ノート:永禄の変

最新のコメント:8 年前 | トピック:記事名 | 投稿者:Ukitanisika

記事名 編集

記事名「永禄の変」ですが、出典無いんですかね?色々なウェブページで 出典:Wikipedia ってなってるんですが、問題だった気がします。--118.22.197.51 2015年2月16日 (月) 10:42 (UTC)返信

八代市立博物館で「永禄の変」の使用例がありますね。--TempuraDON会話2015年2月16日 (月) 12:21 (UTC)返信
言葉足らずですいません。 この記事の最古の版、2006年10月1日 (日) 06:26‎ より前の出典。できればHPじゃなくて書籍があると一番なんです。私が問題にしたのは記事本文の「ただし、Wikipediaを通じて、この呼び方が世間に広まっていけば、「永禄の変」で、永禄八年五月十九日の京都での政変を指すようになっていく可能性はある。」の記載です。TempuraDON様にご指摘頂いたHPの記載がこの記事を元にしていないのかどうかがわかればいいのですが。どっかで似たような議論があったんですけど忘れました…。--118.22.197.51 2015年2月17日 (火) 05:26 (UTC)返信
簡単に検索したところでは、東京国立博物館の研究誌『MUSEUM』の(恐らく)第592号(2004年10月刊行)収録の「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向-東京国立博物館所蔵<古文書>所収三淵藤英書状を題材にして-(高梨真行)」(参考:号数・論文名の目録サイト)に「永禄の変」の使用例(参考:Google書籍検索)があるようです。少なくとも、2006年にこの記事作成者が創作した用語ということはなさそうです。--松茸会話2015年2月17日 (火) 12:04 (UTC)返信
TempuraDON様、松茸様ありがとうございました。スッキリしました。--118.22.197.51 2015年2月18日 (水) 10:52 (UTC)返信
松茸さんからご指摘のあった東京国立博物館の研究誌『MUSEUM第592号(2004年10月刊行)収録の「永禄政変後の室町幕府政所と摂津晴門・伊勢貞興の動向-東京国立博物館所蔵<古文書>所収三淵藤英書状を題材にして-(高梨真行)」を出典として記事の冒頭に加えました。個人的には、oldid=54278101の編集は、googleのOCRであやふやな「確認」を行うのではなく実際の雑誌やそのコピーなどで書影を確認してから行うべきものだと思います。--Ukitanisika会話2016年2月2日 (火) 22:29 (UTC)返信

著作権等、権利関連の確認 編集

2016年1月14日 (木) 17:45‎ DNSfumoさんの編集(oldid=58244596)は、"AUTHOR" CONTENT="佐幕牢人"さんの『永禄の大逆 フロイスの書簡』http://page.freett.com/odati/Muromati/sources/letter1565_6_19.html のページ内の文章と、下記に鈎括弧「」内で示す文章等、一致する箇所が一部あるようでした。なので一度、権利関連を、問題の起きにくい形にするために、一度、差し戻させて頂きました。

(義輝)「は良君にして、何人をも苦しめたことがないのに、なんで反抗をまねく理由があろう。 もし叛逆者があれば、みな」(義輝)「とともに、死ぬ覚悟であると。ゆえに、そのすすめに従い、ふたたび帰還した。

かれは、」(義輝)「に叛逆を起こした者たちの畏れなく、恥なきを、おおいに責め、」「公方様の御前にて自殺した。

(将軍の母である慶寿院に仕えていた宮女たちが御所の火災)「より逃れでた時、」「兵士らはこれを斬りはじめた。十五人~二十人は、武器をおそれて一つの家にひそんでいたが、その後、火から逃れることができずに、みな焼け死んだ。外に出ることができた数人の者たちもいたが、兵士はその衣服をはぎ取った。

公方様の遺体は、僧侶たちが来たりてこれを葬った。

(御所)「のいっさいを焼却するよう三好殿は命じた。そしてあとにはなにも残らなかった。

上記サイトは、「村上直次郎氏の翻訳(『耶蘇会士日本通信』東京雄松堂)を、現代語に重訳。」 とのことなので、該当書籍も確認いたしましたが「叛逆」などの漢字の選び方などを除くと、やはり上記サイトに由来する部分がいくつか存在するようでした。もしDNSfumoさんが、上記ページの作者様ご本人でしたら、申し訳ありません。もし違う場合は、村上直次郎氏の著作権もまだ存在するようなので、引用の形式を遵守した上で、上記の書籍より直接、引いたほうが権利上、よろしいかと思います。

あとDNSfumoさんが「永禄の変後のことは永禄の変に関係ないので、書くなら別のページを作成してください。」として削除された事柄のうち、足利義栄、足利義昭の将軍就任に至るまでの大まかな流れ程度なら、当事件によって引き起こされた結果として、このページ内でも簡単に説明があったほうが良いように個人的には思います。(他の削除箇所にはとくに異論はありません。)--Ukitanisika会話2016年2月2日 (火) 17:43 (UTC)返信

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