ノート:日本人論/過去の議論1、2004年7月14日から2006年6月4日まで。

最新のコメント:18 年前 | トピック:日本人論と日本人論論 | 投稿者:Hermeneus

ノート

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加筆したいのですが記憶がおぼろげなのと、今ある文章が比較的密に織り上げられている感じなので何をどう変えればいいかちょっとよくわかりませんでした。とりあえずどなたかの参考になればとこちらにメモしておきます。

  • 本居宣長のからごころ論のように日本文化を中国文化との比較で論じたものも時代を遡ると重要な位置を占めているように思います。漢字をめぐる政策のように国語についての議論では、日本と西欧、日本と中国という比較はいずれも今でも重要な枠組みのようにも思えますが。
  • 全体的なトレンドとして、比較は欧米が対象、特にアメリカの比較や西欧文明との比較が多い、という印象があるのですがいかがでしょうか。
  • 他に和辻哲郎『日本精神史研究』とか、唐木順三『日本人の心の歴史』辺りが日本文化論としてはかなりあちこちで言及されていたのを見た覚えがあるのですが、どうでしょうか。(どういう文脈で調べたのか覚えてないので自信がないのですが。)
  • 精神分析関連にもいろいろあったはずですが、岸田秀とか、土居健郎の甘えの構造とかがすぐ思いつくところでしょうか。
  • 東洋と西洋という対比(つまり日本というくくりを使わない)の文化論もあり、日本「人」論ではなくて文化や経済や政治に関する論もあるわけですが(でも同時にそこには日本人に特有のメンタリティーについての視点が含まれていることも多い)、そういうものも一応言及してもいいのかな、とも思いました。一時期の日本型経営・経済優越論とか、大戦期の近代の超克論のようなものを想定しているんですが。ボーゲルの書が今の版には含まれていますが、こういうのはいいんじゃないかな、と思います。
  • 日本人論と似た様なことはいろいろな文化圏でやっていると思うのですが、例えばロシア文学なんかだとロシア的なるものの特殊性(西洋と東洋の混合であるとか)を扱うことがあるとか、アメリカ史にはアメリカ特異論みたいなものがあったりとか。現在の版には、むしろ日本人論がヨーロッパ人がお隣さん同士を比べるのとは違う、というようなことが書いてあって、それとどうつなぐか迷ったせいもあって書きませんでした。
  • 繰り返し登場する論点というのがあるように見えるので、それを大雑把に紹介するのもいいかと思います。ただ、これをやるには僕は全貌が掴めていなさすぎる感じなので、素案程度のものをこちらに。(余りよさそうでなければ無視して下さい ^^;)
    • 個人主義的というよりも、ムラ社会的である
    • 実力主義や競争に基づく社会というよりも知人間のコネで動く社会である
    • いろいろなものを輸入し、必ずしも独自性や一貫性にこだわらない(雑種文化論というのを加藤秀俊が書いていたように思います。)
    • 「主体」が確立していない。
    • 単一の真理や神を信じるよりも多数の真理や神を肯定してしまう傾向にある。

Tomos 2004年7月14日 (水) 09:50 (UTC)

敷居の高いテーマで手を出しかねているのですが、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」の様な美意識に関する記述があったら良いなと思っています。Azu 2004年7月14日 (水) 10:19 (UTC)

TomosさんとAzuさんの指摘にサンクス。2人の視点を取り込んで、問題点が分かりやすく、誰でも編集に参加しやすいような工夫をしてみました。Mishika 2004年7月15日 (木) 04:52 (UTC)

「ラストサムライ」他の映画などは、「日本人を描いている作品」ではあっても、日本人論と言うほどのものではないでしょう。日本人を描いているだけの作品なら、それこそ星の数ほど存在するわけで。Hermeneus 2005年3月7日 (月) 09:47 (UTC)

日本人論と日本人論論

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2005年11月17日 (木) 14:31 Hermeneusさんのご意見へ: 2005年11月10日 (木) 12:03 の版2005年11月17日 (木) 14:17 の版の変更ですが、“「日本人(を論ずる)」論を紹介する記述”と“「日本人論(を論ずる)」論を紹介する記述”は違うもの、と感じたからなのですが、なるほどです。おっしゃるとおりかもしれません。Uryah 2005年11月17日 (木) 14:50 (UTC) Uryah 2005年11月17日 (木) 14:55 (UTC)

「日本人論」を論ずる論は多いので、大胆な編集をしてみました。2006年5月12日 (金) 16:39 の版 --> 2006年5月12日 (金) 17:02 の版Uryah 2006年5月12日 (金) 17:14 (UTC)、Uryah 2006年5月12日 (金) 17:14 (UTC)

改悪にもほどがある。中学生の作文じゃあるまいし。大胆な編集をするなら、ウィキペディアについても日本人論についても少しは勉強してからにしてください。--61.202.37.197 2006年5月12日 (金) 23:08 (UTC)

<IP:211.115.107.157会話 / 投稿記録氏 2006年5月12日 (金) 23:05>により「revert」 され、<IP:61.202.37.197会話 / 投稿記録氏 2006年5月12日 (金) 23:08 (UTC)>により上記コメントをいただきました。この振る舞い方は印象的です。一度、戻してみます。何が起こるかな?Uryah 2006年5月13日 (土) 00:10 (UTC)

/2006年5月12日(金)(UTC)に起こった出来事

「日本人を論ずる」論と「日本人を論ずる論」を論ずる論は、別立てにするのがよいと考えます。下記に、提案します。

/2006年5月13日(土)(UTC)の提案

Uryah 2006年5月13日 (土) 01:14 (UTC)

  • 「大胆な編集」というから、何事かと思えば、単に順番を入れ替えているだけでは? 百科事典ですから、数多くの日本人論がどのような視点から書かれてきたのか?、をまず述べるのもまあ悪くない気はします(統計的なデータの羅列はちょっとうっとおしいですけど)。 ただ順番を入れ替えるだけの話なら、そんなに固執することはないのでは?
「日本人論論」というのは何とも座りの悪い言葉ですね(「日本人論」研究とか?)。 --忠太 2006年5月13日 (土) 12:08 (UTC)
  • 「日本人論論」なる節は不要です。日本人論の項目は第一に日本人論の解説を書く場所であり、日本人論論(? 日本人論に関する研究)はもっぱらそれを書く際に参照する資料として使用されるものです。日本人論論自体を解説する節を設けるにしても、既存の普通に日本人論を解説している箇所を改変すべき故はありません。現在「日本人論の特徴」「日本人論の出版数・分類」の各節にある文章は、日本人論論の著作を参照しつつ日本人論を解説しているものであって、日本人論論自体を解説するために書かれたものではありません。あと、参考文献の節は当項目の解説を書くのに際し実際に参照した文献を挙げる場所なのですから、その他の雑多な日本人論、日本人論論著作リストとごちゃ混ぜにするのはまずいでしょう。Hermeneus (user / talk) 2006年5月13日 (土) 13:02 (UTC)
  • なるほど。まず忠太さんへ。そう、構成を変えている(だけな)のですが、それとは別に、それよりいくつか前から、数行情報を加えるだけで、コメントから忠太さんがひどく立腹していると感じたので、これで数十行入れ換えたら嵐でも起きるかな?と どきどき をそのままコメントに書いてみました。「日本人論論」という言葉は「よろしくない」ですか?「日本人論」研究という言葉がいいですか?
つぎにHermeneusさんへ、「日本人論論」(「日本人論」研究)の本がたくさん出版されているので、Hermeneusさんが本記事「日本人論」で“日本人論の特徴”として記述された 杉本とマオア(1982)による解説が代表的なものか私はわからないので、“それらのうちの1つ”という扱いがいいのかな?と思いました。いかがでしょうか?
Uryah 2006年5月13日 (土) 22:38 (UTC) 自発言の訂正。Uryah 2006年5月14日 (日) 01:15 (UTC)
杉本とマオアの著作は主要な日本人論研究の一つです。Hermeneus (user / talk) 2006年5月13日 (土) 23:15 (UTC)
「杉本とマオアの著作は主要な日本人論研究の一つ」に全く同意出来ます。ただ、それがすなわち「普通に日本人論を解説」しているもので、他の日本人論研究が「その他の雑多な日本人論」という把握には私は同意出来ません。かつ、多数ある日本人論研究がみな同様の把握をしていると、(私は)確認出来ません。ので、(主要な)日本人論研究の1つとして杉本とマオアの著作を取り上げ、これを記述・紹介するのがNPOVであると考えます。Uryah 2006年5月13日 (土) 23:32 (UTC)
私は日本人論を研究する主要な著作の一つを引いて日本人論の解説を書いただけです。これに対し批判的な主張をしている日本人論研究が他にあるのであれば、それも参照して反論を加筆すれば済むことです。いずれにしろ、百科事典は第一に解説を書くものであり、データベースやガイドブックではありません(WP:NOT)。むやみやたらに著作を羅列するだけの記述はNPOV以前に百科事典的ではありません。そういう、当記事の解説を執筆するのに実際に参照されていない、ただ書名が無造作に羅列されているだけの記述を「その他の雑多な日本人論」と呼んだのであって、別に杉本とマオアの著作以外が全てとるに足らないものだと言ってるのではありません。Hermeneus (user / talk) 2006年5月13日 (土) 23:42 (UTC)
まず、私はHermeneusさんが杉本とマオアの著作を引いて書いた日本人論の研究の紹介を責めているつもりはありません(あるいは問題だと言っているつもりはありません)。ただ、百科事典は第一に論評を書くものではありません。日本人論研究は日本人論についての論評・評論・見解という意味が大きいので、こういう観点で書かれた日本人論がある、たとえば年代を追って、そしてこれらの日本人論をこう評価する研究がある、たとえば年代を追って、とその事実を記述・紹介するのが、百科事典だと考えます。Uryah 2006年5月14日 (日) 00:02 (UTC)
プロの研究者の著作に記されている「解説」をろくなソースも何一つ提示せずに「論評・評論・見解」だなどと不当に見下しているのは貴方個人の観点であり、貴方自身が無名の素人であるなら、そのような意見は考慮するに値しません。また、「その事実を記述・紹介」するのは結構なことですが、その際にはちゃんと信頼のおける文献なりに依拠しつつ行わなければoriginal researchに相当し、百科事典に掲載するに値しません。単に主要な日本人論の著作を分類しリストアップするだけであっても、いったい誰がその選定をしているのか不明なら無用の長物です。Hermeneus (user / talk) 2006年5月14日 (日) 00:23 (UTC)
まず、たとえば『日本人論の方程式』『日本人論に関する12章』『「日本人論」の中の日本人』と題する著作を「日本人論についての論評・評論・見解」だと捉えるのは、当該著作を見下しているつもりでも、「論評・評論・見解」という言葉を見下しているのでもありません。つぎに、ではHermeneusさんが詳しく紹介された杉本とマオアの著作は、信頼のおける文献なりに、これが日本人論についての定説であるとリストされていたのでこれを用いた、ということでしょうか?そうであれば、そのソースを提示ください。そうであれば、とりあえず現在の形に私は同意します。提案文は提案として、提示しておくに留めます。そうでないのであれば、Hermeneusさんさんも私と同じ無名の素人です。「いったい誰がその選定をしているのか不明なら無用の長物です」。Uryah 2006年5月14日 (日) 00:42 (UTC)
当記事で名前が挙げられている杉本、青木、Dale、ベフ、吉野らは、いずれも日本人論をイデオロギーやナショナリズムとの関連で社会学・人類学的アプローチから研究しており、それを単なる読書感想文的な論評であるかのように見下す根拠が不明です。杉本とマオアの著作はYoshino Kosaku (吉野耕作), Cultural Nationalism in Contemporary Japan: A Sociological Enquiry (ISBN 0415120845)において日本人論に関する主要な先行研究の一つとして取り上げられています。Hermeneus (user / talk) 2006年5月14日 (日) 00:49 (UTC)
まず、再度、何かを見下しているつもりはありません。さて、なるほど、では数行だけ、Cultural Nationalism in Contemporary Japan: A Sociological Enquiry に「主要な先行研究の一つとして取り上げ」られている文面をご紹介いただけますか?もう1つ、その論文には、他に何が日本人論研究として挙げられていますか?Uryah 2006年5月14日 (日) 01:04 (UTC) すみません、もう1点、Cultural Nationalism と題したその研究は、日本人論一般についての研究でしょうか?ナショナリズムという観点からの研究報告でしょうか?Uryah 2006年5月14日 (日) 01:09 (UTC)
"Sugimoto Yoshio and Ross Mouer (e.g. 1982, 1986) are two of the most conspicuous critics of the nihonjinron. The two sociologists devote themselves to showing the serious weakness of the nihonjinron as a social theory on methodological, empirical and ideological grounds. In particular, they point out the lack of rigorous methodology in the nihonjinron or their heavy reliance on convenient examples in the form of personal experiences and everyday episodes in support of one particular type of social theory, that is, the 'consensus model' or 'group model' of Japanese society, and indicate in turn the importance of the 'conflict model,' which emphasizes conflicts between different groups in Japanese society. The ideological implication of the conservative bias criticized by Sugimoto and Mouer is that it serves the interestes of the ruling establishment in Japan. These themes are also dealt with by other scholars, albeit with differing emphasis" (pp. 3-4). この後にDale, Kawamura Nozomu, Befu, Aokiらの研究にも言及している。Cultural Nationalism in Contemporary Japanは日本人論を社会学的に研究するものです。自分では何ひとつ自分の主張を裏付けるソースを示さずに難癖ばかりつけるのはいい加減勘弁ねがいます。Hermeneus (user / talk) 2006年5月14日 (日) 01:22 (UTC)

(インテンド戻します)難癖をつけているつもりはありません。たとえば築島謙三『「日本人論」の中の日本人』、大久保喬樹『日本文化論の系譜-「武士道」から「『甘え』の構造」まで』、南博『日本人論-明治から今日まで』は挙げられていないのですね?Uryah 2006年5月14日 (日) 01:31 (UTC)

挙げられていません。Hermeneus (user / talk) 2006年5月14日 (日) 01:37 (UTC)
了解しました。では、2006年5月14日 (日) 00:42 (UTC) で申しましたとおり、とりあえず現在の形に私は同意します。提案文は提案として、提示しておくに留めます。Uryah 2006年5月14日 (日) 01:47 (UTC)

ノート:日本人論/2006年5月13日(土)(UTC)の提案の観点

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提案の観点を、以下に提示しておきます。

(1) 日本人論と日本人論研究(日本人論論)を分ける 観点。

  • 日本人論は - 日本人について論ずる著作・研究である。
  • 日本人研究(日本人論論)は - 「日本人について論ずる著作・研究」を論ずる・研究する・批評する著作・評論である。
    • 2006年5月28日 (日) 11:58 (UTC)までにおいては、「それら」が「日本人研究」であるという理解に異論はありません(たとえば吉野耕作氏の研究「Cultural Nationalism in Contemporary Japan: A Sociological Enquiry」においても、杉本良夫氏とマオア氏を「critics of the nihonjinron」と把握されている)。critic:批評家、評論家。

(2) 杉本良夫氏とマオア氏による日本人論研究を、日本人論研究の中の1つと並列して記述する 観点。

  • 2006年5月13日(土)(UTC)時点において(また2006年5月28日 (日) 11:58 (UTC)時点までにおいて)、杉本良夫氏とマオア氏による日本人論研究が、世に多く出されている日本人論研究を最も代表している著作・研究であるとする判断・評価のソースは提示されていないため。
    • なお、ナショナリズム論を専門とする吉野耕作氏による見解は「Sugimoto Yoshio and Ross Mouer (e.g. 1982, 1986) are two of the most conspicuous critics of the nihonjinron.」と示されている(タイトル「Cultural Nationalism in Contemporary Japan: A Sociological Enquiry」)。本記事本文にも、「文化人類学社会学的研究としての日本人論もある一方で、民族主義的心情に基づく日本人自身による自国、自民族の特殊性を殊更強調するように書いた論考も数多く出版されている。そのため、Peter N. Dale(1986)、ハルミ・ベフ(1987)、 吉野耕作(1992)他、日本人論を文化的ナショナリズムの発露の一形態として批判的に研究する学者もいる」 とその視点・観点が掲示されている(2005年10月15日 (土) 08:25の版より)。
      Uryah 2006年5月28日 (日) 11:58 (UTC)

コメント

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その案には反対します。先にも言いましたように、ウィキペディアは事物の解説を記載する百科事典であって著作一覧をのせるだけのブックガイドではありません。メインの日本人論の解説を「日本人論論」なる意味不明なセクションに入れて端に追いやって、書名を並べただけの(しかも権威のある誰が何を基準に編纂したのか甚だ不明な)リストを真ん中に持ってくるなど全く理解に苦しみます。この記事「日本人論」は、まず第一に日本人論を解説する場所です。日本人論の研究書はその解説を書く際に参照する資料です。主要な日本人論研究書のリストを追加するというのであればまだ分かりますが、メインの日本人論解説を端に追いやるなど承服しかねます。

また、杉本とマオアの見解は今現在の記述でもちゃんと杉本とマオアの見解として掲載されていますので、何の問題もありません。日本人論を解説する当記事内の「日本人論の特徴」のセクションにおいて、日本人論の特徴を解説する論の一つとして、至極妥当に紹介されています。むしろ「杉本良夫とマオアによる日本人論の特徴」だの「青木保による戦後日本人論の変容」だのと論者ごとにセクションを分けるほうがよっぽど意味不明です。何度も言いますが、ウィキペディアは百科事典であり、この記事は日本人論を解説する場所です。日本人論を解説する記事だから、日本人論のいかなる側面を解説しているかによってセクションを「特徴」「分類」「歴史」などに分けているのです。それを論者や書名によるセクション分けに変えたらブックガイドそのものでしょう。Hermeneus (user / talk) 2006年5月28日 (日) 13:14 (UTC)

なるほどです。ボランティアの1人であるHermeneusさんへ、ボランティアの1人であるUryahから、掲示した観点のベースを書いてみます。他の複数の人の意見が付くまで、提案を本文に反映しないので、ゆっくり読んでみてください。
杉本良夫とマオアによる理解は、日本人論についてそういう把握の仕方もあるなと思わせますが、一方、世にあまた在る日本人研究(日本人論論)における理解を代表しているか、世にあまた在る日本人研究(日本人論論)が日本人論を同様に把握しているか、わからないのです。わからないというよりも、それぞれ違っているのではないか?と疑問に思うのです。その疑問が、百科事典で日本人論を定義づけてしまうような解説の仕方(記述の構成)に抵抗を感じさせるのでした。というわけで 2005年11月17日 (木) 14:17 に構成を変え(てみ)ましたが、2005年11月17日 (木) 14:31 に戻され、そのときは腑に落ちたつもりになりました。でも、やっぱり腑に落ちないのです。
>権威のある誰が何を基準に編纂したのか甚だ不明な
何を根拠にした何を解説する記述にしても、ボランティアが寄って集って記述する百科事典 wikipedia では、「社会的に定評のある学者や機関、メディアの発表している解釈や意見」の寄せ集めで紹介していく記述で問題はなく、またそれが各記事の通常の姿だと思います(方向・在り方として)。また、これを変える必要があるとは私は考えられません。寄せ集められた事実・情報を体系的に整理する「社会的に定評のある学者や機関、メディアの発表している解釈や意見」が見つかれば、見つけた wikipedia の執筆者がまたこれを「誰々によれば~」と記述していくわけです。
一方、「wikipedia の執筆者の判断・評価」で寄せ集められた事実・情報を体系的に整理する のは、方向・在り方としては 奨められない、と考えています。記事のありていな体裁として、「特徴」「分類」「歴史」などに分けているほうが読み易く見やすいという点に同感します。ボランティアが寄って集って記述する百科事典 wikipedia でそれが絶対に不可 であれば記事を書くのは相当難しくなる(というより不可能に近い)と思いますし、 絶対に不可 であるとは私は思いません(といいますか、ボランティアの誰かによってその整理に疑問が呈されない限り、まったく問題はない、と考えます)。しかし方向・在り方として、それは「wikipedia の執筆者の判断・評価」による 恣意的な整理 に近づく方向だ(方向ではある)と考えます。Wikipedia:出典を明記する 2006年5月12日 (金) 15:26 の版にあるように、「編集者の間で」「対立が生じる」「記述については」、前者の在り方・方向を守るのが賢明な方法である、と考えるのです。Uryah 2006年5月30日 (火) 12:56 (UTC)
「杉本良夫とマオアによる理解」への批判、あるいはこれと対立する見解が存在するのであれば、それも出典とともに提示すれば済むことです。そういう批判、見解を具体的に何一つ知らないのであれば、いちいち心配するのは杞憂というものです。幾ら大量に文献を漁り綿密に調査したところで全ての事情に精通することは不可能です。日本人論を研究している全ての学者にアンケート調査するわけにもいきません。
「wikipediaの執筆者の判断・評価で寄せ集められた事実・情報を体系的に整理する」が具体的に何を意味するのか不明ですが、Wikipedia編集者が共同で資料・関連研究を探し出して調べ、自ら整理し纏めて解説を書くのがウィキペディアという百科事典なのですから、そういうことを否定したらウィキペディアというプロジェクト自体が成立しません。また、先にも言いましたように書名とその要約を箇条書きするだけでは百科事典ではなくブックガイドです。ブックガイドのように書かれている既成の百科事典など私は知りませんし、ウィキペディアの他の記事でも一覧記事を除きそのような特殊な形式で書かれたものは知りません。大学でもそんなレポート書いて出したら落第でしょう。Hermeneus (user / talk) 2006年5月30日 (火) 13:38 (UTC)
「wikipediaの執筆者の判断・評価で寄せ集められた事実・情報を体系的に整理する」は、「杉本良夫とマオアによる理解(で)百科事典で日本人論を定義づけてしまうような解説の仕方(記述の構成)」のことです。執筆者が記事に関する「社会的に定評のある学者や機関、メディアの発表している解釈や意見」を調査して集め、集められた情報を「誰々によれば~」「誰々によれば~」と整理していくのが「ソースに基づいた調査」で、これを記事として見やすく執筆者が構成していくわけですが、その部分はwikipediaの執筆者にとってまさに醍醐味の部分ですが、他の執筆者の誰かによってその構成や定義づけなどに疑問が投げかけられた場合(あるいは対立が生じた場合)は、これを維持するのは「独自調査」に当たると理解します。「執筆者の間」で疑問や対立が生じない構成は(その間は)、「独自のもの」ではありませんよね?執筆者たちの間でそうやってブラッシュアップ/淘汰されて落ち着いていくのが、“ボランティアが寄って集って記述する百科事典 wikipedia”の記事の姿です(姿だと考えます)。構成して纏めていくこと自体を否定するものではまったくありません。記事の件については、執筆者の1人Uryahは批判は持たないのですが、強く疑問に思うのです。定まった定義は見つからないとwikipediaの執筆者たちの間で目された場合や、記事の構成や定義に疑問や反論が投げかけられた場合では、記事 引きこもり 2006年5月21日 (日) 12:32 の版 が、たとえば良い記述例だと私は考えます。ノート:日本人論/2006年5月13日(土)(UTC)の提案と比べてみてください。Uryah 2006年5月31日 (水) 12:03 (UTC)
そのように情報を羅列するだけの記事では百科事典の体をまったく成しません。百科事典とは事物の概説を書いて提供する書物です。解説の体を成していない、まとまりの無い中途半端な情報の寄せ集めをそのまんま公開する場所ではありません。執筆者がボランティアだろうが素人だろうが何だろうが、百科事典は百科事典であり、百科事典には百科事典的な記事をちゃんと書くのが筋です。
ウィキペディアは第一に百科事典であって、「調査」はその百科事典執筆の際に行う下作業の一つでしかありません。ウィキペディアは共同で事物を調査し情報収集するプロジェクトではありません。「調査」はウィキペディアという百科事典を編纂する為の手段ではあっても目的ではないのです。スタブやノートに記事執筆の為の調査の途中経過を記しておくというのならまだしも、それをまんま百科事典の記事の完成品として提出するなど考えられません。
「独自調査」というのは、百科事典の記事を書く際に参照する資料について言うものであって、百科事典の記事を書くこと自体を指して言うものではありません。ウィキペディア自体はウィキペディア編集者が「独自」に編纂する百科事典であり、それを否定するのはウィキペディアというプロジェクト自体を否定するようなものです。ウィキペディアは言わば「独自百科事典」であり、それが嫌なら権威のある学者によって書かれ社会的に広く認知された媒体で発表されたブリタニカ百科事典などの既成の「独自」ではない百科事典を購入すればいいことです。何処の馬の骨とも分からない人物が資料を選定し情報をまとめ執筆することに不安があろうとも、もともとウィキペディアは斯様な人々が集まって共同で百科事典を編纂するプロジェクトなのですから、そこに疑問を呈じたらウィキペディアの存在意義自体を否定するようなもので元も子もありません。
その引きこもりの記事は、私には書きかけのスタブ、あるいは記事の出来損ないにしか見えません。そのままでは百科事典の記事としては落第点でしょう。そのように情報を無造作に羅列しただけの記事がブリタニカ百科事典などに載っているとは思えません。ウィキペディアは百科事典であり、ブックガイドやliterature review、生のデータを保管するだけのデータベースではないのです。Hermeneus (user / talk) 2006年5月31日 (水) 12:55 (UTC) 12:55, 13:07, 13:47, 14:01 (UTC)
では「スタブ」にしておけばいいのではないでしょうか。定まった解釈が見つからないと目される記事なら、その時点で無理に完成形にする必要はありません。「独自調査」の禁止というのは恣意的な事実の解釈を回避するのがその目的であって、無理に完成形を目指す必要はありません。「『執筆者の間』で疑問や対立が生じない構成は(その間は)、『独自のもの』ではありません」「執筆者たちの間でそうやってブラッシュアップ/淘汰されて落ち着いていくのが、“ボランティアが寄って集って記述する百科事典 wikipedia”の記事の姿です」Uryah 2006年6月1日 (木) 12:49 (UTC)
既に百科事典に掲載する解説文としての最低限の体裁を持ち短いながらも纏まってる記事を、わざわざレイアウト崩して中途半端なスタブもどきの情報羅列に書き換える必要はありません。コンテンツを加筆するならそのまま書き加えて行けば済むことです。また、「独自調査」はウィキペディアに記載する情報自体(或はそのソース)について言うものであって、情報をウィキペディアに記載する行為自体についてまで言うものではありません。ウィキペディアに情報を記載する行為は百科事典を書く行為そのものであり、それを否定するのはウィキペディアという百科事典編纂プロジェクト自体を否定するようなものです。貴方の好きな「source-based research」で言うなら、独自調査とは「primary and/or secondary sources」の部分に関して言うものであり、「collecting and organizing information」における独自性まで否定するものではありません。情報を収集・整理するレベルまで独自性を否定したら、その分野の専門家が実名で執筆に参加するのでもないかぎりウィキペディアという百科事典は永遠に完成しないなどという馬鹿げたことになります。Hermeneus (user / talk) 2006年6月1日 (木) 13:28 (UTC)
独自の調査の英語原文にあるように、「research based on source」の「collecting and organizing information」は強く奨められます。それは百科事典の記述において基本的なことです。「構成して纏めていくこと自体を否定するものではまったくありません」。「strongly encouraged で it is fundamental to writing an encyclopedia であると考えます」。「その部分はwikipediaの執筆者にとってまさに醍醐味の部分です」。が、「他の執筆者の誰かによってその構成や定義づけなどに疑問が投げかけられた場合(あるいは対立が生じた場合)は、これを維持するのは『独自調査』に当たると理解します」「『独自調査』の禁止というのは恣意的な事実の解釈を回避するのがその目的」であると考えます。「定まった定義は見つからないとwikipediaの執筆者たちの間で目された場合や、記事の構成や定義に疑問や反論が投げかけられた場合」は、「『スタブ』にしておけばいいのではないでしょうか」。「体裁」は「持」っているけれども「記事の構成や定義に疑問や反論が投げかけられた場合」は、「無理に完成形を」「維持する」「必要はありません」。体裁と内容では、どちらの優先度が高いかは明白です。1年、2年経って成長・完成していく記事もあります。その精神は、Wikipedia:出典を明記する 2006年5月12日 (金) 15:26 の版の 節 出典を明記する 参照。 Uryah 2006年6月2日 (金) 13:36 (UTC)
杉本なり青木の見解に問題があるというのであれば、その問題点を具体的に指摘し、その問題点を批判する別の学者の研究を続けて紹介すればいいことです。批判にソースの裏付けが無いのであれば、それこそ無名の素人「wikipedia執筆者たち」による「独自」評論であり、そのような難癖は考慮するに値しません。Hermeneus (user / talk) 2006年6月2日 (金) 13:54 (UTC)
難癖をつけているつもりはありません。「記事の件については、執筆者の1人Uryahは批判は持たないのですが、強く疑問に思うのです。定まった定義は見つからないとwikipediaの執筆者たちの間で目された場合や、記事の構成や定義に疑問や反論が投げかけられた場合では、記事 引きこもり 2006年5月21日 (日) 12:32 の版 が、たとえば良い記述例だと私は考えます。ノート:日本人論/2006年5月13日(土)(UTC)の提案と比べてみてください」。
意見交換は平行線のようですね。でも上記までで「提案の観点の説明」はできたことになった、と思うので、また何か意見が付くか、こういう切り口でHermeneusさんに話してみたらどうだろう、という言い回しが思いついたら、また掲示・相談させていただきますね。Uryah 2006年6月4日 (日) 07:14 (UTC) add 2006年6月4日 (日) 09:36 (UTC)
(1)あなたが何に「強い疑問」を持とうとも、ソースの裏付けが無く「独自」評論に相当する限りは、考慮するに値するとは思われません。(2)ウィキペディアは百科事典であり、百科事典には百科事典的レイアウトの記事を書くのが筋である以上、それをわざわざ崩してまで中途半端なスタブもどきの情報羅列に書き換えるべき故はありませんし、そんな代物が「良い記述例」などとはとても思えません(ノートならともかくも)。Hermeneus (user / talk) 2006年6月4日 (日) 10:11 (UTC)

戦後日本人論の変容について

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青木保氏による日本人論についての論考において、1964年から1983年は第3期、「肯定的特殊性の認識」の時代、と把握していますが、本記事「日本人論」にてそこに例示された『日本人とユダヤ人』(1970年)と『「甘え」の構造』(1973年)は、肯定的な日本人論でしょうか?(私は)青木保氏の著作は読んでいなく、『日本人とユダヤ人』と『「甘え」の構造』もきちんと読んだことがないのでわかりません。ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示願えませんでしょうか?年代がそこにはまっているだけで、青木氏の想定にはない書物、ということはないでしょうか?Uryah 2006年5月12日 (金) 18:32 (UTC)

『日本人とユダヤ人』は、最近再刊されたりしているようで、比較的容易に読めるのではと思いますが、「水と安全はタダではない」(ことを日本人はもっと肝に銘じるべきだ)という主張・問題提起の嚆矢と言ってよいと思います。従って普通に考えたら「肯定的特殊性」の範疇には入らないと思いますが。全会一致への批判も有名ですし。202.228.203.34 2006年5月13日 (土) 01:32 (UTC)
情報をありがとうございます。自分も、伝聞やつまみ読みの記憶では、肯定的な論だとは記憶していないのです。Uryah 2006年5月13日 (土) 01:39 (UTC)
そのへんは単に、日本再武装論の肯定ですね。むしろ『日本語は他の言語と違って軽やかに扱える』とか『日本人は非常に上手くやってきた』とか、ほめ倒しも良い所ですよ。 -- NiKe 2006年5月13日 (土) 22:47 (UTC)
情報をありがとうございます。なるほど、全部読んだら『日本人とユダヤ人』は肯定(的特殊性)の認識なのですね。Uryah 2006年5月13日 (土) 22:54 (UTC)
  • “1964年から1983年は第3期「肯定的特殊性の認識」の時代” に 『日本人とユダヤ人』(1970年)と『「甘え」の構造』(1973年)を例示された忠太さん、青木保氏による日本人論論(「日本人論」研究)を日本人論の解説として記述されたHermeneusさん、青木氏の把握と例示はOKでしょうか?Uryah 2006年5月13日 (土) 22:38 (UTC)
『「甘え」の構造』については5章「肯定的特殊性の認識前期」でとりあげられており、以下のように述べています:「土居は「甘え」の心理を非論理的で閉鎖的で私的と批判はするが、同時に、「無差別平等を尊び、極めて寛容でさえある」と評価する。そして、日本人の社会関係や集団にとっては、これが積極的な肯定的意味合いをもつと述べる。こういう評価は、中根や作田の行ったのと同じく、「日本文化」の性格に対してなされてきた否定的評価の「逆転」を意味し、「甘え」という日本語自体が外国語(西欧語)に同義語をもたないと主張することによって、その特殊性を認めかつ肯定的にとらえることになる」(pp. 106-107)『日本人とユダヤ人』については私が今見たところでは確認できません。Hermeneus (user / talk) 2006年5月13日 (土) 23:15 (UTC)
なるほど、大変ありがとうございます。『「甘え」の構造』について完全な提示、ありがとうございました。実際に見て確認できないということは、青木氏の把握の欄の『日本人とユダヤ人』はコメントアウトまたは削除でいいでしょうか?Uryah 2006年5月13日 (土) 23:23 (UTC)
元々、「年代からみてこのあたりの著作のことを言ってるのかな?」という推測で書きましたので、青木氏がそう言ってないなら訂正いただいて結構です。 --忠太 2006年5月14日 (日) 16:04 (UTC)
了解しました。では、それは削除しますね。Uryah 2006年5月16日 (火) 11:25 (UTC)
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