ノート:出雲族

最新のコメント:4 日前 | トピック:家系の削除に関して | 投稿者:Fukuneko 2nd

出典の明記されていない本文 編集

出典が全くなく、一般的にも主流の説とは言い難い部分の本文を移動しました。本文に復帰する際は出典を明記してください。--ABCEditor会話2018年2月17日 (土) 23:36 (UTC)返信

諸見解

  • クナド王朝の後、出雲ではオオナモチ王朝が続いた。クナド王の末裔で莫大な財を成した菅之八耳の二人の息子の末裔の向家、(東王家)と神門臣家(西王家)が王家となっていた。王(オオナモチ)と副王(スクナヒコ)の二王制だった。両家から王を出し、年長者がオオナモチ、年少者がスクナヒコとなった。
  • 大国主(八千矛、第八代オオナモチ、主王)と事代主(八重波津身、スクナヒコ、副王)がアメノホヒ達により暗殺された。裏切り者のホアカリやホヒたちと同じ地域に住むことを嫌った出雲の半数の人々が、両王家の分家に従い移住した。事代主の息子、建水方富彦(タテミナカタトミヒコ)は母であるヌナカワ姫を越後国に送ったあと諏訪へ向かい、諏訪に第二出雲王朝王国を築いて幸の神信仰を広めた。娘のミホススミ姫は美保関に残り社を建てて父を祀り出雲の民と渡来人が仲良く暮らせるように努めた。別の息子、奇日方(クシヒカタ)は母である玉櫛姫の実家、摂津三島へと向かい、その後ヤマトの葛城山の東麓を開拓。登美家を名乗り、一言主神社や鴨都波神社を建てた。クシヒカタの妹、タタラ五十鈴姫はのちに三輪山で太陽の神オオヒルメムチを祀る女司祭(姫巫女、姫皇女、ひめみこ、日巫女)となった。記紀では神武天皇の后と書かれているが、実際には初代ヤマト王となる海村雲アメノムラクモ(五十猛の息子)の后である。大国主の后の宗像三姉妹の多吉姫(多岐津姫)は姉の田心姫の住む東出雲に移り、息子である味鋤高彦アジスキタカヒコは葛城山の南側を開拓。高鴨家を名乗り、高鴨神社や御歳神社を建てた。こうして向家と神門臣家の分家が登美家と高鴨家となってヤマトの葛城へ進出し、出雲のタタラ製鉄や幸の神信仰を広めた。この時点で国譲りしたわけではなく、八重波津身の息子、鳥鳴海(トリナルミ)が第九代オオナモチとなって跡を継いだ。
  • 出雲王家の一つの富家にヲホドの御子がお産まれになった。当時の富家は妻を武内家から、武内家は富家の姫を代々妻としていた。武内宿祢の血筋の蘇我本家の越前国造家に養子に入り蘇我刀自の婿となった。ヲホド王は出雲王家出身で出雲系国造群とも深い結びつきを持ちヤマトの大王を凌ぐ勢力になった。平群王朝に大王にふさわしい人が居らず大伴氏や物部氏が平群王朝も武内宿祢と血縁なので蘇我本家のヲホド王を大王にと動いた。大王就任の依頼の為に大伴金村と巨勢男人がヲホド王のもとを訪れた。蘇我刀自と離縁し手白香姫御子(手白香皇女)を妻とする条件だったので難色を示したが、受け入れる事となりヲホド王が大王になり継体天皇の曽我王朝が成立した。継体天皇と刀自の御子達が安閑天皇と宣化天皇、手白香皇女の御子が欽明天皇となった。
  • 出雲大国主の直系を自称する富当雄氏の伝承によると出雲族は気候の寒冷化により日本海側を南下して紀元前2500年頃に出雲に来たという。青森三内丸山遺跡は日本最大級の縄文集落跡でおよそ5900年位前に成立して1500年後には放棄されたとしている。陸奥湾の堆積物を調べた結果約5900年前に陸地の気温が上昇し1500年後には急激に寒冷化したと報告されている。
  • 出雲神族はシュメールやインダス文明の民でクナド王(クナト王)が一族を率いて北回りで祖先の故郷の日本に帰ってきたと出雲神族に伝承されている。日本人バイカル湖畔起源説は出雲神族の北回りルートを裏付けている考えられる。
  • クナドはクルマド(車戸)とも呼ばれている。クナドノ神を御祭神とした車戸神社、車戸村などがいくつも確認できる。シュメール文明のあった現シリアにKulmad(クルマド)と言う地名や苗字が今も存在している。インドとインドネシアにはKurmadiと言う苗字がある。シュメールの女神イナンナ(Inanna)がドゥムジの面影がある牧童クルマドを気に入りイナンナの新領地インダス川流域の王にしたとの説がある。イナンナの長男がシャラ(Shara)でありサルタヒコに通じるものがある。
  • クル族(サンスクリット語 कौरव Kaurava, 「クル कुरु Kuru の子孫」の意)は、古代インドの文献に現れる。鉄器を最初に用い始めた部族でもあると考えられている。インダス文明の後のヴェーダ時代にクル族は次第に領域を固定化して、その領域はクル国(あるいはクルクシェートラ)と呼ばれるようになった。
  • 古事記や日本書紀の天孫降臨に登場する国津神のサルタヒコは天孫族邇邇芸尊らの先導をする。出雲王家の富家伝承で天孫族東征はクナトノ神によって行われたと言う。神武東征の導きをした八咫烏は熊野大神に仕える存在として信仰されてる。近年まで近江の多賀大社の禰宜は車戸が務めており、ある時期まではクナドの神、幸姫命、サルタヒコを祀っていた。多賀大社で毎朝続けられている神事にお供えをカラスに先に食べさせる御烏喰神事がある。
  • 美作国久米北條郡領家村宇佐八幡神社摂社字二塚鎮座の車戸大明神でも御祭神の変更がありクナドの神から大己貴命と事代主命に変わった。
  • 武蔵府中熊野神社古墳は車戸村(現東京都府中市)にある。岐阜県にも車戸村があった。他にも幾つかあった。
  • 出雲神族の富當雄氏によればクナドノ神はイザナギとイザナミの長男だと伝承されている言う。
  • インダス文明の遺跡モヘンジョダロにある仏塔の刻印をトヨクニ文字で読むと「ユニコーンカムイ(ユニコーン神)」と読める。"象の洞窟"の入り口付近でも「阿比留草文字」と豊国文字が発見されており風化が激しい中「……マツラバヤ(祭らばや)」と読める。
  • スイスの考古学者デニケンがエクアドルの古代地下都市跡で日本の縄文土器と「アンデスの黄金版」を発見した。これを出雲文字で解読した結果、「これなる金の板にイサクとヨゼフ記す。ここにわがクルの宝を集めしめ、後の世に伝えて礎たらしむ。ヤファウエを我らの神と崇めよ」となった。
  • 平安時代に編纂された日本の氏族の系譜を記した「新撰姓氏録」にクル族カラ族が日本人の祖先として記されていると言う説がある。

「種族」とは 編集

トップの説明に「出雲族(いずもぞく)は、(中略)種族。」とされているが、この記事はこの「種族」という語を都合よく解釈することで形を保っているのではないか。

「種族」は国史大辞典からの引用なのでそこの記述からみると、「出雲族」という語について氏族に関する記述は一切なく、出雲神話を伝承した集団が想定されている。一方で「出雲族」のページには、私の編集前にはほとんど天神系・地祇系の家系に関する記述しか無かった。※「出雲族#諸説」の項は民族的な視点が含まれるものの、学者でない人物(小説家…司馬遼太郎、高橋克彦)の説が引かれているなど学説として扱うには不十分と思われ、削除を検討したい。

種族」の曖昧さ回避ページには「人類の種族 -人種、民族、部族、氏族、家系、親族を参照。」とあり、この語の曖昧さを利用することで辞典どおりの解釈をせず家系の話を展開しているように見える。百科事典の記事として、「出雲族」のページのあるべき状態は①学史を重視して「出雲神話を伝承した集団(との仮説)」について記述する、②ページの内容を重視して家系としての集団について記述するがそれは学史的に「出雲族」と呼ばれてきたものとは異なるのでページ名を変更する、③出雲神話を伝承したとの説がある「出雲族」の定義と氏族としての「出雲族」の定義の2つがあると考えそれを明記した上で両方について記述する、などが考えられる。私は宝賀氏の書籍にアクセスできていないが、少なくとも国史大辞典を見る限りでは「出雲族」は天神系と地祇系の2つの一族を指す用語として用いられている様相は確認できない。--Fukuneko 2nd会話2024年3月3日 (日) 10:16 (UTC)返信

このノートの議論のうち、「諸説」の項を削除する件を実行しました。復帰の必要を考える方は、改めて議論を立ち上げてください。--Fukuneko 2nd会話2024年3月30日 (土) 10:58 (UTC)返信
ちゃんと全部読んだわけではないので恐縮だが、宝賀2020(当ページ参照)でオオクニヌシの子孫を出雲族に想定しているので、少なくとも宝賀氏は出雲族(出雲神話の担い手としての「出雲族」(=事典の定義(川副1979))と同一の概念化とは言いがたいように思える)を家系的な概念で捉えているようだった。以上の状況から、家系としての記述はとりあえず残しておいた(「天孫系」は宝賀2020の指摘をもとに削除)。ただしオオクニヌシの子孫が出雲族であるとしても系譜を箇条書きにしている現状は百科事典としては不適切と考える。--Fukuneko 2nd会話2024年4月20日 (土) 13:27 (UTC)返信

構成神の項について 編集

上記「#「種族」とは」の問題に続けて、仮に氏族としての「出雲族」の記述を残す場合、2024年3月現在の記述では系譜が列挙されているだけで(氏族としての)「出雲族」に関する説明がほぼありません。この記事を見たとき、神さまのリスト以上の理解は困難で百科事典として多様な情報が不足しています。

かつ、そのリストに示される神さまのほとんどについて個別記事が存在するので「出雲族」のページにわざわざ個々の神さまへの説明を書く理由は無いです。さらにその個々の神さまへの説明は雑多で一貫性がありません(たとえば神さまの事績が書かれたり書かれなかったり、祀られる神社(しかも複数の神社に祀られる神さまについてなぜその神社を選出したかの理由も不明)が書かれたり書かれなかったりしている)。

このノートでの主張は①(氏族としての「出雲族」の記述を残す場合、)ただの系譜の記述だけでなくもっと多様な項目で説明するべきであること、②個々の神さまへの説明は削除してもいいということの2点です。--Fukuneko 2nd会話2024年3月3日 (日) 10:35 (UTC)返信

個別の神さまに関する記述を一部を除き削除しました。理由は、当該記事は個別の神さまの記事ではなく「出雲族」の記事であるにもかかわらず個別の神さまの記述によって雑多な様相になっている点と、2024年3月3日のノートに書いた通りそれらの記述に一貫性がなく(出典もほとんど示されていない)当該記事に必要な記述と思われなかったという点からです。--Fukuneko 2nd会話2024年3月30日 (土) 11:25 (UTC)返信
構成神の項は章ごと削除した。
  • 理由①:「出雲族」の辞典通りの定義は歴史的に確認される特定の家系を指すものではないと考えたため。
  • 理由②:「大国主」のページにほとんど同様(部分的により詳細)な記述がありそちらに誘導すれば良いと考えたため。
  • 理由③:本ページの「複数の問題」解消のため。
さすがに大胆な削除であると自覚しているため編集を差し戻しても構わないが、その際には、
  • 1.「出雲族」が特定の家系を指す用語であるとする根拠を示すこと
  • 2.「大国主」のページと重複していてもあえて本ページに記載しなければならない必要性を示す、あるいは「大国主」のページと重複しない記載に変更すること
  • 3.「複数の問題」として指摘されていた「出典の明記」、「脚注の不足」、「参照方法」、「独自研究」をクリアし、Wikipediaの記事としてのクオリティを挙げること
の3点を徹底されますよう。--Fukuneko 2nd会話2024年4月20日 (土) 14:26 (UTC)返信

家系の削除に関して 編集

上記「『種族』とは」、「構成神の項について」については、それぞれ「種族」の語を「集団」に書き換え、「構成神」の項を章ごと削除したことでとりあえず一旦解決したものと考える。この解決のために記事を大幅に削減したため、この記事削減に関する議論をここで行いたい。

私は「構成神について」の2024年4月20日 (土) 14:26 (UTC)の投稿に書いたとおりの理由で家系に関する記述を削除し、復帰させるためには同投稿に示した3点が必要だと考えた。少なくとも3点目については異論ないと思うので、もし家系の記述の復帰が必要だと考える方がおられるなら1点目・2点目(あるいはこれ以外の要件)に関して意見を聞かせていただきたい。--Fukuneko 2nd会話2024年4月20日 (土) 14:39 (UTC)返信

ページ「出雲族」に戻る。