ノート:東欧諸国のビザンティン建築

最新のコメント:16 年前 | トピック:ルーシ | 投稿者:ПРУСАКИН
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ロシアの節 編集

内容を見ると、ロシアというよりはルーシの項目だと思ったので「ルーシ」に変えました。昔は「ルーシ」は「古代ロシア」とも書かれましたし、ギリシャ語名という意味で「ロシア」と翻訳しても間違えではないと思うのですが、ロシア帝国もソ連もなくなった現代において「ルーシ」をあえて「ロシア」と書くといらぬ誤解を生じると思いますので、十分使用例のある「ルーシ」という表記に変更しました。

さて、テンプレートを使用するに至った問題点です。出典にそう書いてあったのかもしれませんが、どうも教会施設の名称の表記に疑問を感じましたので、より一般的な形に修正しました。どの施設が具体的にどこの何という施設に当たるのかの検証・名称や表記等の修正はかなりがんばったつもりですが、よくわからなかった部分があります。不明点、あるいは修正の根拠とした他言語版のページなどはコメントアウトで示してあります。その上で、確認・修正を依頼したい箇所は、以下の通りです。

  1. 「大聖堂」、「修道院」、「教会」といった施設の種類に関する記述。調べて見つけたロシア語名・ウクライナ語名と本文に書かれていた日本語名とでかなりの相違が見られた(「聖堂」など原語事情を考慮すると日本語名の方に疑問があったためロシア語名・ウクライナ語名に沿った名称に修正したが、妥当であったか自信がない)。
  2. 固有名詞の表記、特に聖人名。できれば、他のページとの兼ね合いも考慮し、現在の正教会の目から見て標準的な表記に揃えてほしい。

私はいくつか外国語は読めますが専門知識を必要とする場合に肝心の日本語がよくわからないことがあります。なかなか力の入ったページですので、ここはぜひとも専門知識のある方に校正していただき、よりよく発展していただけたらと期待します。--PRUSAKYN (ПРУСАКИН) 2008年4月4日 (金) 18:17 (UTC)返信

この項を主筆した者です。未整理な部分が多々あるにも関わらず、セルビアの後半移行、ルーシやルーマニアなどの項目は長らくほっておいてしまいました。おわびします。さて、名称の件ですが、おおよそは主な参考資料(世界建築史5ビザンティン建築)の通りに記載しています。正直なところ、建物の同定ができればそれでいいと思っていたため、一般的にどのように呼称されているかは無頓着でした。訂正された部分は概してよろしいかと思われますが、2点ほど。
  1. キエフの聖イリーナ、聖ゲオルーギイ修道院の表記に関しては、その時期に修道院として設立されたのかどうかがわからないので、聖堂としておきました(最初からそう書けばよかったのですが)。
  2. 最後の「大天使ミハイル聖堂」は、クレムリンのАрхангельский соборのことです。Hiro-o 2008年4月6日 (日) 08:35 (UTC)返信

コメントありがとうございます。

  1. 見た限りでは、「大聖堂」と「修道院」の表記が混在しており、判断できませんでした。ただ、「ソボール」なので「聖堂」ではなく「大聖堂」と訳すのではないかという点については他を参考にそのように判断しました。まあ、一般には「聖堂」と書かれることが少なくないようですが。
  2. 最後のところは勘違いしたようです。取敢えず「アルハンゲリスキー大聖堂」に修正しておきます。これでよいかは、将来ページが作成されるときにでもチェックが入ると思います。--PRUSAKYN (ПРУСАКИН) 2008年4月8日 (火) 18:56 (UTC)返信

ルーシ 編集

北方十字軍とタタールのくびきによる長い断絶の後、ルーシ建築はモスクワ大公国によって再び活動を興す。。。

ー、北方十字軍とタタールのくびきがあったとしても、ルーシ建築の発展に差し支えがなかったので、「再び活動を興す」という部分は無用ではないかと存じます。

ー、ルーシ建築を含むルーシ文化は、ルーシの本土においてルーシ諸公国、リトアニア大公国、ポーランド・リトアニア連合などによって受け継がれたこともあり、モスクワ大公国だけではありません。「二つのルーシ論」を勉強する必要があります。

ー、13世紀半ばにルーシが滅亡され、それ以後、共通の「ルーシ文化」が存在したかどうか問題です。ルーシ全土はばらばらにされ、あらたな国のあらたな文化が生まれていたはずです。13世紀以降のルーシ建築とルーシ文化論はかなり恣意的であると存じます。--202.71.90.139 2008年4月10日 (木) 08:15 (UTC)返信

まったく同感です。できれば加筆・修正していただきたいのですが、お願いできませんでしょうか?
ひとつめのー、ふたつめのー、と重なることですが、ルーシのある地方は荒廃しましたが、別の地方は栄え続けたわけですし、「中心地」は時代によって移動し、なおかつひとつではありません。この辺りを踏まえた上で「再び活動を興す」という部分を適切な表現に改めることが必要だと思います。
ふたつめのー、「二つのルーシ論」を勉強する必要があります。まったくその通りです。この点については私も不満というか、物足りない感じがしていたのですが、ちょっと時間的な制約もあり、私は「すでに書かれている内容」の修正以上のことは行えず、そのような「まだ書かれていない足りない部分の補足」までは行えませんでした。ぜひ加筆修正していただけると助かります。
みっつめのー、まず節分けの問題ですが、履歴を見るとわかると思いますが、ルーシの節は初めは「ロシア」になっており、これを上記(上の節)のような理由で応急措置的に修正しました(ロシアよりはルーシがましだろうと)。で、ルーシ(キエフ・ルーシ)が崩壊した後についても「ルーシ」というくくりで文化的にまとめる必要があるのかについてですが、これは完全に「技術的な問題」で、ルーシ崩壊後の各国・各地方ごとに節を細分化するほど内容がなかった(あまりスタブ的な節を増やしたくなかった)、従って、「元のルーシの地域」という、半分正当的ではあるがやや無理やりな区分概念を用い、ひとつにまとめてしまったというわけです。理想を言えば、ルーシの各時代、各地方、諸公国、リトアニアやポーランドとの兼ね合いを含めて大幅に加筆したかったのですが、いかんせん私は建築がわからず、まったく加筆できなかったというのが、恥ずかしながら本当のところです。もしできるようでしたら、そのような加筆・修正をお願いしたいのですが、いかがでしょうか。
勉強不足の私にとって最大の問題であったのが、「私は建築史がよくわからん」という点です。つまり、202.71.90.139さんの仰ることはご尤もだと思いますし、私も修正した際にそのような視点から加筆をしたかったのですが、理想高くして腕伴わず、自分の勉強不足を露呈するのは恥ずかしいのですが、私には無理でした。ぜひそのような視点から加筆・修正を行っていただきたく存じます。ご存知だと思いますが、日本語文献で、特にルーシの歴史の学術論文でもない建築関係の書籍でそのような視点から「妥当」な記述がされている文献を探すのはなかなか難しいのではないかと思います。最新のウクライナ語やロシア語の資料の観点から、ぜひお力添えをお願いします。--PRUSAKYN (ПРУСАКИН) 2008年4月12日 (土) 10:26 (UTC)返信
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