ノート:哲学館事件

最新のコメント:6 年前 | トピック:『小説東京帝国大学』の扱いは慎重に | 投稿者:Aiwokusai

間違いだらけの哲学館事件 編集

中等教員無試験検定資格について 編集

井上は、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)、國學院(現在の國學院大學)、東京専門学校(現在の早稲田大学)と私立学校の連合を組んで再度陳情を行い、1899年(明治32年)に中等学校の教員免許について、卒業と同時に無試験で認可されることとなった。 — 2017年9月13日 (水) 10:55版

1899年に認可されたのは東京専門学校、國學院、哲学館の3校で、慶應は1年遅れである。

明治三十三年義塾の理財学科及び文学科の卒業生に対し、中等教員無試験検定資格を認可せられた — 『慶應義塾七十五年史』185ページ


1902年(明治35年)にはこの4校で最初の卒業生が誕生し、私立学校ではじめての無試験教員が誕生するはずであった。 — 2017年9月13日 (水) 10:55版

これも間違い。哲学館からは既に1902年7月14日に修身科と漢文科から卒業生が誕生している(『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』488ページ)。


教育部第一科(倫理科)の卒業試験について 編集

この内容はミュアヘッド{(John H. Muirhead)の書物の一節からとられたもので「動機が善ならば弑逆(親など目上の人を殺すこと)も許されるであろうか」という課題である。 — 2017年9月13日 (水) 10:55版

これも間違い。こっちが正しい。

倫理科問題の一に『動機善にして悪なる行為ありや』の一条あり — 『東洋大学創立五十年史』85ページ


これに対して学生が「許される」とした。 — 2017年9月13日 (水) 10:55版

学生はやや遠慮がちに、目的と結果という行為全体から善悪の判断をすべきだと回答した。

人は彼が予知せざりし結果に対しては之を予知せざりしてふ事実に責任ありと云はゞ兎も角(其結果そのものには)責任ありと云ふを得ず、且又単に彼の志向たるに止まりて動機ならざりし結果の部分を見て之に善悪の判断を下すべきものにあらず、否らずんば自由の為に弑虐をなす者も責罰せらるべく、自ら焚殺の料に供せんが為に、溺死に瀕せる人を救へる暴君も弁護の辞を得べし。唯だ夫れ吾人が動作全体を計算し、(一)其結果が全体として善なるか将悪なるか、(二)是等の結果が当の目的なるかの問題に答へたる後、吾人は初て之に就きて道徳的判断を立つるの権利ありとするなり。(原書六二頁) — 『東洋大学創立五十年史』85ページ


哲学館は廃校勧告を受けたのか 編集

文部省は哲学館の廃校も前提に教育方針の変更を迫ることとなった。(中略)日英間の国際問題となりかけた。そのため、文部省は廃校勧告を取り消し、哲学館の教員免許無試験認可を取り消すこととした。 — 2017年9月13日 (水) 10:55版

果たしてそうだろうか?

十二月十四日、野尻視学官は私交上の誼に依り、哲学館講師の一人たる湯本武比古氏を訪ひ、十三日に哲学館が認可取消となりたる旨を告げ、其の理由として、
(一)倫理教授は右処分の主因にして、他の設備等の為に非ること。
(二)教科書は国体上軽視す可からざる不都合事にして、卒業生が中学校師範学校に及ぼす影響の容易ならざること。
(三)該科教師が不都合なる考を有し居ること。

等を告げ、倫理科主任教師の引責辞任は当然なりと語つた。

十二月十八日、認可取消の命令は府庁区役所を経て哲学館に到着した。

私立哲学館主 文学博士 井上円了
其館教育部第一科及第二科卒業生ニ対シ明治三十二年文部省令第二十五号第一条取扱ヲ与フルノ件ハ自今取消ス
明治三十五年十二月十三日  文部大臣 理学博士 男爵 菊池大麓 — 『東洋大学創立五十年史』87-88ページ

日英関係の悪化を恐れて廃校勧告を取り消した…とは書かれていない。

大学令による東洋大学の昇格が遅れたのは哲学館事件のせいではない 編集

過去ページにこのような記述があった。

この後、哲学館は東洋大学となり、1928年昭和3年)に大学令1919年大正8年)施行)による大学となるが、申請をしたにもかかわらず他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、早稲田大学、國學院大學などは1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと当時の新聞は論説を書いている。また、公文書の開示結果、1920年(大正9年)に既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在では東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。 — 2017年9月13日 (水) 10:55版

これも捏造である。『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』ではこう書かれている。

東洋大学が大学昇格を実現したのは、昭和3(1928)年であり、大学令の施行から9年を経過していたが、この昇格が遅れた最大の理由は、供託金を調達することができなかったためであった。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』649ページ

また、大正12年の紛擾事件(境野事件)も影響した。

事件勃発後は校友会も二派に分かれて対立し、また教授側と協力して大学昇格運動をおこなってきた昇格基金部も教授委員の脱退によりほとんど解体状態となり、昇格運動は一頓挫するに至った。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』673ページ

そもそも東洋大学は昭和2年の時点でも大学昇格の基準を満たしていなかった。

昭和2年1月19日、財団理事中島徳蔵名による文部大臣岡田良平宛の大学設立の認可申請書(『昭和二年 学務課 私立学校 冊ノ二〇一』東京都公文書館所蔵)が小石川区役所を経て、東京府庁へ進達された。(中略)しかし、この申請書は差戻となった。その理由については『東洋大学新聞』第16号(昭和2年4月20日)に「提出した書類に不備な点があったので、急遽該書類再提出」することになったと述べられているだけで、具体的にはわからない。しかしこの差戻後、大学当局は新たに昇格部を設けて積極的な寄附金募集運動を展開することから、基本金の供託方法が問題となったものと考えられる。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』988ページ
大学令による大学としてその設立を認可されるためには、基本財産の国庫への供託という財政面での条件を満たすほかに諸施設の整備もまた課題の一つであった。すなわち、大学として十分な教授および研究ができるだけの施設を整えていることが設立の条件とされたのである。東洋大学の場合はこの条件を満たすため、まず第一期工事として昭和2年以降校舎の建築にとりかかり、ついで第二期工事として図書館(図書類の充実も含む)の建築に着手し、最後に第三期工事として講堂の建築をおこなって施設面の充実をはかっていった。新校舎は昭和3(1928)年7月、図書館は昭和4年6月にそれぞれ竣工したが、講堂は昭和8(1933)年3月になって、ようやく建築の基礎工事に着手し同年12月にその竣工をみたのであり、施設面での昇格条件を充足するためにはかなりの年月を要した。 — 『東洋大学百年史 通史編Ⅰ』1037ページ

--Netsuaba会話2017年10月10日 (火) 01:20 (UTC)返信

大正後期の東洋大学 編集

東洋大学の乱闘 昇格運動資金の事で

七日午後三時同校講堂に於て同窓会を催し、出席者二百余名あつたが、 その席上同大学昇格問題に就て運動資金募集の決議をするや、 之れに反対の学生側から意見が出て議論続出、終に大乱闘が起り、 募集派の学生委員岡本某は袋叩きとなつて顔面を殴打された。 この騒ぎに学校側は狼狽し、教職員組付いて漸く取鎮めたら

問題は更に一転して曩の紛擾を繰返すべき形勢にあると。 — 『東京朝日新聞』大正13年10月8日
  • 大正後期の東洋大学は内紛続きで、昇格運動どころではなかった。

開示された公文書 編集

東洋大学設立に関する通牒(昭和3年5月1日)
辰学第五三七号
東京府知事[印]
東洋大学設立者殿
東洋大学設立ニ関スル件
本年一月二十日付ヲ以テ申請相成候標記ノ件ニ関シテハ左記条件ヲ履行スルモノトシテ認可相成リタル趣キニ付篤ト御承知相成度此段及通牒候也
                記
一、基本財産分割供託及校舎建築設備図書購入等既定計画ヲ違[遺]漏ナク遂行スルコト — 『認可書等綴 大学 自明治四十年四月至昭和五十年三月』東洋大学企画室所蔵
  • 東洋大学の昇格要件は整っていなかったが、いわば見切り発車のような形で認可された。
  • 供託金の納付、新校舎建設、図書購入などの高いハードルをクリアする必要があった。
  • 哲学館事件云々の話はどこにも記されていない。--Netsuaba会話2017年10月11日 (水) 03:58 (UTC)返信

『小説東京帝国大学』の扱いは慎重に 編集

松本清張の『小説東京帝国大学』はあくまでも史実を元にしたフィクションであり、登場人物名も一部改変されている(例:加藤三雄→工藤雄三)。小説の記述をそのまま編集に利用するのは問題が多いので、あくまでも参考程度にしてください。--Oribuster会話2017年10月17日 (火) 00:34 (UTC) 返信

利用者:Oribuster会話 / 投稿記録 / 記録利用者:Netsuaba会話 / 投稿記録 / 記録両アカウントは多重アカウントの不適切な使用によりブロック。斜線対応。仮に参考にしたい方がおられれば過去の版を辿ってください。--Aiwokusai会話2017年10月22日 (日) 07:18 (UTC)返信

ページ「哲学館事件」に戻る。