注釈出典の記載方法がわかりませんので、ノートにて失礼します。 下記の内容をご覧頂きまして、是非のご判断をお願い致します。

大久保忠勝の生涯記事の”要出典”部分は、『形原遺事』 形原松平家重臣松平敏 撰 kら引用しております。 本書は巻1~巻3を1冊に松平敏が編集したもので、基は丹波亀山藩家老、松平貞幹(通称帯刀、号芝陽)が子孫のために書き留めたしたものとされている。 本書凡例として以下の記載がある。(原文を損なわない程度に書き直してあります) 凡例 一此の書の第一巻には形原家の源流及び六世之事業の大綂(統)を略記する。 世に傅わる処の諸書の多くは神祖創業の始めに起こり、其の前の事を紀する事は踈である。 故に文安年間に形原に居城以後、寶徳・享徳・康正・長禄・寛政・文正・應仁・文明・長享・延徳・明應・文亀・永正・大永・享禄・天文に至り、凡そ一百年の間の事どもは考究すべき書もなく、且、兵華(はなやか)の世なれば、先世(せんせい・先祖)之傅録もなし。 故に其の事蹟の如きは大いに略して載せる。 中巻・下巻は天文の季より起こり慶長に至るまでの三世之軍功を紀す。 想うに當時は馳驅周旋(ちくしゅうせん・?)の間で何かの翅(はね・羽)もかくの如きのみであろう。 只、功績の家録に傅わる処に并(併)せて、野史・口碑の存ずる処を聞見の及ぶ所は悉く此れを考察し、剛く裁年(年を定める)を經(経)て輯録(収録)し畢(終)りぬ。 然りと雖、崴(歳)旧事(きゅうじ・古い事柄)は往くまゝで微しがたきものも是ありと雖、今録せざる時は事実、或は湮滅(消滅)して、後世に此れを傅える事がならん故に姑(とりあえず)く録で以って後で正すを俟(待つ)つ。 一正徳間(年間)に形原の家譜は已に成る。其の書は實に正典(公認された)だから傅説と雖、載せていないものもある。 或は其の嫌疑があるものは一切これを除くが、今此の書は其の詳説及び其の遺事を拾い集めて録するので嫌疑と雖、或は避けられないものもある。 初巻之如きは已に系譜に詳にして重複に似たりと雖、今此れを紀さなければ其の綂畧(統累)を分かつ事が出来ない故に載せるなり。 一家譜に載せる所の功績と今此の書に紀する所と時世及び事蹟は相い牴牾(ていご・両者が食違う事)するものもあると雖、其の年紀及び諸書を諬査(けいさ・稽査・考え調べる事)して其の多い方に従って是を収録する。 然りと雖、定説たる事は知り難し。 一紋章之説は永禄年の大樹寺合戦の条の下に詳なり。 此の説は家譜と異なると雖、傅説は紛々として何れが是なる事か定め難し。 厭離穢土之御旗の文の説を以って考えれば、今紀する処の説は是に近い。 目黒の祐天寺之記録及び開運録等には増上寺中興の開山、観智国師が「利即是の文を書いた由を記せり」と雖、小牧の役には已に此の旗を用いた事が明らかなので、其の傅來の旗は後年に観智がまた此れを書いたのか。 形原の光忠寺の霊牌に丁字の紋章が■(画)かれたるを以って考え見れば先世(先祖)の紋章は丁字たる事は顕然なり。 一草昧(そうまい・世の中が未だ荒れて人知が判らないこと)の諸戦で豪傑は雲の如く起き、功績を持って群を抜く者のは枚挙がない。 今、此の書には一家の事実を紀するので、あずかる(関係ない)如きは此れを略紀する。其の他は載せるに遑(いとま・暇)あらる(在り得る)。 一考▲する処の諸書は大源記・風土記・三国志・松平記・御年編年集・成東遷基業等で是等を記すのはいとまがない。 凡て世に流敷(るふ)する処の書は悉く参考に備えずと云ふ事はない。 只、安祥の年譜の如きは其の書を見る事が出来ず。人のその説を譜記したのを聞くのみで惜しいとおもう。 今、考える所の諸書は恐らく是は皆な野史なので年記及び事実書き毎に相違うものが多かった。 然れども、秘閣(ひかく・文書を秘蔵しておく倉庫)の正史を見て、其の非を正にたがわず是故に今也(や)其の多きものと且、其の事理(じり・事柄とその道理)の可なる者に従って是を折衷する。 一名字・官穪(稱・称)は一人にしても前後が一つに為らないものもありと雖、其の改穪する年月を考える事は出来ない。 姑(とりあえず)其の旧に仍って(したがって)是を載せて且、其の名字に異説があるものは其の多きに従う。而已(已にそうであるから) (此の項で■は「丙に凵」の文字で画の異体字・▲は「宀(かんむり)に敫」の文字)

以上、松平義継

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