ノート:愛宕念仏寺

最新のコメント:17 年前 | 投稿者:Zenzai-Doji

「縁起」書き変え文案 編集

約8世紀中頃、稱徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建。平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたらしい。すでに荒れ寺となっていた上に、近くを流れる鴨川の洪水で堂宇を流失。廃寺同然の寺を、醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興した。千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗の末寺となった。 いったんは七堂伽藍を備えたものの、興廃を繰り返した。本堂と仁王門のみになっていたのを、1922年現在地に移築。その後も復興には遠く、再び荒れ寺となった。1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝も当初、引き受けるのをためらったという。それを清水寺貫首・大西良慶の「それだけ傷んでいれば、草一本むしりとっても、石一つ動かしても、お前は、復興者、復興者やといってもらえる。わしも手伝ってやるから」の激励で復興に取りかかった。以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備した。 素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まったのは、1971年。当初は五百羅漢が目標だったが、1991年には千二百羅漢となった。

  • 資料は『仏像は語る』(西村公朝、新潮社1993年第8刷)。年号等は同寺HPで補足。
  • 新しい名前の由来のところは資料では「当時、千観は念仏を唱えていましたので、寺名を愛宕念仏寺と改名し…」
  • 創建当初の宗派は本でもHPでも確認できず。
  • 見出しは「縁起」から「歴史」に改める--Zenzai-Doji 2007年1月17日 (水) 13:51 (UTC)返信
ノートでのご提案に感謝いたします。大筋で異論ありません。文章の繋がりなどの細かいところは本文で修正していけばよいのではないでしょうか。--663highland 2007年1月17日 (水) 14:03 (UTC)返信
補足。発言内容の引用は著作権上最も微妙なところなのですが、実際に話したことが変わってしまうのは問題がある…という方を重く見て、「それだけ傷んでいれば~いってもらえる」は資料のそのままです。--Zenzai-Doji 2007年1月17日 (水) 15:32 (UTC)返信
発言内容引用の件。Wikipedia:出典を明記するに指針があったので、厳密に適用することにしました。創建当初の宗派に関しては、廃寺同然の時代もあったので、お寺でも資料が失われている可能性も考えました。が、そもそも「宗派」がいつの時代から意識されたのかということからも、お詳しい方のご判断を待ちます--Zenzai-Doji 2007年1月18日 (木) 22:50 (UTC)返信
五百羅漢開始は昭和56年=1981年でした。訂正しました。--Zenzai-Doji 2007年1月19日 (金) 08:08 (UTC)返信
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