ノート:北条氏康/過去ログ1

最新のコメント:13 年前 | トピック:上杉謙信との小田原城攻防戦について | 投稿者:ジャムリン
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上杉謙信との小田原城攻防戦について

編集合戦の様相を呈してきたのでトークに書き込みます。ジャムリン氏は永禄4年(1561年)の小田原城の戦いは、1週間程度であったとの書き込みをされています。根拠となる資料は「大藤秀信宛書状」・「大藤文書」・「箱根町町立郷土資料館蔵」・「藤曲家文書」である等とされています。このような資料が本当に実在するのですか? 捏造を疑われても仕方ないような書き込みです。本当に実在するのであれば、本当に攻防戦が1週間であるならば、近年の歴史本でそのように記載されているはずです。ジャムリン氏は、このような文書をどこで入手し、お読みになったのですか? もし実在する資料であるなら、大変興味深いので是非拝読したいものです。

また、攻防戦の終盤で、越後方の一部の豪族は、「勝手に陣を引き払う事態となっていた(杉原謙氏所蔵文書)」と有りますが、一部とはどの武将のことなのか明記をお願いします。 --海流の中の列島 2010年5月23日 (日) 05:54 (UTC)

文の引用については、著作権の問題もあるのでそのままは、どうかと思いますので、問題を感じた方がいらしたら「」内を削除願います。「内々敵陣落去に附すべき分に候ところ、佐竹・小田・宇都宮以下押さえて意見の旨候の間、その儀の任せ」とあります。海流の中の列島氏が反証出典の提示もなしに削除された参考文献に記載されております。また別欄に記載されていたものの中にもありましたので、参考文献欄内に移行しました上、同じ内容がより原典に近い形で記載されている別の史料を脚注に入れました。「杉原謙氏所蔵文書」に関しましては史料集によっては「杉原謙氏所収文書」となっております。ちなみに上杉憲政から関東管領職と上杉家家督よ譲られた下りは「杉原謙氏所蔵文書」にもあります。その他ご指定の「大藤秀信宛書状」・「大藤文書」「藤曲家文書」も、こちらが出典とし投稿いたしました史料集や研究書に編まれております。「箱根町町立郷土資料館蔵」は公共の施設です。文書名や史料名でネット検索すれば、原資料は無理でもCD-ファイル化したものなどで、どの一次史料が、貸し出し・閲覧可かも判ります。中には閲覧可でも有料だったり会員登録が必要だったり所蔵元の条件を充たさなければならないところもありますが、検証可能です。
というより一次史料に関してましてはご存知のことと思いますが、所蔵元に行かないと閲覧できないものや有資格者でないと閲覧不可なものの数が多いので、出典として参考文献覧に投稿したものは、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源での方針に従って提示した「ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものです。学者によって書かれ、学術的な出版社によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、信頼できると考えられる」の二次史料集としての文献、同じく三次史料集や研究書です。提示した二次史料集は例え、版元で在庫切れか非売品のものでも図書館で閲覧できるものです。古書店でも探せます。検証可能な状態にあり、それ以上の検証は各人でできるものです。
海流の中の列島氏の投稿が独自研究でないのならば、海流の中の列島氏が他に求められるように、海流の中の列島氏自身もその旨を出典付きで投稿いただければと存じます。その方が記事としての充実がみられると思います。Wikipedia:検証可能性の方針には「ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。」とあり、ご指定の部分については近年の歴史書内にあり、それを私は参考文献で検証可能の出典として示していました。
また1週間の攻防の説としては以上のとおりの出典を出していますが、それまでの通説と併記する形で加筆しました。その通説の方は、甲陽軍鑑等の創作性が高いとされる史書以外に、私が検証した中では、それを裏付けるたけの史料は上杉家文書の中にも見当たらないとのことでした。出典を提示しましたのに、まだ総構えどころか、三の丸も存在しない程度の小田原城に対し、1ヶ月も大軍を率いて包囲しながらも落せなかったとあっては北条氏の篭城戦の巧みが強調されることにはなっても、野戦の巧みさに比べて城攻めの方はさほどでもないと評されることもある謙信公が、軍内外に諸事情ゆえに1週間の城攻めだけで撤退したからこそ落せなかった、とでもいっているようで謙信公贔屓が過ぎて公平性を欠いているとでもいうのでしょうか。以上--ジャムリン 2010年5月23日 (日) 23:33 (UTC)
甲陽軍鑑には謙信・信玄の一騎打ちが記載される等、創作されている可能性の高い点もありますが、第四次川中島の戦いに関して、前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ちと結論付ける等、信頼できる記載もあります。甲陽軍鑑を創作性が高いと一蹴するのは如何かと存じます。
小田原城は謙信による攻囲の時点でも十分に堅固な城だったと評価されていますが。それから貴殿の検証結果がどうであろうと関係ありません。それは独自研究に他なりません。
貴殿は謙信が小田原城攻囲の後、越後へ引き上げる際に河越城を攻略したと書き込まれていますが。それは私には全くの新情報ですが、一体どの資料に記載されていたのですか? 河越城は武蔵国で屈指の名城ですから、攻略していたのが事実であれば歴史書に明記されているはずです。まさか調べもせず適当な書込みをなさってるのではないでしょうね。
謙信の城攻めがさほどでもない? ご冗談は程々になさって下さい。秀吉ほどでは無いかもしれませんが、「さほどでもない」とは聞き捨てなりません。事実、能登七尾城・越中松倉城・上野石倉城・武蔵松山城・下野唐沢山城・常陸小田城・下総結城城など、数多くの堅城を攻略しています。謙信は野戦が無敵過ぎただけです。謙信と野戦を試みた身の程知らずは、信玄と越中一向一揆くらいです。案の定、信玄は実弟や重臣を討ち取られ意気消沈、越中一向一揆は壊滅してしまいました。自業自得でしょう。
謙信による小田原城攻囲が1週間という説は信憑性に乏しいので削除します。書店に並んでいるどの歴史書にも、そのような事は記載されていません。これが何よりの証拠です。貴殿が提示した資料は実在するかも不明ですし、実在したにせよ検証するに値しません。なぜなら本当に信頼性のある実在する資料なら、近年の歴史書に「1週間だった可能性もある」と明記されるはずです。しかし小田原城攻囲は1か月あるいは1か月半と、どの本にも書かれています。ジャムリン氏は戦国時代に大変お詳しいようですが、独自研究を公表したいのでしたらご自分でホームページを作って発表されて下さい。wikipediaを私物化されては困ります。--以上の署名のないコメントは、海流の中の列島会話投稿記録)さんが 2010年5月24日 (月) 13:14 (UTC) に投稿したものです(Mimosa5による付記)。
上の投稿記事には、ご署名がみあたりませんので。無署名氏は、上記事の内容からいたしますと、ウィペディアの投稿は可能でもネット検索すらできない状況にあるのでしょうか?捏造を疑う前にご自分で調べた方の書かれたことであるとは思えません。それ以前に個人の事情にに関わらず、私はウィキペディアの方針に従って検証の可能性を充たした出典を投稿しております。本文の参考文献欄のISBN リンクをクリックして、さらに飛んだウィキペディア内のリンクのなかのお好きな外部サイトへのリンクをクリックすればいいだけの、どなたにも簡単にできる作業です。多くのネット書店に在庫があり、その中でも、学術的な公的機関に所属し、一次史料の研究している方の書かれたものです。研究者向けの一次史料集も編集されている方の著作で、一般向けな内容の比較的手に入りやすいお値段の書籍になります。
小田原城が堅固な城であったという主張をなされる無署名氏も、出典をご提示いただければ幸いです。私はネット検索も書店や図書館閲覧もできる状態ですので、ご提示いただければ検証することが可能です。本来、ウィキペディアに投稿・閲覧できる者にとっては可能なことです。そのための参考文献の提示です。--ジャムリン 2010年5月26日 (水) 03:56 (UTC)

ジャムリン氏は、謙信による小田原城攻囲が1週間程度という有力な説があるとの意見をお持ちでいらっしゃいます。実在するのか不明な参考文献も提示されました。では、その書物の何ページに記載されている内容なのですか? ジャムリン氏がそこまで頑なに珍妙な自説を曲げないからには、当然ご自分でその文書を熟読された上での投稿かと思います。それから、その文書が信頼するに足るものである根拠をお聞かせ願いますか? 昔に書かれた文書の中には、内容が嘘偽りのものが多いのですが、氏がwikipediaへの記載を強く望まれるからには、よほど信頼できる文献なのでしょう。--海流の中の列島 2010年5月30日 (日) 22:25 (UTC)

「有力な説」などと、どこの履歴を見れば書いてありますでしょうか?「一説として、そういう説もある」という旨の文を入れて併記しておりますが?そして参考文献に出典はあります。ウィキペディアの投稿方針に反しておりませんので、ご自分で検証さなって下さい。その上、文献はおろか、文末において脚注として文書名まで出してあります。そして海流の中の列島氏の記述の出典はまだですか?何ページのどこなどと言われなくても私は出典を出していただければ自分で調べます。--ジャムリン 2010年5月31日 (月) 00:02 (UTC)
おや、ジャムリン氏の主張する謙信による小田原城攻囲1週間説は、有力な説ではないのですか。では、わざわざ氏がご自身の貴重なお時間を割いて記載することも無いのでは。大書店で謙信や氏康の本を読み漁ってみましたが、1週間説なるものは未だ見当たりません。
謙信による小田原城攻囲は1カ月かあるいは1ヶ月半と学研等の歴史本に書かれています。もし本当に1週間であった可能性があるなら重大発見だと思います。氏が1週間との文献を本当に発見されたのなら、一度大学へ足を運んで日本史を専攻する教授にその旨を伝えてみてはいかがでしょう。そして教授が1週間説を支持すれば、wikipediaに書き込まれれば宜しいかと存じます。ただ、これまで氏が軽はずみな書込みをなさってきたことを考慮に入れると、氏の捏造ではと疑ってしまいます。疑ってしまうのは私がこれまで幾度も人に騙されて辛酸を嘗めてきたきたからでしょうか。--海流の中の列島 2010年5月31日 (月) 09:43 (UTC)
それから、氏が書き込んだ箇所の一つに、謙信による小田原城攻囲の後、越後へ引き上げる途上で河越城を攻略したというものがあります。おそらく氏の記憶違いか何かだと思いますので、こちらで削除しても宜しいでしょうか。河越城は戦国時代において、関東4大名城の一つと云われる程の重要拠点ですので、本当に陥落していたなら資料に明記されるはずです。氏は、忍城や他の城と間違われたのでしょうか。--海流の中の列島 2010年5月31日 (月) 10:13 (UTC)
小田原城の戦いは、軍記や家伝以外の史料では詳細はわかっていないというのが本当のところのようですので、正確性はともかく一般に膾炙している1ヶ月に、今のところの史料で確認できる範囲としての1週間という意味での併記です。--ジャムリン 2010年6月1日 (火) 01:49 (UTC)
確かに河越城は謙信によって陥落してはいません。攻めたけど、河越城は落せなかったんでした。「攻略」では、言葉の使い方が違いましたね。河越城は「攻撃」です。松山城は資料によっては、『東松山市』通史編のように、謙信が越後に帰ったあとの9月に太田氏が占領して上杉憲勝を入れた、とかもあるんですが。どっちにしろ、興国寺城以上に、この後の2・3年の間に両者間の攻防があり、永禄6年に武田・北条連合軍によって陥落したあとは小田原の役まで北条方の上田氏の城になるんですけどね。--ジャムリン 2010年6月1日 (火) 01:49 (UTC)
ジャムリン氏、ご無沙汰しています。実は今日、書店で謙信による小田原城攻囲は1週間と書かれた本を書店で見つけました。後北条氏5代について書かれた本です。氏の1週間説は存在したようです。捏造ではと疑って悪かったですね。この場を借りて謝ります。ペコリ
氏は色々な書物を読んで、それを元にwikipediaに書き込まれてるのは関心します。しかしどうも氏が参考にしている本は、後北条氏寄りのものが多いようです。そのような書物の多くは、謙信や信玄、里見義堯の悪口が列挙されているものです。氏は大変勉強熱心でいらっしゃいますが、後北条氏の長所ばかり書かれた書物をお読みになっていると、書き込みのバランスが崩れてしまいます。今度はぜひ謙信について書かれた本も読んでいただきたいものです。
松山城についてですが、確かに永禄6年(1563年)以降は北条方です。しかし氏康が北条氏だけの力で松山城奪還を試みた永禄4年(1561年)年秋は、攻略できませんでした。永禄6年(1563年)に落城させたといっても、それは信玄の援軍を得て5万の大軍で包囲して、しかも謙信が越中に出兵して関東を留守にしている隙のことです。謙信が急いで武蔵に来た時は手遅れ、氏康・氏政は松山城に引っ込んで出てきません。同年、関東を謙信に席捲されても氏康は城から外に出ず、信玄の助けをじっと待ちます。永禄7年(1564年)に謙信が第五次川中島の戦いで信玄と睨み合ってる隙に、城から出て国府台で里見氏を破ります。ところが永禄8年(1565年)の第一次関宿合戦では、謙信が出陣すると氏康は逃げてしまいました。永禄9年(1566年)には謙信が里見氏を助けるため、無茶して遠すぎる臼井城まで遠征、攻略に失敗しますが、この時も氏康・氏政はどこかの城の中です。氏康は謙信に勝てないことは十分認識していたのでしょう。正しい判断だと思います。
私は氏康はカメに似てると思います。すぐ信玄を頼るところは、ドラえもんに泣きつくのび太のようです。もちろんカメは逞しい生き物ですし、のび太は偉大なヒーローですが。--海流の中の列島 2010年6月7日 (月) 13:15 (UTC)
誤解が解けて安堵いたしました。小田原包囲の1週間については、上杉謙信や武田信玄の本でも、期間については明言せず、判明している史料の時系列を羅列した上で私見に触れている内容のものもありました。北条氏についての記事の投稿ですので、その場合に参考にするものは北条氏についての文献が多くなりますが、関連他氏の本や総合的な本も参考にしています。とはいえ個人個人の知識に偏りが出ないわけではありませんので、補い合い、検証し合うことで、公平に多角的で充実した記事にするためにも大勢が編集に参加できるところがウィペディアの良いところだと思います。もちろんデメリットもあるわけですが。戦国武将に限っていえば個人的な好みは別として、それぞれに味と面白みがあるものと思っておりますが、ウィキペディアはそのことを表現する場ではないとも認識しております。極端な顕彰や賛美や貶めること良しとする場でもないでしょう。記事から離れて言わせていただくなら、戦争はゲームではなく、現実的な有形無形の損益が生じるものです。軍事は共同体を運営していく上での手段のひとつでしかありません。古代スパルタのようにペルシャに戦争で大敗しても国が活き、アテネに勝ったことで自国の崩壊を招いたというような歴史もあります。弱いからこそ見逃されて生き延びることが出来たり、強いからこそ恐れられて叩き潰されることもあったりと色々です。戦わずして勝つこともあれば、負けるが勝ちということもあるでしょう。そこで何を優先するか、そのための選択をどう判断するのか、武将の考え方や理念もまたそれぞれです。その成果にしても、また然り、ではないかと考えています。--ジャムリン 2010年6月7日 (月) 15:59 (UTC)

河越夜戦の戦果について

「河越夜戦で氏康が関東での支配権を確立した」との書き込みが有りますが、不正確です。河越夜戦で氏康は、武蔵の扇谷上杉朝定を滅ぼしましたが、上野の山内上杉憲政は未だ大きな勢力を維持しています。事実、天文16年(1547年)には憲政は2万を越える大軍を、信濃へ派遣しています。氏康は、河越夜戦が終わった時点では、未だ関東での支配権は確立していません。--海流の中の列島 2010年5月23日 (日) 05:54 (UTC)

再投稿をお読みいただければご理解いただけると思いますが、私の投稿の意図するところは(河越夜戦)のリンクより後の部分だったので、ご指摘の部分については訂正のままとさせていただきました。--ジャムリン 2010年5月23日 (日) 23:33 (UTC)

興国城について

永禄11(1568)年に、氏康が興国寺城を一時的に奪還したことは、天文20年(1551年)より相当先のことです。わざわざ書き込む必要はないでしょう。しかも元亀2年(1571年)には再び武田方の城となっ ています。--海流の中の列島 2010年5月23日 (日) 05:54 (UTC)

項目は三国同盟についてであり、興国寺城の氏康生前中の北条氏への帰着について年月日と事実のみの簡潔に記した私の投稿について、初めに冗長な文を加筆したのは海流の中の列島氏の方です。元亀2年(1571年)1月の攻撃こそありましたが、12月に再び武田方の城となったのは甲相同盟に和睦が成立してからで氏康病没後では? --ジャムリン 2010年5月23日 (日) 23:33 (UTC)
貴殿が、氏康による天文20年(1551年)興国寺城奪還の投稿をしたかは存じません。しかし氏康が興国寺城奪還の直後に、義元に再奪還された事実は、時系列の観点から適切な書込みでしょう。でないと読者が、河東の乱は氏康が義元より優勢だったのかと誤解します。
貴殿が新たに書き込んだ1568年の、氏康による奪還は、ずっと先のことです。この三国同盟の項目に書き込む内容ではありません。時系列が乱雑になってしまいます。
氏は余程、氏康がお好きなようですが、wikipedia上で強引に自説を展開されても周囲は迷惑です。--海流の中の列島 2010年5月24日 (月) 13:42 (UTC)
当該ページ人物の近い直系先祖にゆかりの深い、と書かれている事項においてですし、その文を残すのであれば、該当ページで説明することが妥当かと認識しております。--ジャムリン 2010年5月26日 (水) 03:56 (UTC)

ゆかりの深いといっても、それは氏康の先祖のことで、氏康が生まれ育った地ではありません。氏康が信玄方の興国寺城を奪ったのであって、氏康が今川氏から再奪還したのでは有りません。この三国同盟の欄は、氏康・義元・信玄の三者の相関関係が重要であり、その他の時系列を乱す記述は蛇足です。--海流の中の列島 2010年5月30日 (日) 22:25 (UTC)

では「ゆかり」な描写を省けば良いのでは?そして信玄から奪ったと加えればいいだけの話です。今川に奪われたのも武田から奪ったのも、該当項目である三氏の同盟の移り変わりの中での氏康の関わった攻防なのですから。--ジャムリン 2010年5月31日 (月) 00:02 (UTC)
理屈と膏薬はどこにでも付くものですね。氏と議論していると、輪廻のように堂々巡りで決着点が見えません。そちらの方が年長のようですので、この辺りでこちらが自重しましょう。しかしあまり謙信を愚弄する書込みをなさると再度リングに上がりますので、重々記憶されていて下さい。--海流の中の列島 2010年5月31日 (月) 09:43 (UTC)
私の投稿しました興国寺城に関するのことのどこに謙信のことが愚弄されているような記述があったでしょうか?関係するのは今川と武田ですよね?海流の中の列島氏も2010年5月30日付けの記述で「この三国同盟の欄は、氏康・義元・信玄の三者の相関関係が重要であり」と書かれていらっしゃいますのでお判りのことと存じますが。--ジャムリン 2010年5月31日 (月) 22:00 (UTC)

関東での上杉謙信との攻防について

氏康は謙信が関東を留守にしている間に小山氏を降伏させたものの、直後の永禄6年(1563年)には謙信の関東出兵により、小山氏は再び謙信に降伏しています。この書き込みを削除する意図をご説明いただけますか? 

また、永禄10年(1567年)には、前年に北条方になっていた厩橋城は、再度上杉軍の攻撃を受け、北条高広の敗走により、再度上杉方の城となっています。この事実に関する書き込みを削除する必要はないでしょう。明記させていただきます。--海流の中の列島 2010年5月23日 (日) 05:54 (UTC)

指定部分の削除は、他記述部分で補っている箇所もあり、重複の整理以外に意図するところはありませんでしたが、前半部の経過について書くのでしたら、後半部も経過として記述することに何の矛盾もないと思われます。出典提示の上で。--ジャムリン 2010年5月23日 (日) 23:33 (UTC)

越相同盟の破棄に関して

なぜ謙信の至らない点を、氏康のページで列挙する必要があるのか甚だ疑問です。wikipediaは公平な観点で書き込みするものです。あまり偏った書き込みをされるとページが纏まりを欠いてしまうので、十分気をつけて下さい。--海流の中の列島 2010年5月23日 (日) 05:54 (UTC)

至らなさではなく、双方の立ち居地の違いとして書いております。氏康のページで、氏康の立場から見た同盟や、氏政との同盟に対する温度差を記述することは、この後の帰着を説明するうえで必要なことでもあると考えます。私個人としては氏康は同盟続行を望んでいたと考えており、しかしそれだと独自研究的な視点が入ってしまいますので、むしろ謙信の行動は偏りのない視点を心がけ、無機質行動として表層的事実のみを書いたつもりです。謙信公の行動の意義や立場は謙信公のページでなさればいいことだと思います。それより、こちらの出典を提示した記述を反証の出典もなしに削除されているのは、海流の中の列島氏の方です。--ジャムリン 2010年5月23日 (日) 23:33 (UTC)
立ち位置の違いを書いている割りには、随分と氏康寄りに思えます。ここ数日は公平性を心掛けているようにも見えますが。氏に自浄作用が働いたなら大いに結構です。かつて親鸞聖人の衣服を奪おうとした追い剥ぎが、聖人の心の清らかさに触れ、前非を悔いて聖人の弟子になりました。氏も私の指摘を受けて初心に帰られたのでしょうか。--海流の中の列島 2010年5月31日 (月) 09:43 (UTC)
親鸞聖人のエピソードを披瀝したいのでしたら然るべきページでなさればいかがでしょうか。--ジャムリン 2010年5月31日 (月) 21:53 (UTC)
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