ノート:永久堡塁 (習志野)

最新のコメント:12 年前 | トピック:まとめ | 投稿者:210.249.184.60

改名について 編集

{{改名}}が貼ってあったので、とりあえず議論の端緒となるようにコメント。

ノート:トーチカを読む限りでは、「習志野の永久防塁」あたりが適当だと思うのですが、いかがでしょう? やはり旅順要塞の模型では習志野のそれを特定する名称としては不都合ではないでしょうか。--Tnm 2006年7月7日 (金) 10:30 (UTC)返信

習志野から「陸軍習志野演習場」に関連する記述を分割し、本記事はそこに統合。また、特定の要塞の模型として作られたものというよりは、一般的な要塞戦の演習のために作られた構造物であるように思われますが。当時旅順要塞は日本のものになっているのに、何でその要塞を攻める研究をせねばならないのでしょうか?--猪山人 2006年7月9日 (日) 01:29 (UTC)返信

執筆されている方も同じのようですし、分割・統合できればスマートですね。執筆者の意見を聞いてみたいところですが……。コメントをいただけるよう、ノートに書き込んでおきます。--Tnm 2006年7月10日 (月) 13:35 (UTC)返信

今後の戦争(要塞戦)を想定して実際に当時、欧州でも最新といわれた旅順要塞の構造を検証し、実際作って、演習をおこなったという考えが通説です。

「通説」というからには複数以上のプロフェッショナルがそう認めたということになるのですが、典拠を明記してください。ネットでも書籍でも結構です。根拠を明確に出来ないことをウィキペディアに掲載することは出来ません。Aboshi 2006年7月27日 (木) 15:27 (UTC)返信

 確かに通説というのは地域研究の範囲ですから、一般常識として学校で教えている内容ではなく、あまり知られていません。ネット上にはもあまり、情報が載っていませんが、とりあえず下に載せたホームページ上に少し永久防塁についての記述が載っていますので掲載しておきます。また、詳細について知りたい場合には参考資料として船橋市郷土資料館が出している「薬園台の歴史 正伯物語」を参照してください。125.2.23.204 2006年 8月1日(火)*http://www6.ocn.ne.jp/~futou/sub5.htm

ちなみに投稿者がいっているプロフェッショナルというのは大学の教授のことですか? 今回ボクが取り上げているそのプロフェッショナルとは船橋社会科研究会の先生方(学校の先生の郷土研究家)と学芸員の方のことですが?  125.2.23.204 2006年 8月1日(火)

地元の高等学校の先生が複数おっしゃっているにすぎないことを一般世間では通説とはいいません。そういう場合は、通説などという言葉を使わず、「地元の教員や学芸員で構成される船橋社会科研究会によれば」と正直におっしゃってください。「通説」などといううさんくさい言葉を使うよりも、よほどましです。あなた自身の発言が今後ウィキペディアで一定の信用を得たいと思うなら、言葉を誇張してものを言わない習慣を身につけられることをおすすめします。Aboshi 2006年8月1日 (火) 11:07 (UTC)返信

記事の信頼性について 編集

たいへん失礼ながら、投稿者の方は旅順要塞がどういう構造をしていてどの程度の大きさであったがご存知なのでしょうか?1/6スケールでは保育園の敷地に収まるようなサイズにはなりませんが。記事の内容を検証したいので出典を明記していただけますでしょうか。--猪山人 2006年7月26日 (水) 14:36 (UTC)返信

※確かに通説というのは地域研究の範囲ですから、一般常識として学校で教えている内容ではなく、あまり知られていません。ネット上にはもあまり、情報が載っていませんが、とりあえず下に載せたホームページ上に少し永久防塁についての記述が載っていますので掲載しておきます。※ちなみに同ホームページ上では「203高地」に築かれていた要塞と書かれていますが正しくは「旅順港」ですので気をつけて下さい。また、詳細について知りたい場合には参考資料として船橋市郷土資料館が出している「薬園台の歴史 正伯物語」を参照してください。125.2.23.204 2006年 8月1日(火) 24:19

追伸 ※「1/6スケールでは保育園の敷地に収まるようなサイズにはなりませんが」という指摘はその通りで、習志野台団地の造成に伴い昭和40年代に埋められてしまったので、構造・規模などの詳細について正確なことは不明です。保育園というのはあくまでもポイント的なもので、実際には、もっと巨大で周辺の団地の地下部分にも埋まっていると思われます。東葉高速鉄道を通す為に地下をほっていた所この防塁の一部にあったたという話もあります。 しかし、団地が造成さえる以前の写真や施工時の写真などが多数残っている事(著作権問題で消される恐れがあるので掲載は無理そうですが)と施工を監督していた人の話(その子供の証言)や実際に演習に参加した士官の人の証言(平成10年10月聞き取り)などもありますので、書いてある内容は間違いではありません。確かに当時の内容は殆どが軍機であり、今の船橋市を見ると全然様子も変わっており、住んでいる人も地元の人ではないのでこのような話題はまったくしらない人が大半で、話題にもならない情報ですが、これも1つの歴史ですから投稿しました。 125.2.23.204 2006年 8月1日(火)

「構造・規模などの詳細について正確なことは不明」なのに、「1/6スケール」といった具体的な内容をなぜあなたが知っているのか?申し訳ありませんが本記事はWikipedia:出典を明記するWikipedia:独自の調査といったウィキペディアの原則を満たしていないと判断せざるを得ません。そうでないとおっしゃるなら信頼できる出版元から出版された出版物などを出典として示していただけますか?--猪山人 2006年7月31日 (月) 16:20 (UTC)返信

詳細が不明といったのは現状で現場を見ても分からないので、当時見たことのある人の証言のみで、実際に地下を調査して正確にここに埋まっているといえない為詳細は不明と言いました。また、構造についても写真などの資料から大体は想像できますが、それについて詳しくふれた出版物がまだ無いので書くのを控えた次第です。実際に設計・施工を請け負った人の子孫がおり、1/6サイズの模型という情報はあり、正しいです。ちなに出典とはどうすればいいのですか?よくわからないのですが?125.2.23.204 2006年 8月1日(火)

出版物は確かにありますが(下を参照)郷土資料は信用出来ないものなんですか?そこまでいわれるとなんともいえませが↓ http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E8%96%AC%E5%9C%92%E5%8F%B0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%80%E6%AD%A3%E4%BC%AF%E7%89%A9%E8%AA%9E&ei=UTF-8&fr=top_v2&x=wrt&meta=vc%3D

一応、本の詳しい情報を書いておきますので管理者の一人として、インターネットの情報に依存せず、参考資料を読んだり、実際に現地に来て調べて頂いて評価を行ってくだされば幸いです。

  • 題   名   域研究資料3 薬園台の歴史 正伯物語
  • 発行年     平成15年3月31日
  • 編集・発行   船橋市郷土資料館 (住所:船橋市薬円台4-25-19)
  • 印   刷   株式会社総合印刷新報社 (住所:船橋市高瀬町32番)
たしかに「125.2.23.204」さんが言っている通り、必ずしもインターネットに情報が載っているとは限らないし、載っていない情報でもウェキペディアに載せるだけの価値がある情報もあるかもしれませんね。新しい発見になるかもしれませんし。私もこの情報は初耳で、まったく知りませんでした。でも話題性が高そうな内容なのに情報が少ないのは何でなんですか?--利用者:04:21 60.43.46.130|04:21 60.43.46.130 8月1日 13:25 
ありがとうございます。私は郷土史を否定するものでは一切ありませんので、出典がこうして出てくれば率直に喜ばしく思います。ただし、読み手に記事の信憑性を証明する義務の一切は投稿者にあるという大原則はお忘れなきようにお願いします。郷土史記事の難しさはまさにそこにあります(私自身も苦しんでいます)し、実際強引な我田引水・牽強付会な地元アピール記事がウィキペディアにおいても過去何度も執筆され、文字通り各地で論争のタネになっております。
今回の場合、記事の内容は結構かと思いますので、並行して「出典とその信頼性の記載」を常に心がけてください。「いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どのようにして」という記載を多少しつこくてもいいので文中に継ぎ足してください(脚注という形式でも構いません)。例えば、「地元教員で構成される渥美郡地域歴史研究会によって平成7年から翌年にかけて行われた当時の路盤工事従事者への聞き取り調査によれば…」とまであれば、読み手はどこまで信用できるかをおおむねつかむことができます。第三者の確認が困難な内容であればあるほど、出典と信頼性の記載が必要である、ということを肝に銘じていただきたいと思っています。Aboshi 2006年8月1日 (火) 11:27 (UTC)返信
「郷土資料は信用出来ない」などど誰も一言も申しておりません。出典があるなら最初から示していただきたい。出典を明示するのは投稿者の義務であり、義務を果たしていない方に説教をされる筋合いはありません。確認させていただきたいのですが、『域研究資料3 薬園台の歴史 正伯物語』を読めば、「1/6サイズの模型があった」という旨の記述があるわけですね?コピーを取り寄せたいのでページ番号を指定していただけますでしょうか。--猪山人 2006年8月1日 (火) 12:50 (UTC)返信
返事が遅れてすみませんでした。ページ番号は96と97です。よろしくお願いします。125.2.23.204 2006年 8月3日(木)

出典を見てきました 編集

 
旅順要塞の内部

『地域研究資料3 薬園台の歴史 正伯物語』の実物を見てきました。習志野原演習場の中にあったという永久堡塁については、「旅順要塞の模型」などとはどこにも書いておりません。よくお読みください。旅順にあった堡塁の模型とあります。旅順要塞というのは、こうした形の堡塁を旅順の周囲の丘陵地帯に何十個も作り、その間を二重三重の塹壕と鉄条網でつないだものです。1個の堡塁しかないのでは旅順要塞の模型とは呼べません。ビルの模型を東京の模型だと言い張るようなものです。

当時の日本軍が演習場内に堡塁を作ってこれを攻撃する演習をしたことは十分ありえたことです。実際、第一次世界大戦では青島攻略戦でこうした形の戦闘を経験しています。

また、「1/6スケール」というのは、古池しづさんという一般人のお婆ちゃんが伝聞で聞いた話であって、軍関係者に話を聞いたとか、実際に寸法を計測したとかいうものではありません。写真を見る限りでは堡塁は原寸大であるように思われます。原典ではこのへんの事情がわかるように書かれているのですが、本文のように1/6スケールであったことが事実であるかのように記述するのは飛躍しすぎです。

なお、本文にある「当時の日本にとっては欧州の最新技術・手法が用いられてた本格的な西洋式要塞構造物であり、学芸員や研究者の中には日本の近代要塞史の原点という人もいる」という記述に関しては、どこにも記載がありませんが、これについては出典は何なのでしょうか?

余談ですが私が旅順要塞に詳しいのは実物を見たからです。インターネットの情報に依存せず実物を見て評価するスタイルを実践していますね。--猪山人 2006年8月5日 (土) 13:13 (UTC)返信

もちろんです。ありがとうございます。 。--125.2.23.204 2006年8月11日 (日) 16:53

改めて改名提案 編集

上記の通りの事情ですので、本項目については改めて、(1)陸軍習志野錬兵場の独立記事化とそこへの統合、(2)あるいは習志野の永久堡塁への改名、を提案します。習志野の記事も膨張しているようですので私としては前者のほうが良いと思いますが、ご意見よろしくお願いします。--猪山人 2006年8月6日 (日) 01:43 (UTC)返信

ご苦労様です。私も、軍がらみの記事として(1)にまとめておくという方向に賛成します。Aboshi 2006年8月7日 (月) 14:37 (UTC)返信

わかりました。調べていただきありがとうございます。習志野原(陸軍習志野錬兵場)を習志野から独立させることには賛成ですが、自分としては同構造物の固有性を維持したいので後者の方がいいと思うので、習志野の永久堡塁へ改名をしておきます。

また、「1/6スケール」という件ですが、確かに情報源の多くは証言が大部分を占めているかもしれませんが、現時点の研究の進捗状況より本に書かれている事を尊重したいと思います。

書物には書かれていませんが「当時の日本にとっては欧州の最新技術・手法が用いられてた本格的な西洋式要塞構造物であり、学芸員や研究者の中には日本の近代要塞史の原点という人もいる」というのは事実で、なぜそのようなことをいうかというと、日本では明治初期から江戸幕府に見習いお台場のような砲台を備えた海防要塞が作られていましたが、基本的には日本の陸軍部は攻撃こそ最大の防御として、要塞構造物の製造を軽視する姿勢をとっており、要塞の重要性を世界が認識した第一次世界大戦以降は、逆に要塞製造を中止し再び要塞を作り始めたのは、満州事変以降と言われています。つまり、はじめて日本が欧州の最新の要塞構造物を身をもって体験したのが、この日露戦争であり、その経験をきっかけに旅順にあった要塞の一部を本格的にRCを用いてつくり、演習を行ったことから同構造物は当時の日本にとっては欧州の最新の技術・手法が用いた要塞構造物であり、日本における近代要塞史の原点と言っています。 --125.2.23.204 2006年8月8日 (日) 23:28

(1)結論も出ないうちに勝手に移動しないでください。また移動の手順についてはWikipedia:ページ名の変更をご覧ください。コピペ移動は即時削除されます。
(2)「1/6スケール」については他に文献もないので否定しようがありませんが、「一般人のお婆ちゃんの記憶によればそうらしい」という点は事実として明記すべきです。
(3)「当時の日本にとっては欧州の最新技術・手法が用いられてた本格的な西洋式要塞構造物であり、学芸員や研究者の中には日本の近代要塞史の原点という人もいる」というのは、ですからどこの誰が言っているのでしょうか?繰り返しますが出典を明記してください
(4)日本国内での要塞築城は日露戦争前から対露戦に備えて盛んに行われていますので、「日本における近代要塞史の原点」という表現はまったくあたりません。
(5)第一次世界大戦では固着防御しかできない要塞は時代遅れとなりました。「要塞の重要性を世界が認識した」というのは誰が言っているのでしょうか?出典を明記してください。
(6)第一次世界大戦以降に要塞築城が行われなくなったのはワシントン海軍軍縮条約で禁止となったからです。--猪山人 2006年8月9日 (水) 04:04 (UTC)返信
(1)了解です。猪山人に移動の件は委託しますのでよろしくお願いします。
(2)了解ですが、一般の人の名称を記入してもよろしいのでしょうか(個人情報保護法は)?
(3)言っている人の氏名は知っていますが、上記と同じで、個人情報なのでどうかと思います。また、残念ながらまだ、船橋市においては特に近代史の分野はあまり研究が進んでいない為、そこまで、突っ込んだ詳しい本は無いので、証明できそうもありません。
(4)日本国内で作られていた要塞とは主に海防(海軍主導)を目的としたものが大半であり、陸軍が主導の元本格的な西洋式のトーチカを作った例はないのではないでしょうか?また、それ以前に作られた要塞も充実した設備が整えられたのはかなり後だったと記憶していますが?
(5)世界と言ったのはちょっと言い過ぎたかもしれませんが、世界の中でもトーチカの活用の重要性を強く認識した国も多くあったようですが(代表例ドイツ、フランス、日本など)

http://okhotsk.vis.ne.jp/rekishi/tochika_tansa/tansa2.html

(6)海軍軍縮会議で、要塞の構築が中止されたとの事ですが、まさに同じ要塞でもニュアンスが異なり、原点といっても一緒に考えることはできないのではないでしょうか?

--125.2.23.204 2006年8月11日 (日) 23:28

(1)個人情報保護法というのは個人情報取扱事業者に適用される法律なのでここでは関係ありません。また本や論文の著者名を引用するがごときはプライバシーの侵害にはあたりません。
(2)まさにあなたの示したリンク先に「日本でも1880年頃から要塞を構築し始め同年代には東京湾要塞や佐世保要塞、淡路島の由良要塞などが構築された」と記載されているように、日本国内での要塞築城は日露戦争前から行われており、28センチ砲などが配備されていました。なお東京湾要塞などは陸軍の管轄です。そのサイトを根拠として持ち出すのなら自分自身の説が否定されるのではないですか?
(3)「トーチカ」は野戦築城の一種で少人数用陣地ともいえるものですが、堡塁とは別物です。『薬園台の歴史 正伯物語』に一言も記載されていない言葉を唐突に持ち出さないでください。--猪山人 2006年8月11日 (金) 01:08 (UTC)返信
(1)了解しました。
(2)「日本でも1880年頃から要塞を構築し始め同年代には東京湾要塞や佐世保要塞、淡路島の由良要塞などが構築された」と記載されていますが、旅順要塞のようにコンクリート等の材料がすでに使われていたのでしょうか?「本格的な西洋式要塞構造物」と強調しているのは、同永久防塁は旅順要塞を模倣して作られているという事のほかに要塞の構成・使用材料などの面からも来ています。
(3)申し訳ありませんでした。同辞典内で「永久防塁」と打つと「トーチカ」の項目に飛ぶので合わせた方が良いのかなと勘違いしてしまったようです。--125.2.23.204 2006年8月11日 (日) 12:35
このページを読む限りでは1890年代の第三海堡の基礎工事でコンクリートが使われていたようですが。なお材質と設計思想とはあまり関係ないと思います。旅順要塞もRCは使われていません。--猪山人 2006年8月11日 (金) 05:58 (UTC)返信
確かにコンクリートは使われているようですが、消波ブロック(テトラポットのような)に主に使われているのでは?要塞にも使われているかもしれませんがあくまでもコンクリートブロックを積み上げた石造構造物ではないかと思われます。要塞は要塞でもとても旅順要塞と比較できないのではないでしょうか?
旅順要塞ではRCでなく、無筋コンクリートかも知れませんが、レンガやブロックなどを積み上げ作るのと施工時に型枠を使って作られるコンクリート造とは大きく異なります。(確かに旅順要塞のすべてがコンクリート造ではありませんが、コンクリートで補強されているものもあります)のも事実です。
補足しておきますと材質と設計思想は大きなかかわりがあり、その時代によって求めているものや材料などの技術的な分野によっても設計(思想)は大きく左右されてきまし、時代によってそのものの価値も変化するのは間違いありません。特に軍事的な部分では特に重要なのではないでしょうか?
確かに第一世界大戦時以降は固定化した要塞の価値は低いものになったかもしれませんが、旅順要塞戦で苦い経験した日露戦争直後では、かなり重要な意味を持ていたのではないでしょうか?。『薬園台の歴史 正伯物語』の中で古池しづさんが「軍部に技術本部審査部というのが出来て、現場と東京の連絡は私の家が事務所に当てられていた」と書かれていますし。
プラス):[http://okhotsk.vis.ne.jp/rekishi/tochika_tansa/tansa2.html でも旅順要塞での150日間にも及ぶ戦闘(戦争)からコンクリートの堅牢さが認められたとあります。--125.2.23.204 2006年8月11日 (日) 16:53
「かなり重要な意味を持ていたのではないでしょうか?」といったあなたの独自のご説をいくら並べられても無意味です。ご高説はもう結構ですので出典を示してください。--猪山人 2006年8月11日 (金) 11:39 (UTC)返信

まとめ 編集

個人的に、これまでの議論を通して考えてみると1880年代から政府のお抱え外国人技術者や技術将官の指導のもと色々な西洋式要塞が作られてきたことを考えると確かに「日本における西洋式近代要塞史の原点」とは言い過ぎではと感じています。同構造物が色々な意味で重要な要素を持っているとは思いますが、原点というより、要塞史の一つの歴史(過程)といった方が良いかも知れません。言っている研究会の「原点」という意図は確認していないので分かりませんが、模倣ではあるが、今まであまり重要視してこなかった要塞構造物というものを日露戦争の教訓から重要性を認め、ロシアの要塞を分析し(結構大きい規模の防塁を)、日本人が主導のもと実際に作り、演習までおこなったという事実がある事から日本の本格的近代要塞史が原点(はじまり)と言っても過言ではないかということから来ているのかも知れません。しかし、個人的には同構造物が当時の日本にとっては確かに最新の西洋式要塞構造物であり、重要な意味を持っていたことは間違いないと思っています。--125.2.23.204 2006年8月11日 (日) 18:00

あなたが「日本における西洋式近代要塞史の原点」といった独自の説を、査読制度のある論文誌などに投稿されるのでしたら、結構なことですのでどんどんやっていただきたいと思います。しかし出典の示せない独自の説をウィキペディアに掲載するのはおやめください。本記事については検証不可能な独自研究を削除した上で「陸軍習志野錬兵場の永久堡塁習志野原の永久堡塁」へ移動したいと思います。あと10日ほど様子を見た後に移動します。--猪山人 2006年8月11日 (金) 11:39 (UTC)返信
わかりました。実証できるように研究を進めて行きたいと思います。あと、もし猪山人さんが地域史などに興味があるようでしたら船橋社会科研究会に是非お越し下さい。JR西船橋駅より徒歩7・8分位の場所にある船橋市西図書館で週1・2回(※日曜日はだいたい行っていますが)に集まっていますので、参加を歓迎します。あとお願いですが、陸軍習志野錬兵場=習志野原という認識でお願いします。125.2.23.204 2006年8月11日 (日) 22:10
(移動報告)本件については「習志野原の永久堡塁」へ移動しました。--猪山人 2006年8月19日 (土) 08:09 (UTC)返信
(お知らせ)施設名及びリンク先が間違っていたので、そこだけ修正させていただきました。自分達が集っている施設くらい正しい名称で書いて戴きたいものです。--210.249.184.60 2011年7月7日 (木) 03:55 (UTC)返信

転載疑い 編集

初版投稿者は、Wikipedia:削除依頼/金堀城などの多数記事で転載をしており、著作権侵害を繰り返しているため、この記事の初版も転載が濃厚と思われます。--fromm 2007年8月29日 (水) 15:38 (UTC)返信

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