ノート:御土居

最新のコメント:10 年前 | トピック:「洛中」とは左京に限って使われた言葉か | 投稿者:松ヶ崎学人

「洛中」について 編集

「平安京の京域」を指して「洛中」と言うかどうか 編集

平安京においては京域を限る一条大路、九条大路、東西の京極大路に囲まれた範囲を「洛中」、その周辺を「洛外」と称した。時代を経て京域が変化して必ずしもこの定義が厳密に通用したとは言えないが、御土居によって新たに洛中洛外が定められたとしても市民の間にその定義が通用したとは考えられない。御土居に囲まれていても北部や南部では農村地帯が広がっていたし、西部では金閣寺、仁和寺などが御土居の外に位置した(「建造の目的」3を参照)。 (利用者:松ヶ崎学人さんが、[1]の版で2013年7月26日 (金) 04:08(UTC)に記載)

に対して、私(うら)から、

朱雀大路より東(左京)は「洛陽」で「洛」ですが、西(右京)は「長安」であり、明らかに異なります。

とコメントしたところ、

(←反論)「洛陽」「長安」の呼び名は中国の首都に倣っての雅称にすぎませんでした。例えば「洛中洛外図」は、右京左京を問わず市街地を「洛中」その周辺を「洛外」と称しています。京都に赴くことは「上洛」と言いました。また京都を示す言葉として「京洛」というのはあっても「京長」「京安」はありませんでした。「洛中」は一般的ですが、「長中」「安中」という言葉は聞いたことがありません。鎌倉期末頃から「京中・京外」に代わって多用されるのが「洛中・洛外」であり、左京を指した「洛陽」が語源であっても、この頃「洛」とは左京右京を問わず「京都」を指す言葉でした。 (利用者:松ヶ崎学人さんが、[2]の版で2013年7月27日 (土) 07:49(UTC)に記載)

と返答いただきました。

さて、私のコメントは、利用者:松ヶ崎学人さんが記載した『平安京においては京域を限る一条大路、九条大路、東西の京極大路に囲まれた範囲を「洛中」、その周辺を「洛外」と称した。』という内容についてであり、平安京域が明示されていた時代は、朱雀大路を境に左京が洛陽で右京が長安と称されていたものの、右京が衰微したことから、結果的に都(みやこ)の中心がかつての左京に位置するようになり、それゆえ、都の区域を指して「洛中」と呼ばれるようになった(京都#京都と洛陽も参照してください。)という事実と異なることに対するものです。--うら会話2013年7月27日 (土) 15:54 (UTC)返信

(追記)論点を明らかにするために、タイトルをつけました。--うら会話2013年7月27日 (土) 16:08 (UTC)返信

御土居は洛中外の境か? 編集

なお、私も「御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼んだ」というのは、少々乱暴すぎる言い方であると思います。いわゆる洛中洛外碑の北端は、概ね現在の鞍馬口通に置かれていたようですので。--うら会話2013年7月27日 (土) 16:08 (UTC)返信

「洛中」とは左京に限って使われた言葉か 編集

左京の異称が「洛陽」で右京の異称が「長安」であることは指摘されるまでもなく承知しています。でもこれが公称であった事実は認められません。おそらく詩文を書く際にでも使われた中国風雅称であったのでしょう。

「洛」という語が「洛陽」を由来とすることはすでに「語源」と記して同意しているところです。左京を指す洛陽が「洛」の語源となったのです。しかしその「洛」に右京が含まれていなかったとは言えません。衰退した右京を指す特定の語はなかったから「京中」という語に代わって登場した「洛中」という語の中に右京も含まれていたと考えるべきです。

拾遺都名所図会に引用される細川幽斎の言葉に真実があります。「されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし」。その他の部分に明らかに誤謬があるものの(例えば油小路を京の中心軸としている点など)、当時の有識者の中には「洛中洛外の境はいささかも違うことなし」という認識があったということであり、その「違うことのない」「境」とは何かと言えば東西京極大路、一条大路、九条大路の他にあり得ません。(決して「朱雀大路より東」なんてことはなかったはずです。なぜならこれだと大内裏跡は二つに分けないとどちらにも属さないからです。)当時の一般市民の中でこの「平安京域」が意識されることはなかったとは思いますが、公家や学者に改めて「洛中とはなにか」と問えば「平安京域のことである」と答えたであろうし、そう答えざるを得なかったでしょう。もちろん「長安」「洛陽」のことは承知の上で。(この辺のことを書いた室町時代の文書を探索してみます)

いずれにしろ「御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼んだ」とするウィキペディアの記述は問題でしょう。秀吉以前に、京都市民の間で「洛中洛外」の語は使われていたし、彼らなりにおぼろげながらその範囲についての認識があったのは事実です。秀吉が御土居を造った時に「洛中・洛外」が初めて定められたと解せらるこの一文は問題です。また秀吉により新たに「洛中・洛外」の範囲が定められたとしてもそれがその時代の人々に受け入れられたとは認められません。「呼んだ」のがだれなのか。主語も不明です。事実はおそらく拾遺都名所図会に述べられるように「洛中洛外の境を明らかにしようとした」ということであって「呼んだ」とするのは問題です。

うら/さんの最初のコメントが乱暴で、あたかも「洛陽」「長安」の知識をひけらかすだけのように思えたので、「そんなことは承知している!」と洛中の定義を復活させたのです。ここでの問題は「洛中洛外」ではなく「御土居」です。御土居の記述をより正確にすることが当面の課題です。

でも「洛中」が、この語がつかわれて以来京都全体(その範囲は難しいところですが)を示す語であったことは間違いありませんし、「されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし」という「境」が京域を限る4本の大路であったとの確信は聊かも揺らぎません。                         --松ヶ崎学人会話2013年7月28日 (日) 01:45 (UTC)返信

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