ノート:利根川東遷事業

最新のコメント:7 年前 | トピック:定義文の一部について | 投稿者:Koshi2016

定義文の一部について 編集

  提案 定義文についてですが、1つ疑問と1つの提案があります。

1点目、狭義の定義について。
定義文の一部に

(定義文の一部)
改修工事は文禄3年(1594年)に行われた会の川の締め切りから、承応3年(1654年)の赤堀川通水まで続いた。ただし広義には、足尾鉱毒事件後に行われた明治時代後期までの工事を含む。

まず、(狭義の)定義を「会の川の締め切り」から「赤堀川の通水まで」としているのですが、(狭義の)定義が、「赤堀川の通水まで」となる根拠が示されていない点が疑問です。本文によると、

(本文)
承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事によりようやく利根川の水の一部が赤堀川から常陸川に常時流れる。だが、この時の赤堀川の川幅は10間(18メートル)程度であり利根川の洪水を流下させるには狭い。さらに、寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、水運の大動脈が完成することになり、事業は一段落する。

とあり一番重要である出典が示されていません。この点は補足が必要と思われます。

2点目、時代の表記について。
同様に、定義文の一部になるのですが、広義の定義では、「明治時代後期まで」との表記があるので、狭義の定義においても「時代」などは入れるべきと思われます。

(案)
利根川東遷事業とは中世末の 文禄3年(1594年)の会の川の締め切りからはじまり、江戸時代の 承応3年(1654年)の赤堀川の通水までを指す。広義には、明治時代後期 足尾鉱毒事件後に行われた工事まで含む。

との編集はいかがでしょうか。但し、出典の確認が必要ですが・・・。 --湖紫陽(koshi2016)会話2016年11月15日 (火) 13:24 (UTC)返信

  報告 出典を確認したため、本文の編集と出典の補足を行います。--湖紫陽(koshi2016)会話2016年11月18日 (金) 08:21 (UTC)返信

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