ノート:江川英龍

最新のコメント:16 年前 | トピック:「パン祖」について | 投稿者:Inukawa

庵の発音について 編集

二三冊辞書を調べましたが「なん」という発音は載っていませんでした。「あん(あむ)おん(おむ)」だけでした。音便でtanとanがくっついただけではありませんか。--Omitugi 2007年6月17日 (日) 13:36 (UTC)返信

察するにそれは、2,3冊しかご覧になっていない“から”ではないでしょうか。確かに一種の音便から来る特殊読みなのでしょうが、そのことを理由として「たんなん」は間違い、と言うことはできないのではないかと思います。
資料によって「たんあん」とするものと「たんなん」とするものがありますが、これは紙媒体の資料に限らず、ウェブ上で見られる資料も同様であることが、検索エンジンを使えば簡単に確認できます。どちらが正解というものでもないでしょうが、本文記事の「号の坦庵(たんなん)の呼び名のほうでよく知られている。地元の韮山では坦庵と書いて(たんあん)と読むことが多い」という説明は、割合に親切な方ではないでしょうか(「たんなん」が正解、という明快な根拠があるのでなければ、どちらでも可、ということをもっと強調してもいいとは思いますが。あるいは、慣用としては「たんなん」の方が一般的、ということかもしれません)。
ちなみに、手元の電子辞書では、広辞苑と日本史小事典では「江川太郎左衛門」の号の読み方について言及なし、同じく「百科事典マイペディア」では「号は担庵(たんなん)」としています。
新しいところでは、月刊 Newton 誌(ニュートンプレス)の、編集長・水谷仁による連載記事「学問の歩きオロジー」で、本年5月号で担庵の事跡や人となりが紹介されていますが(パンについてはふれていません)、ここでは「(号を担庵(たんあん)、「たんなん」とも読まれる)」として、両方の読みを示しています。
根拠についてまでは僕にはわかりませんが、こうして見ると、やはり何か理由のあることではあるなのでしょう。--Inukawa 2007年6月17日 (日) 14:45 (UTC)返信

--Omitugiです。回答ありがとうございます。確かに『マイペディア』ではそうなってますね。見落としていました。インターネットを検索してみてましたら、沢山出て来ました。『世界大百科事典』には読み方は載っていませんでした。理由が分るといいな。--Omitugi 2007年6月19日 (火) 12:38 (UTC)返信

「パン祖」について 編集

江川英龍をパン祖と呼び始めたのが誰なのか、ご存じの方いらっしゃいませんか。『パンの明治百年史』には口絵に徳富蘇峰の書いた二本の掛け軸の写真が載っています。一本は「パン祖江川坦庵(異体字)先生邸」という記念碑表面のための揮毫。もうひとつは、江川先生は偉い人だ、という意味の短いもの。でもこの本の本文に蘇峰との関係は何も書かれていないように見えます。同じ質問を「パン」と「徳富蘇峰」でしています--Omitugi 2007年6月17日 (日) 13:36 (UTC)返信

全国パン協議会には、直接お尋ねになってみましたか。蘇峰が揮毫したという江川邸のパン祖碑には、裏面に「全國パン協議会」「静岡県パン協同組合」と記されているそうですし(こちら)、ウェブ上には、全国パン協議会が坦庵に「パン祖」の称号を贈った、ということをはっきり記している記事が、いくらでもあります(こちらこちらこちらこちらこちらなど)。
石碑自体は昭和28年(1953年)建立と、存外に新しいものですね(こちら)。確かに28年なら、蘇峰はまだ存命です。碑の裏面に協会の名がある以上、蘇峰は文化人代表として揮毫を頼まれただけの人で、パン碑建立のイニシアティブは、あくまで協会にあったと考えるのが自然でしょう。
韮山代官、尚歯会メンバー、革新的技術者、開明派幕臣、そして日本海防の父と、いくつもの横顔を併せもつこの人物は、領民には「世直し江川大明神」と仰がれ、若き日の福沢諭吉には「近世の英雄とかいう江川太郎左衛門くらいのことなら俺でもできる」と対抗意識を燃やさせ、現代の有識者には「日本のミケランジェロ」とまで称せられているのですから、その二つ名として、「パン祖」というのは、失礼ながら、一般的には大して重要な顕彰とも思えません。むしろ、協議会によって江川邸内に立てられた、人目を驚かす奇妙な碑の存在によって、はじめて人に知られるようになったものではないかという気がします。
『人物叢書 江川坦庵』(吉川弘文館)あたりなら、あるいは何か参考になるようなことが書いてあるかもしれませんが。--Inukawa 2007年6月17日 (日) 19:00 (UTC)返信

--Omitugiです。回答ありがとうございます。インターネットで全国パン協議会を検索すると江川坦庵関係のものしか出て来ません。そして,インターネットで探しても全国パン協議会という存在が無いのです。パン業界新聞のリンク集などにも載っていません。前に書いた『パンの明治百年史』は、全日本パン協同組合連合会を中心としたパンの明治百年史刊行会の発行なのですが、この中には、江川坦庵が「パン祖」と呼ばれている、としか書かれていない。誰が、その名を贈ったか,いつ誰が碑を建てたかも書いていない。それなのに蘇峰の掛け軸の写真が口絵になってる。それで、もう少し詳しいことをご存じの方はいないかと思い、先日の質問をしました。今、868ページの『パンの明治百年史』に取りかかっているので、すこし後になると思いますが『人物叢書 江川坦庵』(吉川弘文館)を読んでみます。--Omitugi 2007年6月19日 (火) 14:49 (UTC)返信

おお、「全国パン協議会」は現存しないのですか。これは失礼いたしました。
「全日本パン協同組合連合会」の公式サイトで「沿革」を見ると、以下のようになっていました。
「昭和31年3月、全国パン協同組合連合会、日本パン協同組合連合会、全国学校給食パン協同組合連合会の3団体が発展的解散をし、大同団結をして全日本パン協同組合連合会を結成した。中小企業等協同組合法に基づき都道府県ごとに設立されている各パン組合の連合会である。//昭和38年に、製パンの大型工場化に伴い、大手製パン業者の団体として日本パン工業会が結成され、分離独立した。」
これでは「全国パン協議会」との関係は不明ですね。きっと無関係ということはないはずだと思うのですが。
こうなったら、パン祖碑の裏に「全國パン協議会」と並んで名前のある「静岡県パン協同組合」との間に何らかのゆかりがあることを期待して、「静岡県パン工業協同組合」に問い合わせてみてはいかがでしょうか。同組合の公式サイトのリンク集には、リンクそのものは切れていますが、「韮山の反射炉/パンの発祥地として有名です。静岡県パン組合としても大きく携わっている観光資料館です。」とありますから、まさか存ぜぬ関知せぬで突っぱねられることもなかろうと思うのですが。--Inukawa 2007年6月19日 (火) 16:19 (UTC)返信
(追記)うっかりしていましたが、順序から言えば、江川邸の公開事務室に訊ねるのが先でしたね。今年1月に「パン祖のパン祭り」というイベントを開催したばかりですし、ガイドスタッフも常駐しているので、それなりの対応を期待してよいのではないでしょうか。--Inukawa 2007年6月19日 (火) 17:37 (UTC)返信
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