ノート:本多忠勝
「日本の張飛」について
編集姉川の戦いから三方が原の戦いに至るまでの史料をいくつか参照しましたが、「日本の張飛」の逸話は確認できませんでした。
中国史上の人物になぞらえた賞賛としては、『信長記』・『武徳大成記』・『本多家武功聞書』に、信長が姉川での家康の戦いぶりを「漢の高祖の十倍、張良の百倍の武功」と称えた事がみえるのみです。
また、姉川の戦いから三方が原の戦後までの間に信長が忠勝を直接に称えた旨の記録はなく、『本多家武功聞書』が姉川戦後の事として「忠勝様御働の儀は信長公にも御聞及ひ被成、殊の外御感心なされ候由」と述べるのみです。
信長の「張飛の如し」という発言が真実であれば、戦国期における『三国志』受容の一事例として意義を有すると考えられるため、要出典とさせて頂きます。
参照した史料を列挙すれば以下の通りです。
- 『信長公記』巻3「あね川合戦の事」、巻5「味方が原合戦の事」
- 『三河日記』
- 『東照宮御実紀』巻2
- 『東照宮御事蹟』第62・元亀1年6月28日の条以降(所引『信長記』・『総見記』・『官本当代記』など諸史料を含む)
- 『武徳大成記』巻8「姉川合戦事」「武田信玄兵ヲ遠州ニ出ス本多忠勝一言坂殿後ノ事」
- 『改正三河後風土記』巻12「姉川合戦の事」、巻13「遠州一言坂の事」「三方原大戦の事」など
- 『三河後風土記正説大全』巻21「姉川合戦本多忠勝勇猛」「真柄父子戦死本多忠勝高名」、巻23「天龍川合戦本多忠勝武勇付二股落城并松平清吉宇津の山を守る事」など
(以下は日本陸軍参謀本部・編『日本戦史』巻9「姉川役」、巻11「三方原役」各補伝所引のものを参照した)
- 『本多家武功聞書』
- 『四戦紀聞』
--六尺兄貴 2007年8月29日 (水) 13:02 (UTC)
- 以下の史料を参照したところ、「日本の張飛」の逸話の存在は確認できませんでした。
- 『当代記』巻1・元亀1年の条から同3年の条まで
- 『信長記』巻3「姉川合戦ノ事」
- 『常山紀談』巻3「姉川合戦の事」「姉川合戦榊原二の手功名の事」「三方ヶ原合戦の事」「三方ヶ原合戦信玄遠謀の事」「三方ヶ原合戦東照宮御退口の事」など
- 『武功夜話』巻4「元亀元庚午年六月日、江北浅井郡姉川において織田信長公、浅井、朝倉と出入り始末の顛末の事 南窓庵記写し」「江州姉川において、織田、浅井取合いの事」など(同書が偽書か否かはここでは論じません)
- 私見ながら、この逸話はもはや史実とは考えられません。ネット上で「姉川の戦いでの功績を讃えられた」とされる一方で、本稿のように「一言坂での功績を・・・」とされるなどの揺らぎが生じているのは、この話が確たる史料に基づいていないからではないでしょうか。ただ、この話が巷間に流布している事からすれば何らかの創作物が根拠であると思われるため、なお要出典とさせて頂きます。但し、典拠が明らかになったとしても、それが例えば江戸期の講談なのか、ゲームの設定なのかによって本稿に記述する必要性に差が生じると思われます。--219.126.200.147 2007年11月28日 (水) 12:45 (UTC)
- 三国志・張飛の項では張飛と忠勝との関連に言及した部分を削除させて頂きましたが、本稿では「日本の張飛」の逸話が根拠薄弱である事を示すために要出典のまま存続させるのも有意義かと思われます。--219.126.203.116 2007年12月2日 (日) 06:12 (UTC)
「日本の張飛」というのは戦国時代を扱ったゲームを多数出している、コーエーのゲーム攻略本で初めて見た記憶があります。コーエーのゲーム攻略本はアルバイトのライターの記述が多く(余談ながら大学時代の友人がアルバイトで書いておりました。ハガキ職人程度の人でも応募すれば書けたようです)、歴史事実と相反する記述が多いのはザラです。本多忠勝など良いほうで、私の郷里の武将、真壁氏幹の記述など、父の真壁久幹と長期にわたり混同されている始末です。コーエーの攻略本で記載が確認出来れば、コーエー攻略本ライターの独自研究か、早くとも明治を遡ることは難しいことを明記したいと思います。 出所を江戸期の講談では無いかと推測しておられる方もいらっしゃいます。もっともな推測ですが、江戸時代の講談では「天正以後」の歴史を語ることは禁止されており、実際に大阪の陣の講談を高座で語った講釈師の馬場文耕は処刑されていたと、いわれております。本多忠勝の活躍年代の話というのは語れなかったわけです。従って江戸時代の講談が根拠というのは考えがたい。明治以降の立川文庫あたりも考えられなくはないので、どなたか立川文庫を調べて頂ける方はいらっしゃいませんか?立川文庫はほとんど歴史資料によらずに書き飛ばされた講談集ですので、「日本の張飛」というやや珍妙な褒め言葉が出てきそうな気はしますね。ちなみに張飛と本多忠勝の共通点は殆ど無いと思います。三国志正史の張飛は、部下を虐待した酷薄な武将であり、地元民から未だに親しまれている忠勝とはだいぶ違っています。演義の張飛は面白い三枚目キャラでして、これも謹直な忠勝とは全く似ていません。 現在の歴史・時代小説のたぐいでは、司馬遼太郎の『覇王の家』、加野厚志『本多平八郎忠勝』等を調べましたが、日本の張飛という言葉は見当たりませんでした。両書とも小説とはいえ、一次若しくは二次史料を当たっている本なので、史料に出てこない記述はさすがに創作しないのでしょう。--中根東竜(会話) 2012年5月11日 (金) 15:36 (UTC)
編集合戦中止のお願い
編集要出典の貼り付けを巡って編集合戦になっているようですが、直ちに中止してください。このノートで問題になっている部分の記述について、十分話し合うようにお願いします。これをお聞き届けいただけず、なおも編集合戦が続くようでしたら、記事の全保護を依頼します。--けいちゃ 2009年9月21日 (月) 14:20 (UTC)
頂いたご指摘に対する反論。これらの編集に対して、「自分で調べて書け」というご指摘を頂く事が有りますが、このご指摘は的外れなものと考えます。理由は以下の通り。まず大原則として出典は明記されるべきであり、出典がない事は明らかな執筆者側の落ち度である事。 学術的な研究が進んでいる分野ではない漫画に、「出典をつけるまでもない常識」はありません。「ファンの間での常識」というのは個人的には理解・同意出来るものも多いのですが、たとえそれが事実であっても検証可能性を満たさないのであればWPへの掲載は不適格です。WPへの掲載基準はあくまで「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」であるからです。執筆者が執筆の際に参考とした資料を付加するのが一番効率が良いこと。「何故貼付けるのか」のBで理由として挙げた様に、書いたご本人または詳しいファンの方などに追記して頂くのが一番効率の良い方法です。もちろん出典の目処がつき且つ自分ですぐに調べられるものについては自分でも調べ出典を追記しますが(自分で言うのも何ですがかなりの記事に出典を追記しています)、最初に書いた人がソースを明らかにする方がずっと効率がよくしかも確実です。 [要出典]は「嘘だ」と弾劾するものではなく、出典が不明なので追記して下さいと言うお願いです。122.16.119.222 2009年9月21日 (月) 14:25 (UTC)このIP氏の発言は、私マクガイアの利用者ページからの無断転載であり、かつ私の意図とは全く異なる不適切な形で利用されていますが、後から議論確認を容易とするために著作権者としての権利行使はいたしませんので、著作権侵害としての削除は不要です。--マクガイア 2009年9月25日 (金) 12:39 (UTC)
- Carbuckettyと申します。本文の方はすでにKurmUmy様によって編集対応がなされているようですが、一応私の編集意図を記しておきます。
- さて、私が122.16.119.222様の編集を差し戻して「御自身で提示された出典に当たってみては?」と書いた意図ですが、122.16.119.222様は『家康に忠義を尽くして』と『武功を挙げた』の二つの文に対して要出典を貼付けられ、KurmUmy様は『家康に忠義を尽くして武功を挙げた』という文に出典を明記されました。私も文全体、あるいは段落全体に出典が付記されたものと認識しましたが、122.16.119.222様はそうではなかったようで、さらに『家康に忠義を尽くして』に対して要出典を貼付けられました。
- 出典情報が示されているのだからそれに当たる事を厭わなければ、このような行き違いは起きなかったのではと考えます。示された出典が1文だけにかかる場合もあれば、その前の複数の文章、あるいは段落全体にかかる場合もあるでしょう。なので、一度出典情報が記された文やその近くに再度要出典を貼付ける際には、とりあえず自身で一度提示された出典に当たってみてからでも遅くはないのではないでしょうか?
- というのが私の編集意図でありました。(KurmUmy様の迅速な編集対応によって蛇足のような文章になってしまいましたが、とりあえず投稿しておきます。この度は結果としてより適切な記事内容に発展したと思いますので、KurmUmy様の対応には敬意を表します)--Carbucketty 2009年9月21日 (月) 14:51 (UTC)
122.16.119.222氏の行動は私怨からの嫌がらせ以外の何者でもありません。論ずるに足りず、無条件でリバートすべきです。61.123.76.178 2009年9月23日 (水) 13:06 (UTC)
蜻蛉切 について
編集項目を分割し「蜻蛉切_(槍)」として独立した項目にすべきかと思うのですが、いかがでしょうか。--218.110.96.83 2010年2月25日 (木) 10:22 (UTC)
- 新しい話題は一番下に記述してください。移動させていただきました。--けいちゃ 2010年2月25日 (木) 11:40 (UTC)
家老・家臣節について
編集単純な疑問なんですが、都築秀綱の部分では、都築秀綱は元今川家臣、梶勝忠の部分では梶氏は都築氏とともに本多氏を支えてきた、とあって同じ節の中で矛盾が生じています。他に生涯節でも都築秀綱は家康直参の記述がありますし、自分は都築氏は遠江国人で、忠勝以後の本多家を家老として支えた、ではないかと思うのですが、確たる資料がありませんので、この部分について、識者のご意見をお願い致します。--machine_gun 2010年11月23日 (火) 09:56 (UTC)