「属国」(subject states)かと訊かれると「自主之邦」といい、独立した主権国家(sovereign states)かと言われると「属国」(朝貢国)と回答したことに基づくものです。西欧の国際観念に摺り合わせようと清朝が非常に苦慮したことが判るでしょう。この国際秩序観の相違に自覚的になるにつれ、清は宗属関係を西欧的な属国観念にシフトさせようとし、日本やイギリスといった諸外国は朝鮮を独立した主権国家だと認めようと画策していくのです。ではこの中で朝鮮自体はどう動いたのか。そもそも本当に「日清戦争以前の朝鮮が明らかに外交上清国の影響下にあ」ったのでしょうか。江戸幕府と朝鮮との様々な交渉について清は把握してなかったようで、明治になってから日朝間の懸案となった「書契問題」すら察知していませんでした。清の属国化政策を強化する以前に締結された江華条約は、清にほとんど相談することなく(無論事後報告はしていますが)、結ばれています。むしろ日本の方が森有礼などを通じ清は朝鮮をどう捉えているのかなど問い合わせを頻々としています。
では馬建忠などが朝鮮に派遣されて以降はどうだったのか。派遣自体、清の属国化方針の強い意志の表れですが、朝鮮が清の強い影響下にあったかというとそうとは言えない。馬建忠や袁世凱はおいそれと強いイニシアチブを発揮できなかったのです。以前紹介した岡本は欧米や日本に対し清・朝関係をいかに定義づけるのかという問題に対し「清朝と朝鮮のあいだには、このときすでに看過すべからざる懸隔が横たわっていたのである」と述べています。一例を挙げると壬午事変における謝罪のために朝鮮は使節を日本に送っていますが、朝鮮使節団は活発に駐日外国公使たちと会談しています。むろん清朝とは細かい打ち合わせなど無くです。そのため当時の駐日清国公使黎庶昌は朝鮮使節団を苦々しく思い、「朝に親日の志あり」と打電しているほどです。またこの時会ったパークス英公使に面会した折り、「中朝商民水陸貿易章程」と同等の特権を西欧列強に与えることができるかとパークスが問うと、「条約の修正でも新条約の締結でも、清朝を介さず、直接朝鮮に言ってくれば、朝鮮に不利でない条件は西欧諸国にも及ぼすでしょう」と答えています。これから判るのは確かに清朝の影響はあるけれども、朝鮮の外交的選択権が損なわれていたわけではないということです。清の影響があったことまではKanbunさんと同意見ですが、それから進んで「日清戦争以前の朝鮮が明らかに外交上清国の影響下にあり、それは近代国際法的意味での「属国」観を伴っていた」とか「朝鮮は単なる冊封関係を超えた強い清国との宗属関係のもとにあった」などとはとても言えません。譲歩するにしても清側に限って「近代国際法的意味での「属国」観を」もっていたという線までです。とてもじゃないですが、そこから踏み込んで清・朝関係全般にまで言及はできません。糟屋氏の独立云々の論にしても、その独立は伝統的宗属関係からの離脱であることは前回示しましたね。また独立という意識が行動をともなってのぼってきたのは、壬午事変以降の僅かな期間に過ぎず、長い朝貢関係のほんの一こまに過ぎない。はたしてこの時期の外交研究の専門家である川島真は以下のように言っています。「それは属国体制と呼ばれたが、これは従来の朝貢体制とも異なり、また万国公法で言う属国とも異なるようであり、「読み替え」というより、暫定的調整のように見えた」。さらに「実は「読み替え論」は朝鮮側の史料などを勘案すれば、まだ「読み替え」とは言えない可能性を残していると思われる」と述べています。これは中国側からみて属国化政策を推し進めたけれど、朝鮮側から見ると近代国際法的な属国へと進んだとは言い切れないと言うことです。Kanbunさんの「変容期だからその時期には近代国際法の論理は完結されていないと見るのは方便で、変容期だからこそ従来の伝統秩序が近代国際法の論理におきかえられていく過程が明らかになるのであり」という意見がいかに研究者のものかけ離れているか、明確に判るのではないですか。このように安易な結論を史家は排しています。こうした「現場」の意見を聞く限りKanbunさんのような意見は先走りすぎであるし、『清史稿』「属国伝」についても「それがどのようなものなのかとりあえず表現として注目すべき事例であると思える」とはいえないでしょう。それはどうして注目すべきなのか近代の清・朝関係の推移と『清史稿』の関係が具体的に全く語られていないからです。「清国側の視点として「冊封関係」だけでは規定されない何らかの「属国」意識が存在している可能性もあるということです」と言われても、それが『清史稿』に即して言われているわけではない。その「可能性」とやらがどういうものなのか『清史稿』の中に見出しているわけでなく、単なる予想に過ぎない。「原田論文は朝鮮と清との関係に近代的な「宗属関係」に容易に転化するような強固な関係性があったと見ているわけです」と言われても、原田論文は『清史稿』を注として、しかも冊封体制の関連から取り上げているに過ぎず、『清史稿』執筆者達の国際観念がその執筆にいかに影響したかを論じているわけでもない。こうしたごく当然の反論をかわすことができなければ、「「近代外交体制」の意味の「属国」とは違うから切り捨てる」という批判は享受できません。
そもそも『清史稿』「属国伝」は清初から清末までの長い歴史を扱い、さらに朝鮮の他琉球など諸国も含めて記述したものです。時間・地理空間の比重が全く異なる。1800年代後半からのイレギュラーな外交状態の参照としてはその面からも不適切極まりないでしょう。この不適切さを「明示的に「冊封体制」の説明を条件とするのは不必要」とどうして言えるのですか。むしろ「明示的」にしないことは、読者の誤解を誘うもの以外何者でもありません。また水野白楓さんの問いに滔々と答えられておられるけど、その論の根拠となる視野を提示した研究を示しておられない。わたしがこれまで述べてきた研究上の観点及び編集上の問題点をクリアするほどの典拠を示しておらず、Kanbunさんの私見に止まっています。そういうものがない限り、(こちらは上に示すように実例と研究を挙げたのだから)、「明示的に「冊封体制」の説明を条件とするのは不必要」というご意見には従えません。反論はそのような研究の具体的提示をもってなさってください。
以上の理由から「明示的」にする必要はないというご意見には全くもって首肯できませんが、しかし『清史稿』を取り上げる場合冊封体制の変容・終焉を詳述する点に同意された点は評価します。念のため申しますが、「属国伝」を取り上げないので有れば、また「属国」という紛らわしい表記が登場しない限りは、変容・終焉について詳述する必要は無いと考えます。なにしろ長い歴史の中のほんの数十年のことですからね。
李成市氏の件について。まず出典について勘違いした件は謝罪します。わたしの引用した李成市氏の言は全く別の書のものです。ただその引用の意味するところは「西嶋説を「冊封体制論」の主流とすることに賛成」には有りません。7月7日 (金) 10:49 (UTC)のKanbunさんのご意見は「西嶋自身はその後、例示として宋以後の政治関係・文化交流を述べ、それを「冊封体制」から根拠づけようとしたために全時代的に拡大しているように見えますが、云々」とのべていますが、全時代的にどうのこうのいうのに、冊封体制の変種たる朝貢体制について考慮されておられないようでしたので浜下説に言及しなければ片手落ちですと述べたまでです。しかし西嶋説を説明した後、堀説や浜下説にふれるべきという意見ではあります。あと『中国と古代東アジア世界』とは1993年に出た堀氏の著作で堀説を明確に捉えるのに最も適切と言われている書です。
さらに「冊封関係」と「冊封体制」を分けるべきというご意見について伺いますが、それはどういう研究に拠っているのですか。改めて質問します。何度も言われる以上、単なる私見ではないようですが、こちらもそれを取り寄せ読まない限り軽々に首肯できないため、書名提示してください。具体的な提示がない限り、独自の研究に当たることはご存じでしょうから、お考えを記事に反映させたいとお考えで有れば必ず書名を教えてください。朝貢システム論の取り上げ方にも私見がありますが、とりあえずその根拠を確認してから披露することにします。
有斐閣『国際法講義』の部分について。無論牽制するつもりなど有りません。しかし何度聞いてもKanbunさんのご意見は独自のものに聞こえますので、前にも述べたように早く根拠となる学説名か書名を提示して欲しいだけです。それと「名目的」ということばの内実をもう少し説明して欲しいですね。さらに「朝鮮の当初の外交のなかで近代国際法的な宗属関係に「冊封関係」の論理を合わせてしまっていること」というのは事実誤認です。上に述べたように、また前にも述べたように、初期において朝鮮側は清との宗属関係をたてに列強との条約締結などをしぶっていますからね。むろんそれは清に強要されたのではなく、外交的面倒ごとを清に押しつけるためでした。前後しますが「清国と朝鮮の冊封関係をこの時期の交渉で近代国際関係に改鋳していく際に、近代国際法的な「属国」におきかわっていく可能性が強いものであった」というのも、今日述べたように非常に怪しい。清側はそのつもりで臨んでも、朝鮮側は戦略的に冊封的な関係にとどまり、外交的な面倒ごとを清に押しつけ、さらに清の内政干渉を最小限にしようとした、という方が実情に近い。上記の通りです。先行研究に従う限りこういわざるを得ない。
史料の翻訳・書き下しについて。無論これはお願いであって、こうすべきだといっているわけではありません。Wikipediaにそういうルールはおそらく無いでしょう。しかしマナーという点からいうとした方がよいということです。何も片務的にいっているわけではなく、この項目の上の方で『清史稿』を書き下しているのはわたしであって、他人のものを写したわけではありません。章炳麟の文ほど難易度があるわけでもなく、そんなに労苦を伴うような文章とも思えないし、何故厭われるのか不思議ですね。わたしとしては論文や研究会で当たり前にやっていることをお願いしているだけなんですがね。『清史稿』の訓読も別に誰かに読解に大いなる疑義がある、と言われてからしたわけではありませんよ。--獨頭 2006年7月9日 (日) 19:11 (UTC)
「冊封関係」と「冊封体制」が異なることについて。これは単純に西嶋の「冊封体制」と歴史的事実としての「冊封関係」が異なっていることから述べています。前漢の南越・衛氏朝鮮、宋・遼・金・元が取り結んだ「冊封関係」を「冊封体制」に含めていないためです。西嶋自身も「冊封体制」と「冊封関係」を弁別して使っているようです。ただし、推古朝の日本が「冊封関係」外で「冊封体制」内というのは誤りであったようで、西嶋は推古朝の日本を「冊封体制」外にあると明言しています。私は当初から「冊封体制」と「冊封関係」が異なるというのは、西嶋の視点である旨述べています。さて、西嶋説が主流でないというのは、現在の記事の内容が西嶋説と異なる内容であることは問題視するに当たらない、ということでしょうか。とすれば、現在の冊封体制が誰の説の何の意味で使われているのか、Dokutouさん自身は特定されているのですか?--Kanbun 2006年7月9日 (日) 20:48 (UTC) 2006年7月9日 (日) 20:47 (UTC)
『清史稿』属国伝について。「1800年代後半からのイレギュラーな外交状態の参照としてはその面からも不適切極まりないでしょう。この不適切さを「明示的に「冊封体制」の説明を条件とするのは不必要」とどうして言えるのですか。むしろ「明示的」にしないことは、読者の誤解を誘うもの以外何者でもありません。」とありますが、私自身はそれがどうして「冊封体制」から判断可能なのかということを問いたいですね。『清史稿』属国伝の記述をこの記事からはずしたいということはそれこそ「冊封体制」からすればイレギュラーなんでしょうから、別に参考として記しても良いのでは?私は最初から申し上げていますが、これが近代国際法的意味での「属国」でないことは承知してお話ししています。--Kanbun 2006年7月9日 (日) 20:48 (UTC) 2006年7月9日 (日) 20:47 (UTC)
近代外交体制について。さてこの時期の朝鮮について的確に捉えるのは難しいのは、朝鮮自体がおそらく勢力ごとに錯綜した政治抗争をしていたためでしょう。ところでDokutouさんの見方をとることが可能であるにせよ、日清修好条規後にフランス人司教リデルらの釈放問題が起こった際、日本側の釈放に対する勧告に朝鮮側が「上国」「上国指揮」などの文字や台頭書法を用い、それに対する日本側の難詰に対して、礼曹判書尹滋承が送った反論文書には「朝鮮が中国の属国であることは各国の知るところで、上国と称するも台頭書法も用いるも当然のこと、「自主の邦」は日本が条約に書いたことであって、朝鮮が自称したわけではないと返答した(糟屋)ということは上のような朝鮮がその効果を知りつつ外交表現を選択していた、あるいは清国のみが近代的意味での「属国」観を旧来の宗属関係に見ていたという視点と反するでしょう。これはもちろん日本の進出への危機意識からでしょうが、朝鮮側がここで示しているのは少なくとも日朝修好条規にあるような近代的意味での「独立国」ではなかったこと(近代国際法では「独立国」でない国が「被保護国」あるいは「属国」であるため)、この時期の朝鮮は自主平等条項を否定することにより宗属関係に対して近代的意味での「属国」と表明していたといえるでしょう。糟屋によれば、こののち清国側からの対欧米開国の勧告から朝鮮の外交政策は転回します。さてそうすると、川島真の「「それは属国体制と呼ばれたが、これは従来の朝貢体制とも異なり、また万国公法で言う属国とも異なるようであり、「読み替え」というより、暫定的調整のように見えた」。さらに「実は「読み替え論」は朝鮮側の史料などを勘案すれば、まだ「読み替え」とは言えない可能性を残していると思われる」」という言葉はDokutouさんの言うように「これは中国側からみて属国化政策を推し進めたけれど、朝鮮側から見ると近代国際法的な属国へと進んだとは言い切れないと言うことです。」ということなのか。どういう文脈で川島が言っているのかわからないので、判然としかねるのですが、できれば川島の書名を教えていただけると幸いです、自身で参照しますので。当方の方でもこの言葉の意図をくみとる必要を感じます。--Kanbun 2006年7月9日 (日) 20:48 (UTC) 2006年7月9日 (日) 20:47 (UTC)
またDokutouさんがいまおっしゃられていることは「「属国、保護国のように主権の一部を条約により外国により制限されることは無かったので、このような表現をとったとされる」とあるように、近代国際法の意味を内包しているかどうかという点で「属国」の意味は時期によって異なります。では何時から異なるのか。それは冊封体制が「条約体制」ともいうべき西欧由来の国際秩序に出合った時からです。」という当初の姿勢とは大きく異なっているように思われます(「属国自主」のあたりで。また朝鮮側がそこまで的確に近代の国際関係を理解して「属国」と「自主」を器用に使い分けたとするにはあまりに朝鮮の外交論理に一貫性がないように思われます。また当時「属国」の意味における旧来の語法と近代国際関係での語法の意味の競合があって、その間で状況に応じて以前の宗属関係と近代国際関係の概念のすりあわせをしたというのなら、近代的意味でない「属国」の語法だから着目するに当たらないと言うのは変であるように思われます。「冊封体制」も一定の支配の形式を導くとはいえ、中国と被冊封国の宗属関係を制度形式的に見てしまう弊害があることは李が述べているところですし。李はそのうえで東アジア文化論としての「冊封体制」の批判には当たらないとしていますが、これは逆に東アジア国際関係論としてはやはり実際の力関係や外交論理と異なる部分があることを示唆しています。西嶋自身も実際の各国の力関係を見落としてはいけないと述べていますし、堀らの批判もそこら辺に集中しているようです)。このことは「冊封体制」を詳述しなければ、注に『清史稿』属国伝をいれるのは適切でないというより、「冊封体制」を詳述しなければ『清史稿』属国伝の記事との相違が明らかにできないのでは?ということを私に思わせるのですが、どうですか?--Kanbun 2006年7月9日 (日) 20:52 (UTC)
「冊封関係」と「冊封体制」が異なることについて。どうもお一人でヒートアップして過敏に反応しているのではありませんか。その点心配しています。わたしはKanbunさんは西嶋氏の名前を連呼する割に、他の説も併せて言われるのかなと思い、その書名や論文名を訊いているだけですがね。「西嶋の視点である旨述べています」といわれても、下にあるように正朔や朝貢に関しての意見を聞くかぎりどうも西嶋説だけに拠っているだけとも思えない。それで一度きっちり伺おうと思うのはそんなに変ですか。また他の説もあわせて言われているのならそのブレンド具合を知りたいだけですよ。西嶋氏の著作は『古代東アジア世界と日本』だけなのですか。西嶋氏の著作も批判を吸収して時期によって異なるでしょうから、他に有れば教えて欲しいですね。--獨頭 2006年7月10日 (月) 17:31 (UTC)
べつに私は過敏に反応しているのではなくて、Dokutouさんが「冊封体制」で近代以前の東アジア外交が余すところなく説明できると考えているのかもしれないと気づきましたので。西嶋の文献では手許にあるのが『古代東アジア世界と日本』だけなのでこれを参照していますが、これは2000年に関係論文と李の解説をあわせて文庫としていますから、西嶋説の典型としては要を得ています。ブレンドはしていませんよ。だって最初から「冊封体制」はとりあえず西嶋説の概念ではないかといっているのですから。むしろ私としては今の記事がどういうブレンドをされているのか興味があります。--Kanbun 2006年7月10日 (月) 21:55 (UTC)
それと主流かどうかという言葉じりにどうもこだわっているようですが、『大辞林』では「その時代の学問・思想などの中心となる流派・傾向」という説明していますよね。西嶋説をどう料理するつもりか文案を見せていただかないと正確には言えないけれど、明清以降近代までの時期をもし西嶋説で説明されると、古いなぁ、なんで浜下説とかじゃないのと明清以降の研究者は思うでしょう。あるいは明清以降を西嶋説で詳しく語る必要はあるのかな、いろいろ浜下説も批判は有るだろうけど今一番日本では支持されてるのにと。「西嶋説だけを代表させたかたちで論じるのは適切ではないと申し上げているのに過ぎません」というのはこういう事ですよ。そして主流ということばへの感覚が異なっているんだろうけど、最も根本的な疑問として、西嶋説の説明の後、そのメリット・デメリットを述べ、堀説や浜下説を述べることに賛成を表明しているのに、何が問題なのかということです。方向性として合意しているのに、文案も出ていないうちに批判を述べるのは、批判のための批判のように思えるし時間の無駄だと思いませんかね。--獨頭 2006年7月10日 (月) 17:31 (UTC)
ということは今の説は浜下説に基づいて書かれているということなのですか?私自身は西嶋説をどのように理解していたかまた理解しているかを述べているつもりですし、それがよくわからないというのなら、むしろDokutouさん自身がこの記事の冊封体制の底本だという浜下説をきっちり説明してくださってはどうです?批判のための批判といいますが、私自身は今の記事内容が冊封体制の説明として妥当であるかどうか批判しているので、文案どうのと言われましても、浜下説の具体的説明がなければどこまで西嶋を入れるべきか、折り合いのつけようがないのはわかりますよね?--Kanbun 2006年7月10日 (月) 21:55 (UTC)
『清史稿』属国伝について。これもそうですが、「属国伝」を取り上げるならば冊封体制の変容・終焉についても触れる、という方針についてKanbunさんはとりあえず賛成なんですよね。また「属国伝」が「近代国際法的意味での「属国」でないこと」も納得してもらっているんですよね。さらに「属国伝」が19世紀末期における清・朝関係に直接的に関係する資料でもないことは判っているんですよね。それでこれ以上問題視する理由が動機不明ですね。とりあえず前回述べた
「『清史稿』「属国伝」についても「それがどのようなものなのかとりあえず表現として注目すべき事例であると思える」とはいえないでしょう。それはどうして注目すべきなのか近代の清・朝関係の推移と『清史稿』の関係が具体的に全く語られていないからです。「清国側の視点として「冊封関係」だけでは規定されない何らかの「属国」意識が存在している可能性もあるということです」と言われても、それが『清史稿』に即して言われているわけではない。その「可能性」とやらがどういうものなのか『清史稿』の中に見出しているわけでなく、単なる予想に過ぎない。「原田論文は朝鮮と清との関係に近代的な「宗属関係」に容易に転化するような強固な関係性があったと見ているわけです」と言われても、原田論文は『清史稿』を注として、しかも冊封体制の関連から取り上げているに過ぎず、『清史稿』執筆者達の国際観念がその執筆にいかに影響したかを論じているわけでもない。こうしたごく当然の反論をかわすことができなければ、「「近代外交体制」の意味の「属国」とは違うから切り捨てる」という批判は享受できません。 そもそも『清史稿』「属国伝」は清初から清末までの長い歴史を扱い、さらに朝鮮の他琉球など諸国も含めて記述したものです。時間・地理空間の比重が全く異なる。1800年代後半からのイレギュラーな外交状態の参照としてはその面からも不適切極まりないでしょう。」
というわたしの意見に即し、どうして不適切でないか、今の属国ということばと勘違いする可能性がないのかお答えください。なお履歴を見てもらえば判るようにそもそもはLulusukeさんが「しかし、このような冊封体制だけでは説明のできない場合もある。中華民国の編纂した清王朝に関する正史『清史稿』によれば、云々」と加筆され、まるで冊封体制以外の例として「属国伝」を挙げたのが発端ですよ。Kanbunさんは「近代国際法的意味での「属国」でないこと」を承知しているのにこうした事例を無視するのは矛盾しませんか。少なくとも『清史稿』「属国伝」を見て、現在的な属国だと思いこむ人がいることは否定できないでしょう。他にもこういう例が有るのですよ。それでも説明は不要ですか。Lulusukeさんは幸いにも賢明な方だったので編集合戦にならずに済みました。自説を潔く撤回された件、なかなか見事だと思いますよ。さらに追加の質問として、「私自身はそれがどうして「冊封体制」から判断可能なのかということを問いたい」と前回質問されていますが、それに正確に答えるために、「冊封体制から判断可能」とはなにをどう判断することを念頭に置かれているのですか。具体的に教えてください。それと事実誤認しているようですが、「『清史稿』属国伝の記述をこの記事からはずしたい」と思っているわけではありませんよ。取り扱うのなら誤解のないような説明をつけるべきだと言っているだけです。取り扱わないのなら、それはそれで良いというスタンスです。非常にシンプルでしょう。そしてこれを取り扱わないのがそんなにイレギュラーですか。他の宋や明といった正史の類似項目も別に取り上げるわけではないのですよね。むしろ「属国伝」のみに固執しているのはKanbunさんではないのですか。ついでに伺いますが、以前「それがどのようなものなのかとりあえず表現として注目すべき事例であると思える」と言われておられますが、何をどう注目すべきなのか、一度お考えを教えていただけないでしょうか。--獨頭 2006年7月10日 (月) 17:31 (UTC)
下(冊封体制と実際の力関係の部分)に述べました。--Kanbun 2006年7月10日 (月) 21:55 (UTC)
近代外交体制について。糟屋論文のフランス人司教リデルらの釈放問題から、ご意見を展開しているようですが、どうして「この時期の朝鮮は自主平等条項を否定することにより宗属関係に対して近代的意味での「属国」と表明していたといえるでしょう」と言えるのですか。自主平等条項を否定すること=近代的意味での「属国」と表明ですか。これも論理飛躍していませんか。Kanbunさんが引用したこの事件の部分のちょっと先にわざわざ糟屋氏は「宗属関係を当然のものとする朝鮮の反論にあって云々」とわざわざ書いているではないですか。前回もいいましたが、引用が恣意的すぎませんか。何度も言いますが糟屋氏がそんな軽はずみな意見を表明するはず無いでしょう。そもそも国家間の不平等性は、細かな性格はともかく大まかな点では、冊封体制の特徴でもあるのではないのですか。それ故に冊封された国は皇帝を名乗れないのでしょう。違うでしょうか。批判に熱心なあまり、必要な論理階梯を抜かしていませんか。いつも思うのですが、Kanbunさんのご意見の「朝鮮が「冊封関係」をこえて清国に従属的な立場であったと結論づけることができます」とか「朝鮮は単なる冊封関係を超えた強い清国との宗属関係のもとにあったと判断して良いでしょう」とかご意見の結論部分はいつも当然といわば当然なのですが、ご自身のお考えそのものであって、何らかの研究に依拠したものではないですよね。伝わりにくいかも知れませんが、わたしが言いたいのはそのものずばり「近代国際法的な宗主国と属国の関係に近い宗属関係にあったとみるのが妥当」とか書いて有る研究書や論文を提示して欲しいと言うことなのです。でなければわたしがここで目をつぶっても、いずれ独自の研究として該当部分は抹消されるでしょう。--獨頭 2006年7月10日 (月) 17:31 (UTC)
冊封された国が皇帝を名乗れないというのは事実誤認です。ヴェトナムを参照してください。私は自主平等条項を否定することが、「対外主権としての独立権の一部喪失を意味すること」から近代的意味で解釈可能だといっていることはご理解いただけていますでしょうか?なお引用が恣意的と言いますが、私はDokutouさんが「さらに「朝鮮の当初の外交のなかで近代国際法的な宗属関係に「冊封関係」の論理を合わせてしまっていること」というのは事実誤認です。上に述べたように、また前にも述べたように、初期において朝鮮側は清との宗属関係をたてに列強との条約締結などをしぶっていますからね。むろんそれは清に強要されたのではなく、外交的面倒ごとを清に押しつけるためでした。」と述べているので、この件が外交事案を清に押しつける必要もない事案ですし、近代国際法での宗属関係と「冊封関係」の論理を合わせている事例として述べたまでです(これは「冊封関係」の論理を朝鮮がそのまま近代的な国際関係にあわせているというのではありません。表現された形として近代国際法では「属国」と考えるのが妥当な文脈を示してしまったということです。日本が朝鮮に対して危惧を抱いたのもここらへんでしょうし、それは内部の朝鮮人自身もそうでしょう)。私自身が言っているのはこの時期の外交論理が近代国際関係だけで解釈できると言っているのではなく、「冊封関係」と清と朝鮮に固有な宗属関係からおそらく解釈できる(これは糟屋と同様ですよね?)、そして単純に「冊封関係」という制度的形式が宗属関係を規定していたわけではない(これも糟屋と同様ですよね?)と述べているまでです。だから「冊封関係」が近代国際関係におきかわる際に、はしなくも清と朝鮮の固有の関係が明らかになっていると述べているまでです。なぜなら「冊封関係」がそのまま近代国際関係の意味での宗属関係におきかわったのでないことはヴェトナムのほうを見れば違う過程を進んだからだと言っているまでです。私が清と朝鮮の関係を近代国際関係の意味でとらえているのは、近代国際法に基づいた条約の上で表現された意味であるのは最初から述べているのに、Dokutouさんはどうも清と朝鮮の関係が近代国際関係の意味だとおっしゃっているように聞こえます。だいいち、そう述べているとしたら、どうして近代国際法的意味でない『清史稿』属国伝の文面を冊封関係の注に、近代国際関係の意味で使われている証左だ!という理由で入れられるのか。私はあくまで清と朝鮮の関係には単なる「冊封関係」をこえた実質があると見ているのであり、それが個々の条約で近代国際法での「独立国」とは相反する文面が現出する原因となっていると述べているまでです。いかがですか?--Kanbun 2006年7月10日 (月) 21:55 (UTC)
またわたしの意見に矛盾があると言われている件ですが、具体的に願います。さいど事実誤認されてますが「近代的意味でない「属国」の語法だから着目するに当たらない」などと申した事はありません。具体的に指摘願います。あと純粋に質問ですが「これは逆に東アジア国際関係論としてはやはり実際の力関係や外交論理と異なる部分があることを示唆しています」の異なる部分とは何ですか。また「力関係や外交論理と異なる部分がある」といいながら「西嶋自身も実際の各国の力関係を見落としてはいけないと述べています」という文の連絡が理解できないのですが、何か書き損じ有りませんか。あれば追記お願いします。また「「冊封体制」を詳述しなければ、注に『清史稿』属国伝をいれるのは適切でないというより、「冊封体制」を詳述しなければ『清史稿』属国伝の記事との相違が明らかにできないのでは?ということを私に思わせるのです」という点ですが、その前の文章がどうも理解できないので、言われているニュアンスが不明ですが、わたしは「属国伝」取り上げるなら誤解無きよう説明し、取り上げないなら「属国伝」に拘泥する必要はないだろうというスタンスにかわりはありません。--獨頭 2006年7月10日 (月) 17:31 (UTC)
この部分は李の解説を引用しましょう。「そ(西嶋に対する批判)のなかでも代表的なのは、冊封体制は、東アジアの国際関係の表層に設定された制度的形式を把握しているに過ぎず、冊封体制それ自体がその自己運動によって国際政治を動かすわけではない。それゆえ冊封体制論は、実際に国際関係を規定している国家相互間の力関係を見失っており、国際関係の実体や周辺諸国・諸民族の主体性・主体的発展を軽視することになる、という批判であった。これに対して西嶋氏は、国際関係の推移が相互の力関係によって推移するというのは当然であり、これを否定したことはなく、冊封関係が制度的形式であるということもその通りである。しかし問題は、東アジアにおける国際関係が常に冊封という形式を媒介にしてのみ表現されること、…(以下略)…」おわかりのように、冊封体制論はあくまで国際関係の論理表現形式としての冊封関係が文化圏形成に与える影響(文書外交の成立、漢字文化圏の形成などなど)を考えるものであって、単純にどことどこの冊封関係が国の優劣であるとか国の国際政治における実質的な影響力を規定しているあるいは外交上の宗属関係と単純に同一視できるものではないといえるでしょう。『清史稿』属国伝の部分はDokutouさんの解説に私は賛成しているところですし、「冊封関係で説明できないとしても、近代国際法的意味ではない」として注釈すれば記事の充実に資するのでは?清国側の見方の一端が見られて、興味ぶかいと思いますよ。--Kanbun 2006年7月10日 (月) 21:55 (UTC)
なおわたしが参照したのは川島真『中国近代外交の形成』(名古屋大学出版会、2004)です。存分に読んでください。それとわたしは今日新たな記事を立ち上げ、しばらくはそちらに力を注がないといけないかも知れません。つまり返事は毎日できないかも知れないのでご了承のほどを。--獨頭 2006年7月10日 (月) 17:31 (UTC)
お返事ありがとうございます。毎日返事をくださらなくて結構です。当方はお返事された分についてはしっかりお返事しようと思います。興味の対象が面白く広がったので、こちらもいろいろ文献に当たって記事の充実に資したいと思うところです。--Kanbun 2006年7月10日 (月) 21:55 (UTC)

インデント戻します。ご意見への反論はいつもの分量と同じほどありますが、らりたさんがまとめに入ろうとされているので、それを尊重するためと、新記事用の年表作成に思いの外時間が取られたため控えます。それと一見すると署名していないように見えるので段落間にご意見を挿入するのはやめてください。やられる場合、最後の署名を段落ごとにコピーしてください。このノートでのみ、Kanbunさんだけにわたしの署名コピーを認めますので。--獨頭 2006年7月11日 (火) 18:42 (UTC)

とりあえず反論は下のリンク先などを参照しているのかと思い、そのほうを参照した上でお返事申し上げます。旧外交体制(朝貢システム、冊封体制?)と新外交体制(条約体制)を論じる際に、そこに論理の対応があり、一部ではその論理が変換されたり、単純化されたり、逆に複雑化されたりしたのですが、決して旧体制の論理が断絶して新体制の論理にいっぺんに書き換えられたのではないということはDokutouさんと見解の一致を見ていると思います(これは前提ですので違っていたらご指摘ください)。そのうえで朝鮮が新体制の論理を旧体制の論理で解釈しているときに、外交事案に対して外交主体としての独立国という立場を貫徹できなかったから、その宗属関係が近代的意味でもとらえられる強固なものだったと述べているのです(これはDokutouさんによると「希少な」意見らしいですが)。それをDokutouさんは(金もですが)主体的という意味を選択的に使用し、「朝鮮が主体的に外交主体(いわゆる日朝修好条規的意味での「自主の邦」)とならなかったから、近代的意味での独立国ではないといえない」と述べているのは適切ではないでしょう。つまり場合に応じて選択的に属国の立場と独立国の立場を主体的に使い分けたと論じても、属国の立場を主体的にせよ主体的でないにせよ取っているのですから、それを新体制では主権の一部を制限されているというのです(日米安保条約だってそうです、ただし安保があるから日本が米国の属国であるとはいえません。なぜいえないかと言えば片務的な条約であれ文面上対等条約であるからです。これは日朝修好条規しかり)。私がDokutouさんの反論がよくわからなかったのは、どうも外交主体としての主権と、一般的な意味での主体を巧妙に入れ違えているせいだったと思われます。さて、とりあえず朝鮮は主体的に近代的意味での属国の立場(外交主体としての主権の喪失)を個々の場面でとってしまったと私は言っているのですが、この見方は誤ったものなのでしょうか?なお、近代国際法では「従属の程度に関係なく」条約を結ぶ「外交能力」としての独立権を制限されている国を「属国」「保護国」などと呼びます。--Kanbun 2006年7月12日 (水) 00:04 (UTC)

冊封を受けた君主は皇帝に対して定期的に朝貢を行うことや、中国の暦や元号を用いることも義務づけられていた。

>冊封を受けた君主は皇帝に対して定期的に朝貢を行うことや、中国の暦や元号を用いることも義務づけられていた。 これ本当ですか?すべての冊封国が中国の暦や元号を使ったのですか?すべての冊封国が定期的に朝貢を行うことを義務付けられたのですか?--Lulusuke 2006年6月19日 (月) 04:06 (UTC)

中国の暦を使うことを「正朔を奉ずる」と言います。国内向けには自前の暦を使っていたところもありますが、少なくとも建前上はそうでした。なぜなら冊封された以上は中国王朝の臣下なのですから。(具体例があったはずですが、どの国のことだったか、ちょっと忘れました。)

朝貢に関してはちょうど遣唐使の項に参照すべき文章が載ってました。
>「使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ」
「遠いので、毎年は朝貢しなくても良い。」と言っているのですから逆に言えば、近隣ならば毎年朝貢していたわけです。
ただこれらも一例を挙げたに過ぎず、全ての時代の全ての冊封関係がそうだったかといえば、もちろんそうではないでしょう。(おそらくは)

正直言わせてもらえば、「全ての○○がそうだったのですか?」と言う質問は私の能力を超えています。失礼ながらこのウィキペディアのノートは質問の場ではなく、記事をより良くするための質疑応答のための場です。ですから解らないことはまず御自分でお調べになった上で、それでどうしても解らない場合に質問をと言うようにお願いします。

あと、一つ確認しておきたいのですが。平勢氏の論文と言うのは南越のことの論文ですよね?春秋戦国が専門の平勢氏に清について言及した論文があるとはちょっと考えにくいし、私の記憶の限りではそういったものは無かったと思います。もし違うのでしたら申し訳ありません。その場合は、その論文の名前を教えてください。らりた 2006年6月19日 (月) 12:59 (UTC)


らりた 2006年6月19日 (月) 12:59 (UTC) wrote> 失礼ながらこのウィキペディアのノートは。。。

すいません。ます失礼しました。
> http://vm.nthu.edu.tw/history/improvement/calendar/contents/content01/index-03.html
> 禁止藩屬國自行制曆  
冊封と同時に藩屬國に独自に暦を制ずることを禁止した。ということですよね。禁止していることと守るかどうかの問題と認識しました。だから守っていない国があるのですから、「藩屬國に独自に暦を制定することを禁じた。」OR「建前は 。。。」が正しい表現となるとおもいました。。。よいWIKIができればと思っての質問だったので ご容赦ください。
> 平勢氏の論文
確認します。覚え間違えかもしれません。--Lulusuke 2006年6月19日 (月) 15:03 (UTC)
こちらも少し言い過ぎました。それをまず謝罪いたします。
暦に関することだけでなく、冊封それ自体がかなり名目的なことであるので、全体的に名目的であったと説明してあったほうが良いかと思います。以下改稿案です。
>冊封を受けた君主は中国王朝の臣下として、皇帝に対して定期的に朝貢を行うことや、中国の暦や元号を用いることも義務づけられていた。また、事あれば皇帝からの要請で出兵も強いられた。ただしこれらは概ね名目的なものであり、原則的に中国皇帝からの内政干渉はなく、暦・元号に関しても中国向けにそれを遵守していれば咎められることはまず無く、朝貢に関しても、毎年と決まったものでもない。また朝貢に対する返礼として中国王朝から与えられる品物は多くの場合、朝貢によって送られた品物の額を大幅に超えることが多かった。出兵に関しても中国国内のことに兵を出させることはほとんど無く、多くの場合は「夷を以って夷を制す」の見地から行われることがほとんどであった。(もちろん例外はいくらもある)

李朝の朝鮮王朝時代には朝貢貿易が朝鮮側の大変な負担になっていたことが指摘されています(糟屋憲一「近代的外交体制の創出、朝鮮の場合を中心に」)。このことから少なくとも全時代的に「朝貢国が朝貢によって恩恵を受けた」とするのは誤りということができるでしょう(とくに朝鮮王朝では清との「典型的な冊封関係」がおこなわれていたとするのが従来の冊封体制論なわけですから、このことの意味は大きいでしょう)。また近年では主に国際関係論の立場からでしょうが、西嶋が論じたような体系的な「冊封体制」という形で東アジアを捉えるのではなく、一般的な「宗属関係」から東アジア国際関係を捉えようとしている観があります。それによれば基調は「冊封体制」以前に中国と東アジア各国の宗属関係の有無であり、「冊封」「正朔」「朝貢」はそれに付随するそれぞれ別個の属性であることになります。実際被冊封国で「冊封」、「正朔」、「朝貢」が遵守されていたかというと疑わしく、朝鮮でもほぼ朝鮮王朝時代に限られるのではないでしょうか。古代東アジアの国際関係からいえば、冊封体制という体制自体が果たして当時の国際関係上重要であったかという問題、西嶋自身が「日本が冊封体制から離脱した以後も日本と中国および周辺諸国との外交関係は継続した」「明の東アジア世界再編は名分論に基づいていた」と述べているごとくです。したがって明の復活した「冊封体制」と以前の「冊封体制」を同質視することは西嶋自身も避けようとしているところのように思われますし、少なくとも当初の西嶋の論点は衛氏朝鮮、南越と中国国内の郡国制から冊封体制論の発想を得ているようです(このことは重要です)。したがって西嶋においては結果としての古代東アジアでの文書外交の創出、漢字文化圏の形成、さらに儒教仏教律令制などの社会文化の共有を述べているというのが本筋でしょう。このことは見逃してはいけないと思います。近代に関する部分では、明の勘合貿易と海禁策から周辺諸国が名目上冊封されねばならなかった面(ただし日本の場合、懐良親王、義満についてはそれぞれ国内的な目的もあったと考えられる、今谷明『室町の王権』)もあり、江戸時代には清国との国交は正式にはなかったのにも関わらず貿易は行われており、日本は朝鮮との外交を継続している(日本国大君と称した)などの問題があります。冊封だけから見ればもっとも広範に行われたのは清朝の時代ですが、西嶋自身は典型的な冊封体制を(少なくとも当初は)隋唐時代においていたと思われます。なぜなら、西嶋の初期の論点は「隋唐の世界帝国の性格」だったのであり、それは新羅、日本などの直接支配を(建国当初はともかくのちには)放棄したらしい唐帝国がなぜ「世界帝国」たりえるのかというところにあったからです。これは「隋・唐帝国が世界帝国であるということの意味は冊封体制の構造のみから説明することはできない。しかしそのことは当面の課題ではないので、ここではもっぱら六-八世紀における中国王朝とその東辺諸国との関係として形成され展開された冊封体制の構造と論理およびその推移過程を述べて、当時の日本の置かれた東アジアにおける国際的環境を概観し、それとの関係を考察したのである」(西嶋定生『古代東アジア世界と日本』)と述べていることから明らかです。ただしこのことは隋唐時代の冊封関係を単に名目的なものとせず、世界帝国としての多民族支配を志向したものであったという西嶋の視点は重要です。よって本来的な意味で西嶋が考えていた「冊封体制」は名目的なものではありません。--Kanbun 2006年7月5日 (水) 20:15 (UTC)

つまり結論から言えば、ここは「冊封」の記事なのですから、「冊封」それ自体にはとくに朝貢や正朔を義務化するようなことは何もないということです。「冊封」とそれらを関係づけて論じるのが「冊封体制論」なわけで、ここは「冊封体制」についての記事ではないのですから、朝貢云々は書かずに「冊封」だけに的を絞って記述してはどうでしょう?--Kanbun 2006年7月5日 (水) 20:30 (UTC)


Kanbun 様をはじめ、皆様の議論 とても勉強になりました。本当に読み応えのあるノートですね。このままSUBMITしたいような内容です。--Lulusuke 2006年7月7日 (金) 11:45 (UTC)
確かに冊封があるからと言って冊封体制であるとは限らないわけで、その点に関しては私の認識不足でした。Kanbunさん、ご指摘ありがとうございます。
また「名目的」という言葉を使いすぎて、誤解を招いてしまったようですが、私自身は「冊封体制」に実質的な物がまるで無かったと考えているわけではありません。ただその実質的なものとは「君臣の礼」を中心としたものであると思っています(少なくとも西嶋氏が提示されている隋唐王朝と朝鮮三国の関係を見た場合)。当時はそれらは「実質的な物」であった訳ですが、現代人からは「名目的」と感じられると思ったので「名目的」という言葉を書いておいた方が良いのではないかと思いました。ただKanbunさんが提示されている清と朝鮮との関係性を考えたときにどうなるかは私にはちょっと判断できません。
>「隋・唐帝国が世界帝国であるということの・・・それとの関係を考察したのである」という西嶋氏の言葉はその前文から見るに突厥・吐蕃などと言った中国文化を受け入れなかった、つまりは「東アジア世界」というものに参加しなかった民族に対して言っている様に受け取れます。そして日本との関係で言えば「日本は唐帝国の冊封体制の外部に存在する朝貢国として位置づけられ、遣唐使は蕃客の礼によって処遇される。」とあり、西嶋氏は唐と日本との関係を「冊封体制の内と外」という言葉で説明してるのであって、冊封体制だけでは説明できないと言っている訳ではないと思います。
西嶋氏の冊封体制論が隋唐を中心としたものであることはまず間違いなく、それ以前・それ以後に付いて言及してあるのはあくまで付帯的なものでしょう。明以降の「冊封体制」に付いても東アジア交易圏の利益を守るためのものと述べており、これを隋唐の「冊封体制」と一緒くたにしてしまうのは間違いといえると思います。おそらく西嶋氏も明以降についてはそれほど深くは検証していないのではないかと思います。
冊封の記事だから冊封のことだけを書くべきと言うご意見ですが、この冊封の語を調べに来る人はほとんどが冊封体制について調べに来る人ではないでしょうか?冊封=冊封体制ではないということを明記した上で冊封体制のことを詳しく記述するべきではないかと思います。

考えた結果、以下の様な改稿を提案します。
  1. 現在の「冊封」の記事を「冊封体制」に移動する。
  2. まず最初に、冊封の原義を記述し、「冊封体制」が西嶋氏によって提唱された歴史学用語であることを明記する。
  3. 「冊封体制」が「東アジア世界」というものを前提としていることを明記し、以下西嶋氏の論を簡略して説明する。
  4. その後にこれに対する異論をいくつか紹介する。
いかがでしょうか?らりた 2006年7月7日 (金) 13:03 (UTC)
それと西嶋氏の言う「冊封体制の復活」は明王朝の時なので元と高麗は冊封体制ではないですね。大変失礼しました。>Lulusukeさん。
西嶋は元王朝の時代に冊封体制は断絶したと述べています。まあこれにはおそらく異論もある(なにせ西嶋説は杉山正明以前ですから。モンゴル史については考古学的にも最近の進展状況は目を見張るばかりです)でしょうし、ちょっとここのみなさんでいろいろ調べて、煮詰めると意外に化けて良記事できるかもしれませんね。楽しみです。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 20:40 (UTC)
まとめに入られる前にとりあえず簡単に私見と質問を述べると、わたしは「冊封」と「冊封体制」は同じ項目で論ずるべきと考えます。理由としてはまず第一に検索すれば判るように「冊封体制」と入力してもこの項にたどり着くようになっていること。次に項目を分けても「冊封体制」で再度「冊封」の説明が必要となること。最後に管見の限り、「冊封」と「冊封体制」は同じ項目で扱っている事典が多いこと。以上の点から、項目分割には反対です。
そうですね。私も自分で編集してみて、ちょっと分けるのは当たらないなというより、「冊封」それ自体だけを捉えただけの記事はちょっと無味乾燥で意味がないかもと思い当たりました。「冊封」と「冊封体制」を分離すべきと言う意見は少なくとも分量的な充実をまたなくては問題にならないとも思いますし、撤回します。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 21:37 (UTC)
朝鮮側の過重な負担云々について。本文には「朝貢貿易は中国側からするとほとんど赤字だった」とあるように全部中国側の持ち出しだったとは断定していないため、誤りとまでは言えないだろうと感じます。ついである時代の朝鮮は過重な負担を強いられていた、という風にむしろ一文を足す方式でないと逆に冊封体制の経済的利益の側面が捨象されてしまうとおもいます。
そうですね。これについては難しいところなんですが、本筋の「冊封体制論」は「東アジア文化論」なので、外交秩序として「冊封体制」があったというところは意外にルーズなんですよ。西嶋は直接的には「隋唐までの冊封関係と隋唐時代の文化交流の方向が一致する」ということをまず述べて、そのうえで以後の東アジア世界の国際関係(および文化交流)を規定したと述べているだけなんですよ。制度としては前漢の郡国制度と南越、衛氏朝鮮との外交関係から、南北朝時代の錯綜した冊封関係が隋唐時代に典型的になったと述べているんですが、日本の場合は何よりもその主体性から「冊封関係」を結ばずに「冊封体制」に入ったと述べているように、必ずしも朝貢貿易とか経済理由をつきつめて解釈している風には見えないんですね。むしろ西嶋が経済的事由を述べるのは明朝の勘合貿易に日本が加わった際のことなんですけど、これも今谷の『室町の王権』からすると、必ずしもそれだけとはいいきれない。実際宋元時代に純経済的な理由で日本が対中国貿易をしていたことも考えると経済的事由を「冊封関係」を結ぶ際の上位条件とすることには簡単に頷けない面があります(海禁策を明固有の政策としてしまうと、冊封と経済的理由の関連性が失われるわけではないですが、薄れます)。ただし経済的事由がなかったわけでは決してないことは事実でしょうが、単純な経済的要因はおそらくかなり付随的なことのように捉えられている観があります。で、翻って李朝の場合になると、ここでは典型的な「冊封関係」(「冊封体制」ではなく)が形成されたと一般に説明されるにもかかわらず、とくに清への臣従以後の経済的圧迫を述べる論が(私の当たった本がたまたまなのかもしれませんが)目立ちます。そのため李朝の清への臣従は一般に小中華主義的な立場から論じられている向きがあります。北辺での交易が清の軍事補給の観点から行われたもので、利益主体でおこなわれたと考えられない上に、それほど利潤をもたらさなかったなど、おそらくのちの中朝商民水陸貿易章程を想定しているのでしょう、これには議論の余地があるでしょう。とくに日本との関係が「事大交隣」関係であったとする論が一般的であることから、このことの意味は明白です。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 20:40 (UTC)
「正朔、朝貢が遵守されていたかというと疑わしく」とありますが、遵守とはどの程度の遵守を意図しているのでしょうか。また「義務」ではなかったと明確に書かれているのでしょうか。具体的な研究論文名は何でしょうか。そこにはどのように書かれているのですか。
これは「冊封関係」がという意味であることをまずお断りします。西嶋はむしろ「冊封体制」を実質的に見ているので、国内体制もある程度規制したと考えていますが、「冊封関係」が正朔、朝貢をそれほど規制しないというのは、最初期の例である南越および最後期の例である越南という二つのヴェトナム王朝(ただし南越は漢人政権)が国内的に帝を名乗り、独自の体制を敷いていたことから考えられます。少なくとも表面上はどうあれ、国内的にはこの両政権の君主が独自の璽を使っているということは正朔や朝貢を規制できるほどに「冊封関係」は国内体制に浸透していないということです。西嶋の「冊封体制論」はこの地域を除外していますから、「冊封体制」では反証にはなりません。西嶋によると「冊封体制」以前にあった新羅が中国王朝の年号を用いていなかったことなどからも必ずしも「冊封関係」において正朔は当初それほど規制的ではなかったことの証左でしょう。同時にこれは「冊封関係」に一定の段階および進展があったことも示唆します。ただし西嶋が「郡国制」をモデルに「冊封関係」が設定されたと見ていることは、さまざまな意味で示唆的でしょう。基本的に前漢の郡国諸侯は入朝を義務づけられています。したがって「冊封関係」が君主同士の君臣関係を前提として時代ごとにどの段階まで臣属国の国内体制を規制していたかという視点があるのであり、西嶋の「冊封体制」による場合と単なる歴史的な「冊封関係」を論じる場合に、その説明の仕方は当然異なります。このことは義満の場合を考えれば正朔と単なる「冊封関係」の内的必然性を疑うのに十分でしょう。同時に義満の経済的背景として説明されるのは「朝貢貿易」ではなく、「勘合貿易」と明の海禁策です。つまり西嶋の「冊封体制」には朝貢や正朔との内的必然性と関連性が歴史的事実を跡付けて論じられるのに対し(なにせ基本は隋唐時代に特殊限定的ですから)、歴史的な「冊封関係」に朝貢や正朔が内的必然性を持っていた論じることは、対象が非常に大きくなるために不可能に近いですし、あまり意味がないことです。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 20:40 (UTC)
前回の当方の質問「「正朔、朝貢が遵守されていたかというと疑わしく」とありますが、遵守とはどの程度の遵守を意図しているのでしょうか。また「義務」ではなかったと明確に書かれているのでしょうか。具体的な研究論文名は何でしょうか。そこにはどのように書かれているのですか。」について。Kanbunさんの「歴史的な「冊封関係」に朝貢や正朔が内的必然性を持っていた論じることは、対象が非常に大きくなるために不可能に近いですし、あまり意味がないことです」というご意見はご意見として、Wikipediaでは独自の研究を記述することは禁じられていますので、明確な書名・著者名・どのように書いてあるのかという点をお書きください。日曜、別件で図書館に出かけるのでその際探してみます。--獨頭 2006年7月8日 (土) 16:29 (UTC)
義務づけられていたかどうかについて疑義を挟んでいます。手持ちの文献でちょっと確認できなかったため、冊封によって正朔・朝貢が義務づけられていた旨明示されている論文などあれば、とくに問題はないでしょう。当方の方でも探してみることにします。当方で確認できたのは、とりあえず暦法の伝遷過程と冊封関係の方向性が一致する、朝貢と冊封が関係していることで、正朔を奉じているかどうかはむしろ冊封関係の親密度合いのバロメーター的に扱われている記述しか確認できませんでしたので。--Kanbun 2006年7月9日 (日) 08:08 (UTC)
それとこれは私だけかも知れませんが、どうも論旨が掴み切れません。結論の「冊封それ自体にはとくに朝貢や正朔を義務化するようなことは何もない」の証明手段として、明以前と以後の「冊封体制」が違うことや、西嶋冊封体制説の説明(これにも疑義があるけれど)とどう結びつくのですか。もし西嶋説が言われるようなものだとしても、なにもこの記事は西嶋冊封体制説だけを取り上げているのではなく、その後の堀敏一氏の批判など様々な研究者の意見を容れた上での冊封と冊封体制について書くべき箇所なのであって西嶋氏に拘泥する必要はないのでは、というのが感想です。--獨頭 2006年7月7日 (金) 16:09 (UTC)
とりあえずの返事としては上(『清史稿』関連の記事の末尾)を参照してください。ここではただ「冊封体制」といった場合、現状では西嶋説のことであろうということだけにとどめます。--Kanbun 2006年7月7日 (金) 21:13 (UTC)
前回の当方の質問「それとこれは私だけかも知れませんが、どうも論旨が掴み切れません」について。『清史稿』関連の記事の末尾を見よとのことでしたが、どのような論理運びで「「冊封それ自体にはとくに朝貢や正朔を義務化するようなことは何もない」の証明手段として、明以前と以後の「冊封体制」が違うことや、西嶋冊封体制説の説明(これにも疑義があるけれど)とどう結びつくのか」書いてある箇所を見いだせません。再度提示願います。--獨頭 2006年7月8日 (土) 16:29 (UTC)
とりあえずこの箇所の末端を参照ください。--Kanbun 2006年7月9日 (日) 08:08 (UTC)

インテンド戻します。まず西嶋説ではヴェトナム地域を除外しているとのことですが、西嶋氏は清代の冊封関係をさして冊封体制と言う言葉を使っているので、除外していると言うのはおかしいと思います。南越は時期が外れているので別ですが。
また西嶋説が隋唐に限定的と言う事に付いて。私も隋唐が中心で他は付帯的と言いましたが、限定と言うと他の時代は全く適用外と取れます。しかし西嶋氏はその前後の時代にも冊封体制と言う言葉を使って言及しており、限定的とはいえないと思います。上に出てきた「隋・唐帝国が世界帝国であるということの・・・それとの関係を考察したのである」と言う西嶋氏の文章はその論文自体が「東アジア世界と冊封体制 六-八世紀の東アジア」と言う題であり、この論文が隋唐に限定的なのは当然でしょう。
朝貢・正朔に関してですが、少なくとも西嶋説ではこれらが義務化されていたという考えな訳ですからとりあえずこれを書いておかないと混乱するのでは?その後でそれが遵守されていたかには疑問が残るとでも書いておけば良いのではないでしょうか。ただDokutouさんがおっしゃられているようにその考えはどなたか研究者によって提示されているのでしょうか?その点に疑問が残ります。
少なくとも隋唐と朝鮮三国との「冊封関係」では毎年の朝貢・正朔を奉ずることが義務化されていたと受け取れる国書がいくつかありますので、義務化されていなかったと断ずるのは無理があると思います。あと、義務化されることと遵守することはまた次元が違うのではないでしょうか。
堀氏らの西嶋説に対する批判は上で書いたように「その後にこれに対する異論をいくつか紹介する」と言う形で書きたいと思っていたのですがどうでしょうか。らりた 2006年7月8日 (土) 03:14 (UTC)

私自身は異説として堀らの説を記載することは大いに意義があることだと思います。実際羈縻政策のほうでほぼ同様の趣旨で、冊封体制論と羈縻政策の比較論みたいなことをちょこっと記載しました。私は「この冊封項目は冊封及び冊封体制について書くところなのですか、それとも西嶋説のみを取り上げるところなのですか。仮に後者だとすると、その後の堀敏一氏の論や藤間生大氏の東アジア形成論など多くの研究が捨象されてしまいます。つまり西嶋説と違うから云々というのはそもそも論点がずれています。」と述べるDokutouさんが「冊封体制論」の典型として西嶋説を紹介するのが適切ではないというのならば、それは当たらないと述べただけで、個人的に旗田の説も興味深く見ているため、紹介するにやぶさかでありません。--Kanbun 2006年7月8日 (土) 06:20 (UTC)
ヴェトナムが「冊封体制論」から除外されていることについて。これは当方の認識不足であるようです。西嶋は東南アジアが東アジアとは異なる歴史的発展を持ったとすることは認めているようですが、ヴェトナムは10世紀まで漢字文化圏にあったと明言しています。また明朝の復活「冊封体制」において東南アジアまでその体制が拡大されたと述べていることからヴェトナムが除外されるという私の論は全く見当違いであったということを認めます。またこのことに関連して、西嶋自身が「10世紀における冊封体制の崩壊→古代東アジア世界の崩壊」「14世紀における冊封体制の復活→東アジア世界の復活」と捉えているらしく、冊封体制をかなり広汎に考えている節があることが理解できてきました。ただしこのことは以前に勘合貿易体制を西嶋が重視していると述べていると言っているように、西嶋は日宋貿易の隆盛が従来の冊封体制下での交易体制を崩壊させたと述べ、復活した冊封体制が「冊封体制と勘合貿易体制の結合体」であると述べている(ただし冊封体制の方が勘合貿易体制より広汎で堅固なものであったということも述べている)ように、この復活「冊封体制」について朝貢と正朔を考えていたかというと、(これはいまのところ『古代東アジア世界と日本』には明言してる箇所がないので)義満の例が君臣関係の復活であると述べていることから、これは疑わしいといわざるをえません。なぜならば、義満が正朔を奉じたという事実はなく、今谷『室町の王権』によれば、改元への介入に最終的に義満は失敗していると論じられている(ただし明朝の元号を意識したらしい改元を画策しています、また大統暦が舶来していますが、結局このとき大統暦は採用されず、採用されるのは江戸時代に入ってからのことらしく、こちらも同様です。さらに大統暦に関しては今谷は義満が採用を考えた動きを見せたというようなことを記述していません。このことから舶来した暦法を採用しようという動きは当時の日本国内になかったようです。採用されたのが冊封関係が終わった江戸時代以後ということもこのことを示しているように思われます)からです。しかしこのことは西嶋自身が「勘合貿易体制」を位置づけたことから朝貢と冊封関係の内的必然性はかなり曖昧化したものの、基本構造として正朔と冊封の関係性を疑わせる余地は残されているという見方も可能であるといえます。ただしこのことはむしろヴェトナム史をひもとくことにより解決可能のように思われますので、そちらを調べてみたいと思います。いちおうヴェトナムは明の直接支配にはいったあと独立し、黎朝が「大越」と称したこと、また各君主が皇帝を名乗っていること(ただしこのことは冊封体制の論理の中にヴェトナムがいたことを示しています)から、典型的な正朔・朝貢を設定することはおそらく難しいだろうと(現段階では)考えている旨だけお知らせしておきます。じつに興味深い感じになってきたと思い、みなさんに感謝するばかりですね。最後に重ねて陳謝しますが、ヴェトナムが「冊封体制論から除外されている」と述べたことは誤解を招き大変申し訳ありませんでした。--Kanbun 2006年7月8日 (土) 06:20 (UTC)
手持ちの西嶋の論文、冊封体制に言及する著作がこのことについて判然としないため、とりあえず正朔が確実に確認できる事例についてお互い例をあげて確認してみるというのはどうでしょう?私はいまのところ「清・明と李氏朝鮮」「唐と新羅」は正朔が確認できると思います。--Kanbun 2006年7月8日 (土) 22:47 (UTC)
ちなみに個人的にはらりたさんの改善案に賛成で、詳しい内容はあとからついてくるものだと思っています。それがウィキペディアのいいところですしね。--Kanbun 2006年7月8日 (土) 23:59 (UTC)
多少、論点の擦れ違いがあるようです。
正朔・朝貢について守られていない場合があることは解ります。
しかし、西嶋説では正朔・朝貢が義務化されていたという考えです。それは明記すべきと思います。その上でそれに対する疑義を注記すると言う形にすべきと思います。
ただしその疑義を提示している研究者の方がいるのでしょうか?ウィキペディア上で学説の検討をすべきではないと思いますので、疑義を提示している研究者の方がいないならば私が上に書いたように「例外はある」くらいに留めるべきと思います。らりた 2006年7月9日 (日) 00:03 (UTC)

朝貢・正朔については、とりあえず朝貢をして「冊封」される例が一般的で、なおかつ冊封された国は朝貢をおこなっていることから、被冊封国が定期的な入朝(とりあえず歳貢は除外)を義務づけられていたと論じても良いと思います(ただそうすると経済的な主体性が薄れますが、私個人としては経済的な事由は重要視ししていないので結構です)し、正朔についても暦法自体の伝遷状況を見てみれば冊封関係と一致することは事実です。そういう意味から義務づけられていたという感じではなくて、「一般に被冊封国は宗主国の正朔(中国の元号、暦法)を奉じ、宗主国に使節を派遣して礼節を尽くした。このことは暦法の伝遷過程とほぼ一致する。」という感じで義務という言葉自体を落とせば拘束性を論じなくてすむことになりそうです。とくにこの場合文化の方向性の説明もそれとなく紛れ込ませられますし。そのうえで西嶋説では義務化されていたと見ている云々でどうでしょう?というのも、私自身はいまのところ正朔・朝貢を直接的に義務化していたとする表現を西嶋説から発見できないのです。礼節を尽くすことを義務としていたみたいなことは書かれているんですが。また東京大学出版会の「中国思想文化事典」では「冊封・朝貢関係」というような表現が存在し、冊封概念と朝貢を並列的に表現している箇所があります。同書は思想の事典ですから、当然実際の冊封国の外交規定に踏み込むものではないにしろ、暦法の部分で正朔と冊封の関連性にも言及していないことから、ちょっと直接義務づけられていたとするには躊躇を感じます。--Kanbun 2006年7月9日 (日) 00:13 (UTC)

参照している本が違うみたいなので細かい部分まで同じなのかどうかはわかりませんが。私の参照している本は「西嶋定生東アジア史論集」第三巻ISBN 400092513X です。
この中の「冊封体制と東アジア世界」の中に「その(1)は歳貢の義務で、原則として毎年中国皇帝に遣使奉献すること、すなわち使者を派遣して朝貢することであるが、遠路の場合には三年一貢などといわれるように軽減されることもある。」とあります。また「東アジア世界と冊封体制」の方にも「すなわち百済が毎年の朝貢を免ぜられたことは、藩国朝貢は原則として毎年の義務であり、優免によらずにこれを怠ることは藩臣の節を欠くことであったことを示すものである。」ともあります
正朔に関しては新羅に関することがありましたが、これが西嶋氏が全体的に冊封体制下において正朔が義務付けられていたと主張しているとは言えないかもしれません。これに関しては私の思い込みであったかも。失礼しました。らりた 2006年7月9日 (日) 12:09 (UTC)
わたしの意見を述べますと、正朔と朝貢は密接に関連しています。中国側の認識としては、明清王朝の会典に明記してあるように、双方を朝貢国が遵守することを定めている。それが服属の証である以上当然でしょう。しかしらりたさんが以前言われていたように義務化と遵守とはことなる。そして朝貢国側が守るか否かは中国側との交渉密度に拠ります。すなわち朝鮮のように使者が相互に行き来するような場合、正朔を奉じていないとすぐとがめられてしまうような国は従順に遵守していた。実際、唐太宗は新羅に対し正朔を奉じないことを詰問し改めさせています。しかしそれ以外の国は異なります。こちらは本国では守らず、朝貢使節が持つ表にのみ正朔を奉じていた。冒頭の密接な関連とはこのことです。しかも服属の証である表にしるす正朔にしても、東南アジア諸国では往々にして細工されていた事が判っています。たとえばタイの使節は広東で翻訳する際、翻訳のみ恭順をしめす文面にしていたと言われています。(増田えりか「ラーマ一世の対清外交」)このようなことから儀礼的・形式的と言われているのです。無論提出する表に正朔をきちんと書かないと非常にまずいことになることも判ってました。つまり一面的にはこれらは中国の自己満足的な部分という点で名目的であり、表にしっかり正朔を書かせる(朝貢貿易をえさに)という点では実質的だった。以上が私見です。--獨頭 2006年7月9日 (日) 19:39 (UTC)
なるほどなるほど。朝貢については高句麗が朝貢を欠いたことを征伐の理由にされていることからも義務化されていたと見て良いと私も思います。正朔については外交上は義務化されているけれども、外藩国の国内体制においては実質的に規制するものではなかった(ただし朝鮮の各王朝は除く)という感じですかね?名目部分(建前)と実質部分(実情)をしっかり比較するように書けば、たくさん例外があったというようなお茶を濁す形ではなくて、しっかり定義できそうだと思いますが、どうですか?--Kanbun 2006年7月9日 (日) 21:04 (UTC)

確認とまとめに向けて

このノートのバイト数が185キロバイトとかなり恐ろしい数字になっていますが(笑
とりあえず現時点で合意が取れたと思われる部分を確認させていただきます。

  1. 冊封された場合は正朔と朝貢が義務化された。ただし力関係や親密度などによって遵守されたかは色々と異なる。
  2. 冊封(ないし冊封体制)の記事に於いて、西嶋説を基本に置き、それに対する異論・補強・代替の説として堀氏・旗田氏・浜下氏などの説を載せるという形が適切である。

と言う二点に付いてはおそらく合意が出来ていると思われます。いかがでしょうか?
ただ、そんなことを言っておきながら申し訳ないのですが。私は明清に関しては全くと言って良いほど無知でしたので浜下氏については参照したことがありませんでした。
浜下氏の論と言うのは、冊封体制そのものに付いての論なのでしょうか。それとも明以降になって誕生したという「朝貢貿易システム」に限定しての論なのでしょうか。つまりは隋唐以前の冊封体制に付いては浜下氏の論を考慮に入れなくても良いのでしょうか。「中国歴史研究入門」の方に参照すべき本として挙げられている本は早急に読むつもりでいますが、お暇でしたらご教授お願いできないでしょうか。らりた 2006年7月11日 (火) 12:50 (UTC)

それでですが、前述したように清代に付いては全く無知なので口出しするのは気が引けるのですが、『清史稿』「属国伝」に付いて私見を述べさせていただきます。
仮にKanbunさんの「清と李氏朝鮮の冊封関係が近代的な意味での宗属関係に転化するものであった」と言うお考えが是であったとしても(Dokutouさん、お気を悪くされないようにお願いします。仮にです)、それが清と李氏朝鮮の末期に限定されると言うことはご同意いただけるかと思います。
(仮に上述の私の考えに同意いただけるとして)そうであるならばこれは「例外的な」事柄であると言えると思います。ですのでこの冊封(ないし冊封体制)の記事に清と李氏朝鮮の事例を特記すべきとは思いません。それはないし李氏朝鮮の項に書くべきではないでしょうか?いかがでしょうか?
ご返事は本当にゆっくりで構いませんので。正直申し上げて、ここ数日の怒涛の流れにぐうたらな私としては戦々恐々としておりました(笑。ウィキペディアの完成まで何年かかろうと問題ないのでありますからゆっくりやりましょう。らりた 2006年7月11日 (火) 12:50 (UTC)

あと、蛇足ながらDokutouさん、冊封=属国などという論外の編集に対しては遠慮なくリバートして構わないと思います。もしその編集をした方がその編集を押し通したいならば、このノートにて私たちを論破する義務があると思います。らりた 2006年7月11日 (火) 13:12 (UTC)
私自身は実際面をそぎ落として記述することは停滞的な史観につながるのでは?と思っていたのですが、よく考えてみますと、そこらへんはむしろ歴史研究の課題とすべきで、記事としては原則論で記述してもさして問題ないと思われてきました。そこでらりたさんの提案には賛成です。冊封関係=宗属関係ではないことには私も同意しています。私がそういう論を唱えて、そのような編集を許容している(むしろ助長しているとさえ言われた気がしますが)というふうにDokutouさんは以前おっしゃってますが、単純に置き換えられるものではありません。西嶋説が変な誤解を含んで一般化したせいか、一部で「新」中国の「新」冊封体制云々という政治的見説があるそうですが。--Kanbun 2006年7月12日 (水) 00:04 (UTC)


合意二点に関して。わたしからは何も異議ありません。別に研究成果どおり書いていけばさして異論も出ないのではないかと思います。浜下氏の朝貢システム論は、上のわたしのコメントで引いた李成市氏発言でちらっと触れていますが、冊封体制の変異体と言って良いでしょう。本来の冊封体制では手薄だった明清以降の経済発展に照準をあわせた説です。この説の肝は市場ネットワークにあると思いますが、朝貢ということばを冠しているように経済的側面からアプローチしています。わたしが知る限り隋唐以前に絞った論は知りません。その点については無視して良いかと思います。精力的に論文を発表されている方ですが、代表作は『近代中国の国際的契機』と『朝貢システムと近代アジア』です。特に後者はこの記事に重要でしょう。(前者は経済中心なので)簡単なまとめは*3.アジア交易圏研究から朝貢システム論へにあります。浜下説についてはこれを読まれれば経済史に疎いわたしの要領を得ない説明をきかれるより、よほど理解が深まると思います。ただわたしが浜下氏の名前を出した事ですし、微力ながら数行程度加筆できるよう努力します。
『清史稿』「属国伝」についても言われるとおりだと思います。とくにここで触れる必要もないでしょう。わたしのスタンスはあくまで注として残したいのなら誤解の無いような説明を付すべきだというだけで、残さないならそれでよいというものです。元々記事のそれ以外の部分について修正を求めていたわけではないですし、加筆訂正もしていません。冊封体制の変容と終焉を書くとなると、それなりに容量を要するでしょうから、バランスの関係からそれ以外も詳しくする必要があるので、編集上も省く方がよいかもしれません。--獨頭 2006年7月11日 (火) 18:23 (UTC)
私自身は『清史稿』「属国伝」の記述が近代国際法でのそれと異なると注記をつけておけば、注にしておいてもよいと思いますよ。むしろあそこに書かれている「属国」が単なる「被冊封国」の説明記事であるとはいえないということはDokutouさんも了解しておられるように感じられます。なので、冊封体制の変遷と終焉を詳述することと『清史稿』属国伝を注記することにまず関連性はないでしょう。近代国際法と異なる旨注記して、注にしてはどうですか?またこの件では上のリンクの「(前略)条約関係が朝貢関係にとって代わり、東アジアの新たな国際秩序の原理となったのではなく、条約は相対化・手段化されて朝貢と並存し、朝貢は属邦関係としてよりいっそう実体化される方向をさえ示した。」 と述べられていることは、実体としての朝貢関係がむしろ近代的な意味より複雑(私も実際複雑だと思っており、当初からそうではないかと述べています)で、それを単に(制度的形式としての)「冊封関係」とわりきってしまってよいのか、疑問に思いますね。なぜならこの『清史稿』「属国伝」の記事が明示的に「被冊封国」のことをさすであろうことが述べられていない以上、「冊封関係」を直接的にさすと言うよりは、東アジア的意味での宗主国と藩属国の関係を説明しようとしたものであると思われますが、どうですか?--Kanbun 2006年7月12日 (水) 00:04 (UTC)
上記とは関係ないのですが、わたしの新記事への推薦票ありがとうございました。結末をきちんと書いていない見切り発車のような記事ですが、少しずつ充実させていこうと思っています。またこのノートでいろいろ気疲れさせるような展開となり恐縮です。--獨頭 2006年7月11日 (火) 18:23 (UTC)
上のリンクを参照しますと、浜下の朝貢システム論が冊封体制論であるとは言い難いですね。(例:「朝貢システムは決して国際条約と相反するものではなく、むしろ条約は朝貢システムを明確に補完する形でシステムに包摂されていたと主張」「一八三〇年代から一八九〇年代にかけて、東アジアの各国・各地域には、交渉の時代とも呼ぶへき域内の多角的・多面的な交渉が行なわれる時期が現出した。この時代が活況を呈した原因には以下の諸点が考えられるが、これらの諸側面の検討課題は、総じて従来の「西洋の衝撃」によるアジアの“強制された”開国・開港といういわゆるアジア近代史の開始期に関する理解からではなく、むしろ、東アジア域内の内在的変化に着目した視点から導かれる。」 )このことはもしDokutouさんが条約体制と朝貢システムが異なると述べていた(私は今までそう捉えていたのですが)とすれば、浜下の見解とは異なります。浜下の具体的例証があげられていないので検証は不可能ですが、もし浜下説が上記の視点に立っているならば、浜下は日朝修好条規の「自主独立」表現は東アジア域内の内在的変化から見ることができると考えているのですかね?また西嶋自身が冊封体制と交易圏の問題を論じているように、冊封体制論が交易圏なしに成立するものではないとはいえ、彼が問題にしたのは文化の方向性(それが外交儀礼の方向に一致する)であり、結果としての「中国中心の東アジア文化圏」です。交易での交流が双方向的であるにも関わらず、文化の交流が一方向であった(のは西嶋説での話ですが)のはなぜかということを論じているからです。そのため国風文化の育った平安朝時代は交易圏自体は存在したにもかかわらず、冊封体制は捨象されます。もしここで述べられているように、浜下説が交易圏論(文化圏論なら話は別ですが、上の部分では言及がないです)だとすると、基本的に西嶋説とは異なる次元での論ですし、いまのところ明確に矛盾する視点(上のリンクを見る限り)はないのではと思いますが、どうですか?--Kanbun 2006年7月12日 (水) 00:04 (UTC)
まことに勝手な言い分でありますが、Kanbunさん。とりあえず『清史稿』「属国伝」については保留にしておいていただけないでしょうか。この冊封の記事を充実させるに当たり、『清史稿』「属国伝」は枝葉の問題であり、これに関する記述は幹であるべき「冊封体制」が十分に太ってからでないと意味をなさないあるいは誤解を招くと思います。もちろん私に強制する権限などはありませんし、Kanbunさんにも色々な点でご意見がありましょうが、まずは冊封体制論の基本となる西嶋説を書いて後に「属国伝」についての議論を深めていただけないでしょうか。
浜下氏の論の評価に付いても、まずは「西嶋氏の論を簡略して説明する」と言うことが達成されて後、考えていただけないでしょうか。
とりあえず「西嶋氏の論を簡略して説明する」という所までを1、2週間の間に私が行いたいと思います。懸念材料として「西嶋氏自身による論の改正の推移」を私が把握できてないと言うことがあるのですが、それは今後の課題ということでお願いします。らりた 2006年7月12日 (水) 13:25 (UTC)
P.S Kanbunさんにお願いですが、意見を付け加える場合はその節の最後に付け加えるようにお願いします。そうでないと発言のどちらが先でどちらが後かが解りにくくなります。あと、時々ログインが外れてIPで編集なさっているときがあるみたいですが、ログインする際に「セッションを越えてパスワードを記憶する」のチェックボックスをチェックした上でログインすればそういうことは無くなると思います。らりた 2006年7月12日 (水) 13:30 (UTC)
確かに幹となる文案がないのにあれこれ言っても画餅でしょうし、そちらに集中する方がよいでしょう。わたしも再度本を読み直すなど議論に参加できるよう準備しておきます。また最近数年ごしで探していて見つけたた古書を堪能したいというのもありますし。では文案、楽しみに待っております。--獨頭 2006年7月12日 (水) 15:32 (UTC)

インデント戻します。文案についてはらりたさんに任せることに賛成です。しかし、Dokutouさんが現在の記事文章が朝貢システム論に従っていると述べているので、朝貢システム論がどういうものであるか明らかにできないと文案を最終的に評価することができないのでは?Dokutouさんは当初からそういう言い分で西嶋説を含めることに反対しているようですし。Dokutouさんがいうように、現在の記事内容が浜下説に由来し、それが今日主流に成りつつある冊封体制論だとおっしゃるなら、浜下説についても盛り込まないと用をなしませんでしょうし、現在の記事が浜下説に基づいているとDokutouさんが言うのですから、それはどのように基づいているのか説明できると言うことでしょう。その説明だけしてもらっても問題ないのでしょうし、Dokutouさんのいうように西嶋説が主流にあるわけではないというのなら、一方的に西嶋説だけ記述するのもやはり同様の問題を含むことになるでしょう。西嶋説の文案は最優先ということは賛成ですが、浜下説についての検討は(Dokutouさんがいうように現記事がそれに基づいているなら)別個に行われるべきだと思われますが、いかがですか?--Kanbun 2006年7月12日 (水) 22:59 (UTC)

私も『清史稿』属国伝は枝葉だというのには賛成ですが、、「これに関する記述は幹であるべき「冊封体制」が十分に太ってからでないと意味をなさないあるいは誤解を招くと思います。」という見解には反対です。属国伝に関する部分でDokutouさんの見解部分も含めて清国側の藩属国に対する認識が直接問題とされていることは注目に値しますし、「冊封関係」ではあのような直接的な認識は把握できないでしょう(それが基本的に儀礼とか制度とか形式的なものであるから)。私はあれをDokutouさん自身が「冊封関係」の例であると見ているのか違うと見ているのかいまいち判然としないのですが、すくなくとも冊封儀礼をとおりこして直接的な「属国」観(近代的意味ではありませんよ)を表明している清の見解は意義あることだと思います。むしろ「冊封関係」の記事が太っていない現状で、あの注を省いてしまうことは、「冊封関係」をそのまま宗属関係を規定するものであると考える誤解を生むような気がします。(←冊封国がふたつ、あるいは被冊封国が別国を冊封するなどの二重冊封の例があることからも直接的な宗属関係でないことは明らかですよね。)--Kanbun 2006年7月12日 (水) 23:12 (UTC)
多少、誤解があるようです。現在の「冊封」記事の文面はかなり前に私が編集したものが元になっており、Dokutouさんは編集しておられません。ですので浜下説に則ったものではありません。
浜下説に関してですが、西嶋説に手薄であった明清以降の冊封体制について言及した説ということ(ですよね?)ですので、西嶋説が基本であることは変わりません。「西嶋説を基本に置いて浜下説をそれに対する異論として挙げると言う形が適切である」とDokutouさんにもご同意いただいています。
でありますから浜下説に言及しなくても「西嶋説を簡略して説明する」と言う基本部分までを一旦作ることは出来るわけです。そこまでを私がやらせていただくと言うことで。
『清史稿』に付いてですが、私は「削除してしまえ」と言っている訳ではなくて、まず「西嶋説を簡略して説明する」までを達成した後に議論を深めて言っていただけないかと言っているわけです。
色々と誤解を招く文章を作ったことはお詫びいたします。その上でどうか一旦、私のお願いを聞いていただけないでしょうか。らりた 2006年7月14日 (金) 13:12 (UTC)
いえ、私自身が疑問に思うのはDokutouさんが「独自の研究」という言葉を繰り返しているからです。私は別に西嶋説から見れば現在の記事の説明は整合性に問題があるのではないかと述べると、それは「希少な」意見だという(なぜ希少なのかは明らかにされない、勝手に近代外交史の共通理解から外れていると定義される)。西嶋説に依れば、冊封関係が結ばれた時期と冊封体制であった時期がすべて重ならないのに、両者は同一だという。冊封体制論が文化圏論であるから、現実の冊封関係との相違もでると思われると述べると、独自の見解だということになるらしい。彼自身がしっかりした冊封体制論に対する見解をもって話しているならいざ知らず、どうも西嶋説の争点が具合が悪くなると浜下説やら堀を持ち出し(彼が堀らの説のどこら辺に注目すべき点があると考えているのかも明らかにされない、名前を出しただけとしか思えない)、今の記事がどのような冊封体制論に基づいているかは興味がないらしい(こちらが彼の定義する「独自の研究」かもしれないということは考えないらしい)というのがよくわからないのです。翻って考えてみるに、彼がもし現在の記事を「冊封体制」の説明をしていると受け止めているならば、現在の記事が西嶋説とは異なり、堀らの所論は冊封体制論ではないのですから、浜下説によって書かれていると判断しているということなのでしょうか。それともそれぞれの視点を入れて独自の定義をしているというならば、その(彼の言う)「ブレンド具合」が問題になるのは当然ではないでしょうか?なぜなら、それこそ彼の嫌う「独自の研究」の疑念が存在するということになってしまうから。私自身の意見としては、私の発言の「ブレンド具合」を心配するくらいなら、記事の「ブレンド具合」を心配した方がよっぽど有意義でしょう。なぜなら、私の「ブレンド具合」は西嶋の書物を当たれば明らかにできるでしょうが、記事の「ブレンド具合」は別物ですから。私自身は当初からこの記事の歴史的事実、およびその研究との整合性を問題にしてきたつもりですが、Dokutouさんは最初に私の論点がわからないとおっしゃってましたし、もしかするとそういう論点で話してらっしゃらないのかもしれません。ともかく現在の記事とこれからの文案を鑑みるにあたって、Dokutouさん自身が今の記事をどう見ているかということを明らかにせずして問題が解決するでしょうか?私にはDokutouさん自身は現在の記事内容に疑問を持っておらず、とすれば彼は「独自の研究」が嫌いなようですから、どこかにこの記事と同内容の研究があると考えてらっしゃるように思われます。--Kanbun 2006年7月14日 (金) 22:56 (UTC)
なおらりたさんの参考となるよう、西嶋自身による冊封体制の簡潔な説明(『世界歴史の基礎知識』による)をあげておきます。「中国王朝が朝貢する君主たちのある者に特に中国の官爵を授けこれと君臣関係を結ぶもの」「元来それ(冊封)は国内体制であり、周辺諸国の首長=君主が冊封されるということは、この国内体制を国際関係に拡大したもの」。つまり、冊封関係自体は君臣関係でしかないが、それを朝貢国との間に設定することで冊封体制となります。しかも西嶋の場合はこのような冊封関係が中国王朝のもとに一元化された国際秩序を典型的な冊封体制であると見ています。また「冊封(関係)」といえば主に二国間の関係、「冊封体制」はこのような冊封を媒介にした地域レベルでの国際秩序、国際関係を指すようです。西嶋によれば「冊封関係」の初出は前漢時代の南越国と衛氏朝鮮、「一元的な冊封体制」の初出は隋の時代と見ているようです。--Kanbun 2006年7月14日 (金) 22:56 (UTC)
時間が余りないので、浜下自身の著作に触れていませんが、手許の著作をひもといていたら浜下説に対する言及がありました。『近代中国研究案内』(1993、岩波)です。以下引用します。

浜下武志『近代中国の国際的契機』は近代中国経済史、伝統的な金融システムと現代の中国経済について包括的な再検討を行ない、近代史認識の基本的観点について重要な問題提起をしている。浜下は…(中略)…近代アジア市場の形成という角度から分析し、そこに各国の位置と役割を見るべきだという。なぜなら、アジアにおいては西欧の進出に先立って…(中略)…朝貢貿易・互市貿易などの官営貿易およびこれらを契機としつつ拡大した私貿易を通じて成立していたアジア域内市場が存在しており、「19世紀中葉以降に形成される近代アジア市場は、近代西欧資本主義が閉鎖的アジアを開放する過程において形成されたのではなく、右のアジア市場への西欧の参入とその改変によって、世界市場裡に固有の位置を占めるに至った、歴史的継承態としてのアジア市場にほかならない」からである。そして浜下は従来の通説的な発想をほとんど180°転換して、「中国経済の独自性は、西洋、日本からの影響をも、自らの体系と論理の中に組み入れ、そうすることによって始めてそれらを機能させ得たような、中国経済の包摂力として捉え得る……したがって、従来の「清朝の衰退」という理解とは全く対照的に、この時代は外国をも自らの論理の中に組み込んで機能させた中国経済像、しかもアジア域の内的関係に深く関わったそれであった」という、マクロな視野からの新しい中国近代史像を提唱した。


鑑みるに、これは東アジア圏の歴史像としては確かに注目すべき視点と思われますが、現状冊封体制論に深く関わるかというと、①西嶋自身が文化の方向性を問題にしており、また冊封体制は朝貢体制より上部の構造であると西嶋が捉えていることからも明らかなように、問題点が同一ではない②少なくとも文化圏を設定し、文化の方向性という論点を争っている堀・旗田らに比べて、浜下説はこのような文化的アプローチが薄い③中国の経済的影響力が論じられているが、政治影響力についてはDokutou氏のあげたリンクを参照してもわかるように、消極的に朝貢体制の堅実性を訴えるのみでいまだ明確でないことから、冊封体制論の明清版亜種とする見方は適切ではないと思われます。よって冊封体制に関係するという形でここに言及するよりは、「朝貢」の記事なり、より具体的に関係する記事で言及するようにしてはいかがでしょうか。『清史稿』属国伝が記事の注に含まれるのを心配するくらいデリケートなのでしたら、朝貢体制と冊封体制を混同されてしまうほうもかなり神経質になられるかと思いますし。もちろん脚注という形で言及する程度ならかまわないと思いますが。--Kanbun 2006年7月16日 (日) 01:45 (UTC)

インテンド戻します。浜下説に付いてはまだ著書を読んでいないので私には評価がしにくいのですが、一つだけ『中国歴史研究入門』に「前略…西嶋定生のいう古代史の「冊封体制論」、浜下武志のいう近世・近代史の「朝貢システム論」である。」とあります。この部分を書いたのは岡本隆司氏ですが、氏は明清以降は冊封体制論よりも朝貢システム論を採るべきであると考えているということです。冊封体制論は明清以降に付いても一定の言及をしており、その意味でこの記事中で浜下説に触れるのも読者の理解を深めることに貢献するのではないでしょうか。
あと、私の誤解だったら申し訳ないのですが。Kanbunさんが「冊封体制論は東アジア文化論」とおっしゃっていることには違和感があります。西嶋氏は冊封体制を政治構造として考えていると思うのですが。らりた 2006年7月18日 (火) 09:38 (UTC)

浜下説について。前回引いた李成市氏の言の前後を足して再掲すると、李氏は冊封体制説の展開について述べているのですが、「厳密にいうと、冊封体制は、限られた時代(六~八世紀)と地域(中国と東辺諸国)において検証され、理論化されたのであった。こうした成果を前提に、対象とする地域を押し広げて、官爵を媒介とする関係だけでなく、さらに中国王朝との「朝貢」関係までを含めて、時代も古代から清王朝にいたるまでの千数百年にわたる連綿とした「中華的世界秩序」ともいうべき秩序構造として、拡大した解釈がなされるにいたる。たとえば浜下武志氏は冊封体制の秩序構造を拡大解釈し、朝貢関係をも加えて清王朝を中心とした秩序構造を図式化して、これを「朝貢システム」と呼んでいる。」(李成市『東アジア文化圏の形成』山川出版社、2000、729円)とします。ちなみにこの本は値段が安い上に、よくできた冊封体制解説本です。
この他九大名誉教授の川勝守氏は『日本近世と東アジア世界』(吉川弘文館、2000)において、冊封体制説を検討し「ところで西嶋氏の考察は隋・唐時代で一応は完了しており、宋元以降の中国と日本との関係、東アジア世界のその後の展開については・・・中略・・・宋以後については隋唐以前のごとき東アジア世界の政治的関係ではなく、通商関係にその関係力点が転化したという通説に従ったままであった。・・・中略・・・通商・貿易関係は各時期、東アジア世界の国際政治の構造にいかに規定されるか、又、中国周辺の日本、朝鮮、琉球等々の諸国間がいかなる外交関係を結んだか、等々は意外とわかっていない。この点に関わって、浜下武志『朝貢システムと近代アジア』(岩波書店、1997)は考慮に値する先行研究である。浜下氏は宗主権・主権・非組織ネットワークという三つの統治モデルが東アジアから・・・後略」と述べ、浜下説を重視しています。
また滝野正二郎という方の大学授業[5]においては、この授業は山口大学での冊封体制に関する授業ですが、参考文献に浜下氏の著作が挙げられています。おそらく倭寇や西欧との出会いの場面において触れたと思われます。
他にも上記のような例を提出することはできますが、このような研究者たちの言を考慮すると、冊封体制の項目で浜下説に触れるのは当然であって、その学説に批判的な研究者(有力な学説であるが、いまだ実証が不十分とかいう意見などがある)であっても触れるべきではないという人は一人もいないでしょう。わたしの目算では、らりたさんの冊封体制の解説分量のおよそ1/6前後を「冊封体制説のその後の展開」と題し浜下説に当てる予定です。より詳しい朝貢システムに関する解説は、誰かがいずれ新規投稿すれば良いでしょう。--獨頭 2006年7月18日 (火) 12:46 (UTC)
私も構造的な歴史像を論じる場合は、個人的に古代史では冊封体制論、近世・近代においては浜下の朝貢システム論あるいは溝口の中国的基体論に言及すべきと思っています。私が懸念しているのは、ここが「冊封」の記事であるから浜下説にまで言及してしまうのはおそらく逸脱になるかと思う次第です。歴史像としての「冊封体制論」あるいは「冊封体制」についての記事であれば、浜下説にまで言及するのは当然でしょうが、単なる政治構造論として見る場合、経済的関係に比べて政治的関係については深められていないような気がします。「冊封」と「朝貢」は事実の把握として異なるものですから、「冊封」記事で冊封体制論に触れるのは当然としても、朝貢システム論ということになると、すこし本筋から外れる気がします。そもそも冊封はより本来的には国家間の関係でさえなく、個人間の関係ですから厳密に「冊封」を記述すると中国的な封建関係ということになります。「冊封体制」は「冊封」概念から飛躍して得られた学説なので、現状のままだと朝貢の記事があるならそちらに朝貢システム論をという形になるでしょう。西嶋も朝貢国と冊封国を厳密に区別しており、東洋史の伝統としても冊封と朝貢を区別するのが本来的でしょう。記事自体を「冊封体制」に傾斜させ(その場合記事名も「冊封体制」に変えた方がよい気がしますが)、東アジア世界像を前面に出して論じる記事構成にするなら、朝貢システム論を本記事に含めてもかまわないと思います。あくまで歴史事実・概念としての「冊封」を重視するなら、朝貢システム論まで「冊封」に含めてしまうことは「朝貢」と「冊封」を拡大解釈的に同一視してしまう弊害があります(実際「冊封体制論」と「朝貢システム論」を同一の平面で論じてしまうことも両説が密接な相互理解の上にあるとはいえ、問題点の所在が一致しないことを忘却してしまっています。両者が同一平面に立つのはひとえに東アジア世界論としての座標を設定したときだけでしょう。政治構造論としては位相がややずれています)。まあ冊封体制の文案ができてから、そこはうまくまるめこめるかどうか考えるのがいいんじゃないでしょうか。--Kanbun 2006年7月18日 (火) 15:17 (UTC)
政治構造論としての位相がずれているというのは、たとえば冊封体制を隋唐の政治構造、朝貢システムを明清の政治構造と単純に規定して、冊封体制→朝貢システムとはできないだろうという意味です。つまりこれは近代外交史において従来の旧外交体制(前近代東アジア外交体制)→新外交体制(条約体制)という把握がなされていたようには、冊封体制と朝貢システムの関係を把握できないだろうということです。なぜなら冊封体制自体は朝貢のおこなわれてる次元より高次に設定されているようですから、単純に体制の変容という形で両者をつなげることは困難でしょう。西嶋がややなおざりにした冊封体制の経済規定性と浜下が論じていないと思われる朝貢システム上の文化受容の形態の問題が解決されないといけないという意味です。まああくまで両者を政治構造として歴史的に接続させる場合にのみ必要と考えられる困難ですが。--Kanbun 2006年7月18日 (火) 15:35 (UTC)
また冊封体制論が政治構造論であることは疑っていません。らりたさんの指摘通りちょっと文化論としての部分を強調しすぎたかもと思います。文化論としても、あくまで政治構造が文化を規定しているという意味で政治構造抜きで論じられるものではないこと、たぶんらりたさんともDokutouさんとも見解は一致しているのではないかと思っております。ただ政治構造論として見た冊封体制論が時代的な限界を持っている(西嶋自身はそう思ってないかもですが)のに対して、文化論としての冊封体制論は、漢字文化圏の形成過程、儒教・仏教の伝達過程、暦法などの諸科学の伝遷過程が一応方向的に一致します(西嶋自身は文化の伝遷過程を日本の江戸時代にまで眺めやって論じていますし、明清の「復活」冊封体制ではむしろこの文化の受容過程を跡付けて冊封体制の堅実性を訴えているかのようです)。また冊封体制としての東アジア世界に対する批判が冊封関係の規制力に対する評価・冊封関係以外の隋唐の対外支配の在り方・華夷思想的な世界把握の問題などで論じられるとともに、制度・文化の拡延の(冊封体制以外の)背景が問題となっていることからも文化論としての部分も当初から政治構造としての制度形式論と同じように重視されていたようです。冊封体制自体は一時期にこの方向性を強固に決定づけた政治構造ですが、正確に言えば冊封体制論とは政治構造論と文化構造論とを合わせた東アジア世界論なわけで、政治構造論としてだけ見てしまうと、私見ですが、おそらく宋以前あたりでほとんど役割を終えてしまう気がします。実際に政治構造論としての冊封体制論は時代的には限定的に捉えられることが多いようですね。西嶋自身も隋唐の政治構造はやたら密なのに対し、宋以降はちょっと判然としない部分が多い気がします。--Kanbun 2006年7月18日 (火) 15:17 (UTC)
>両者を政治構造として歴史的に接続させる場合にのみ必要と考えられる困難
はい、その通りです。私はその両者を接続させるような大それた考えは持っておりません。それは研究者の方に委ねるべきことでしょう。
この記事に於ける浜下説はあくまで「西嶋説に対する異論・補説」の一つとして補足的に挙げる物であり、「朝貢システム論」の詳しい説明は浜下武志ないし朝貢システム論の記事に於いてなされるべきかと思います。ですのでKanbunさんがご心配されるほどには逸脱しないと思われます。
それとですが、宋以降の冊封体制に付いてですが。冊封体制論の限界と言うよりも西嶋氏の検証不足によるものかと思われます。南北朝・隋唐については詳しいですが、宋明清となると十行くらいの文章で済ませていますからね。ただそうは言っても冊封体制論が必ずしも「宋・明・清以降に通用しない」とは思いません。現在の所、その辺りの間隙を埋めるような研究をしている方はおられないようですが、前述の通り、現時点では検証不足と思います。
現在、「西嶋論を簡略して説明する」の文章を作成している最中ですが、苦戦しております。今しばらくのご猶予を・・・。らりた 2006年7月20日 (木) 13:09 (UTC)

言語間リンク(zh:朝貢体系

 →Talk:朝貢 を確認して下さい。Amanatsu 2006年7月22日 (土) 19:56 (UTC)

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