ノート:北愛清

最新のコメント:13 年前 | トピック: | 投稿者:KurmUmy

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『岩手県史』(第3巻)にある北氏の系譜では、信愛の子には長男・北定愛、次男・北秀愛がいますが、彼らの兄弟に北愛清の名は全くありません。何の系譜に出てくるのでしょうか。『岩手県史』の見解が古くなった可能性がありますが、参考文献も無く、信頼できる情報源がありません。出典を確保すべきだと考えます。--KurmUmy 2009年8月23日 (日) 09:53 (UTC)返信

愛清を祀るとされる十三騎神社ですが、あくまで祀っているのは「北弾正」です。十三騎神社の地元の『五城目町史』(五城目町史編纂委員会編、1975年)では、愛清の名は全くありません。「大方の軍書」では北信愛の弟・弾正のことだと町史には記述されています。また『五城目町史』は「柞山峯之嵐」に弾正直栄が落ち延びた記述があると指摘します。その上、北弾正が南部側に逃げず秋田勢側となる五城目へ落ち延びるのは不合理だと疑問を呈します。この不合理から「十三騎」は九戸政実の乱の残党とする異説も生んだとあり、十三騎神社の観点で史実とするには危険です。また、この記事の初版作成者は自身を愛清の末裔と称しており、家伝を信頼できる情報源無しに記載した可能性があります。--KurmUmy 2009年8月29日 (土) 10:56 (UTC)返信
南部藩士の家系図集『参考諸家系図』(文久年間成立)には、長男・愛一(定愛)、次男・直愛(秀愛)のほか、5男の直継、愛邦、養子の直吉(信景)、末子・愛久が記載され、愛一・直継・愛久の家系が分家を含め続いています。しかし、愛清の名や、その家系に関する記載はありません。三戸氏の項にも、愛清の子・三戸清乗の名は無く、その系統も見えません。--KurmUmy 2009年8月30日 (日) 15:18 (UTC)返信
更に情報を追加します。北愛清・三戸清乗の子孫と書かれていた三戸式部ですが、『幕末維新人名事典』によると、藩主南部氏の分家であり、三戸清乗とは無関係です。北宗家三戸家の系統は北愛清・三戸清乗という不確かな人物しかないと考えられます。--KurmUmy 2009年9月6日 (日) 09:11 (UTC)返信
北氏を再構成しました。北愛清三戸清乗北宗家三戸家の3記事は子孫を自称する初版投稿者の虚偽か独自研究であり、もし本当に伝わっていたとしても、検証可能性を満たせず、特筆性もないと考えられます。--KurmUmy 2009年12月1日 (火) 11:48 (UTC)返信

記事内で信愛の長男と称する愛清およびその子・三戸清乗、三戸清乗の家という北宗家三戸家ですが、出典がありません。

{{未検証}}などのテンプレ貼り付け、ノート誘導や修正依頼を行いましたが、出典・意見がでないため削除依頼を検討します。 北愛清、三戸清乗、北宗家三戸家の3記事は虚偽記事あるいは初版投稿者による独自研究と考えられる点を以下にまとめておきます。

  • 初版投稿者は北宗家三戸家の末裔と称している。
  • 『岩手県史』や「参考諸家系図」(盛岡藩による家臣の系譜録、江戸後期成立)で信愛長男の北定愛に対し、該当利用者は同じく初版投稿を行うが、定愛をことさら貶めるような中立的でない表現を使用。
  • 清乗が北家惣領を信愛から継承と他の関連記事で記入。しかし、『岩手県史』では北定愛(愛一)子孫が惣領との記述、また北信愛の祭祀は信愛5男・直継が継承(『鹿角市史』は家督継承とみなす)。少なくとも「清乗」なる人物は存在しない。
  • 北宗家三戸家では清乗の末裔として、三戸式部を挙げていた(同一利用者の初版投稿、三戸式部では北信愛の末裔という記述のみ)。しかし、彼は藩主南部氏の分家出身(南部利視の4世孫)であり、北信愛との関係は無く虚偽記載。
  • 北愛清を祀るとする十三騎神社を投稿したが、地元の地誌には愛清の名はなく、北弾正という名(初版投稿者は別名と主張)で説話上の人物かつ多くの場合は信愛の弟とされる。

もしかしたら地元のマイナー説かもしれませんが、現状では削除相当と考えます。--KurmUmy 2010年9月26日 (日) 06:56 (UTC)返信

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