ノート:平高望

最新のコメント:7 年前 | トピック:コメント | 投稿者:Æskja

質問 編集

見出しを追加しました。--Æskja会話2016年12月4日 (日) 11:28 (UTC)返信

ありゃ?桓武から5代目じゃなかったでしたっけ? --以上の署名のないコメントは、60.56.178.62会話/Whois)さんが 2006年1月26日 (木) 23:52 (UTC) に投稿したものです(Æskja会話)による付記)。返信


分家系ってどこからですか?ちなみに垣屋は確か平から7代ですよね? --以上の署名のないコメントは、60.56.178.62会話/Whois)さんが 2006年1月27日 (金) 00:10 (UTC) に投稿したものです(Æskja会話)による付記)。返信

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見出しを追加しました。--Æskja会話2016年12月4日 (日) 11:28 (UTC)返信

元皇族の血統を利用したのも事実かも知れませんが、そのような後ろ向きな考えではなく、権威に頼らない前向きな態度と捉えた方が良いと思います。--59.85.154.99 2009年5月2日 (土) 05:16 (UTC)返信

軍事貴族#軍事貴族の成立には「この時期に群盗追討で名を馳せたのが、平高望、…… ら、没落した下級貴族である。」とあり、また、承平天慶の乱#平氏一族の私闘には「高望王は平姓を賜って臣籍に下り、都では将来への展望も無いため、上総介となり関東に下った。つまり、京の貴族社会から脱落しかけていた状況を、当時多発していた田堵負名、つまり地方富豪層の反受領武装闘争の鎮圧の任に当たり、武功を朝廷に認定させることによって失地回復を図った ……」となっています。この時代は、例えば悠仁親王は、成長した暁には没落した下級貴族になるべき時代であって、実際にはそうだったのかも知れませんが、そしてただ事実を書いただけだと仰るのかもしれませんが、疑問を呈しておかないとそれが当然と受け止められるような気もしますし、勘ぐるとその錯覚を狙っているようにも思えます。少なくとも犬や猫ではないのですから、血統証付きが良いのだ、という書き方には反感を覚えます。なお、平良将は下総国佐倉に所領を持っていたという説はなく、良将の所領の多くが伯父の国香良兼に横領されてしまっていたというのは今昔物語集の話であり信憑性はありません。争いの原因は将門記によれば源扶ら兄弟が待ち伏せ攻撃をしたことにあるのであって、扶ら兄弟が何を考えて待ち伏せ攻撃をしたのかということは資料が無い以上判らないのが当然であり、史実がどうであったかという観点からすれは判らなくとも困ることはありません(勿論小説の題材にするためには勇ましい方が良いのでしょうが)。

当方 IP User でもありますし、どうしろと申し上げる立場ではないのですが、良心があるなら見て見ぬふりは止めるべきたと思います。--59.85.133.10 2009年6月6日 (土) 02:41 (UTC)返信

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