ノート:東郷位照

最新のコメント:16 年前 | 投稿者:60.38.255.134

「のち徳川家重将軍就任後に位照に改める。」とありますが、出典はありますでしょうか。むしろ、廃嫡・遠島となったことで東郷家と縁を切った状態だったので通字が使えず、流祖の東郷重位から「位」の字を取って実名にしたのが実情では。家重を避けるのであれば、他の東郷一門と同じく「実」を使うはずですので。--盛風力 2008年1月21日 (月) 12:19 (UTC)

 出典はありません。完全な類推です。ただ、位照の生年没年は元禄7年-安永9年は、徳川家重及び島津重豪が生存しており、薩摩藩の藩法上、徳川将軍及び藩主の字を使えないことになっている。徳川家重が「家重」と称するのは享保10年であり、実満死去は享保18年である。「聖将東郷全傅](小笠原長生著)の、東郷平八郎系図に平八郎の先祖、東郷重近が享保10年正月に重の字を改め、直矩としている。少なくとも、「家重就任後」はあやまりであるが、位照が通字を「実」にした形跡がないので、享保10年以前に廃嫡となり、徳川家重元服後に通字をかえることになったとするのが、自然だと思います。仮に、廃嫡になったのが享保10年以降なら、「実」の字を称しているはずです。今、手元の資料に「実」の字を称した事実がありませんが、そちらにありませんか?。--220.111.240.207 2008年1月26日 (土) 05:59 (UTC)道下熊助返信

個人の類推はWikipediaに書くべきではありません。やはり記述を削除するべきではないかと考えます。私が調べた限りでは位照が「実」を通じにした形跡はありませんでした。--盛風力 2008年1月27日 (日) 08:12 (UTC)返信

 「平姓東郷氏氏族系図」には東郷実昉が享保8年に東郷実満の嗣子となったとあるので、徳川家重が元服したことにより享保10年に位照に改名したとしたほうが妥当でしょう?--210.237.32.170 2008年1月27日 (日) 03:09 (UTC)道下熊助返信

まったく妥当ではないでしょう。実昉が享保8年に後継者になったということは、位照はその前に廃嫡されたと見るべきで、そのときに改名した(せざるをえなかった?)と考えるほうが論理的です。--盛風力 2008年1月27日 (日) 08:12 (UTC)返信

 廃嫡したからといって、実名をかえたという例を聞きませんが、なにか例がありませんか?。個人的には廃嫡直後は改名をしなかったが、徳川家重の元服で改名せざる負えなくなり、他の東郷家を憚って、「位照」を称したとおもいますが?。そもそも、脱藩事件は相当なものなので、もし亨保10年をまたずして改名していたら、なんか記録がのこってそうですが?--210.237.32.170 2008年1月31日 (木) 10:40 (UTC)道下熊助返信

前に述べたとおり、徳川家重の元服だけが理由なら、父が重方→実満となったように通字の「実」を使うはずだからです。どうして「実」が使えなかったとお考えですか?脱藩事件については東郷家の公式記録からほぼ抹殺されているようで、系図はそれに触れていないどころか、位照と実勝を同母兄弟とするなど明らかな改竄が見られます。門弟が記した著書や聞書にてようやくこのあたりの事情が知れる有様です。そういう事情もあって、改名の時期は私が調べた限り、史料上は分かりません。それで、私の意見は別に本文に「位照は廃嫡されて改名した」と書くことではありません。史料にないことを書いたら歴史の改竄です。「位照は家重元服によって改名した」などと、はっきりと出典がない個人的な意見を本文に書くことに反対だということです。そもそもそれがWikipediaの方針のはずです。--盛風力 2008年2月3日 (日) 10:43 (UTC)返信

 相分かりました。誠に申し訳ありませんでした。どうぞ、愚説として捨て置いてください。ところで、位照と実勝の実母については「脚注」とせずに、「・・・という説がある。」という風に「家族、親族」の欄に記載していただけるとうれしいのですが?--220.111.240.206 2008年2月4日 (月) 09:58 (UTC)道下熊助  脚注で使用されている文献が、どうも位照寄りの人物の気がしますが、もう少し中立的な文献はありませんか?「新薩藩叢書Ⅲ」では東郷実勝が東郷実満の後を継承したみたく書いていたりしていますが?(最も誤記の可能性が高いが)--220.111.240.206 2008年2月4日 (月) 10:27 (UTC)道下熊助返信

実勝が実満を継いだというのは間違いでしょう。なぜなら実勝が、実満の後継者である実はるを軽んじて藩主の怒りを買い遠島になったことは明白な史実だからです。実勝が跡を継いでいれば家長ですから、そんな理由で遠島になることはありません。ただ、遠島の後、東郷道場を事実上仕切っていたのは実勝のようです。母親についても、鹿児島県資料集34の解題を書いている野口信太郎、示現流の著作がある村山輝志とも位照と実勝は異母兄弟と、さらっと書いています。研究者の記述があるこっちがむしろ通説ではないでしょうか。「~という説がある」とするとそれが逆ですよね。そして、文献が位照寄りというのは久保之英の著作のことだと思いますが、これは確かにそうかもしれません。久保は位照の弟子ですからね。他に実勝のことを書いているものに竹迫藤四郎の聞き書きがありますが、それは実勝の頁で使用すれば良いのかなと思います。(とはいえ、竹迫は家督争いのことは触れてないですが。)--盛風力 2008年2月6日 (水) 14:58 (UTC)返信

 まあ、ぶちゃげ川崎大十寄りのことを書いていた、私の書くことではありませんが、本当に勉強になりますわ。しかし、実勝の方の遠島の理由はそれですか・・・。--220.111.240.207 2008年2月9日 (土) 08:33 (UTC)中村次郎返信

本当は家督争いの喧嘩両成敗かも・・・。母親の二階堂氏も流されてるんですよね。どうもこの事件、この女がくさいのです。久保之英もなんとなくそんなニュアンスだし。しかし父親で家長の実満は甲斐性がないな・・・--盛風力 2008年2月9日 (土) 12:53 (UTC)返信

 ところで、この二階堂氏は、島津吉貴の生母の一族じゃない?--60.38.255.134 2008年2月11日 (月) 09:30 (UTC)中村次郎返信

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