ノート:清水次郎長 (講談)

最新のコメント:6 年前 | トピック:噺にテキストはあるか | 投稿者:とほほのほ

この本の扱い 編集

kmrt氏、

文学であれば著作権の扱いもそれなりに尊重されるのでしょうが、演芸の一ジャンルである講談の速記本で、そのように扱うのは違和感があります。藝の伝承や、つかみこみなど芸に対する理解を深めて扱ってほしいものです。伝統芸能ではないのです。 とほほのほ会話2017年6月2日 (金) 08:25 (UTC)返信

また、重要事実が誤りが多いのはなぜでしょうか?典拠となるものを読んでもなぜこういうWikipedia上でこういった書き方に変わるのか、疑問な点もあります。神田伯山へのリンク法なども疑問であるし、全体として立項の意図を疑わざるを得ません。 とほほのほ会話2017年6月3日 (土) 08:14 (UTC)返信

ラジオ放送も、事実と違うようです。芝清之による労作『浪花節(ラジオ編)』には1937年に虎造が大阪放送局から石松三十石船の放送はありません。朝日新聞の聞蔵も同様です。代わりに「浪花節とは何か」という連載が8月29日から10回で9月9日まであり、広沢の無い「虎造」表記など、その人気の凄まじい事がわかる記述があります。レコード会社によって外題づけを微妙に変えたという事も知りました。 とほほのほ会話2017年6月3日 (土) 10:04 (UTC)返信

上記の典拠として挙がっている榊原昭二『昭和語 60年世相史』朝日文庫1986年4月。ISBN 4022603704、の昭和12年(1937年)の部分には「●馬鹿は死ななきゃなおらない―広沢虎造の浪曲『次郎長外伝』がラジオ、レコードで人気を呼び、とくに『石松代参』の中で森の石松死にぎわにいう「馬鹿は死ななきゃなおらねえ」というせりふが流行語になった。どうにもならない世の中の動きに庶民のやるせなさこんな気持ちにしたのだろうという見方がある。こうした気持ちは、♪好いた女房に 三行り半を 投げて長脇差(どす) 永の旅(『妻恋道中』)といったヤクザ小唄の流行へとつながる。ヤクザ小唄は軍国歌謡へとつながる。ヤクザ組織と軍隊組織、ヤクザ気質と軍隊気質に底でつながるものがあるからでないか。」p.55、と該当部を全て抜き出しましたが、どうしてWikipedia上で、こんな記述に変わるのか、さっぱりわかりません。為にする記事ではないのですか? とほほのほ会話2017年6月4日 (日) 01:40 (UTC)返信

ちなみに、流行語として「馬鹿は死ななきゃなおらない」がp.52に挙がっています。 とほほのほ会話2017年6月4日 (日) 01:43 (UTC)返信

さらに、裏を取ったら虎造のラジオ初演は大正15年に遡る事が明らかとなりました。演目は「次郎長と勝蔵」。つまり、この項に関わる演題です。石松三十石船に関してはレコードの売り上げに直結するため、十八番をラジオ放送するのを避けていた為でしょうか、あなたがねつ造した1937年よりさらに遅く、戦況も押し迫った実に1943年(昭和18年)4月7日まで放送がありません。以上は芝清之『浪花節(ラジオ編)』によります。 とほほのほ会話2017年6月9日 (金) 02:45 (UTC)返信

神田伯山は、確かに虎造の成り立ちには欠かせません。しかしながらあなたがねじ曲げきれなかったように、そこにも原作者がおり、そうやって同時代にフィットしながら演芸の継承は進んだのです。あなたがいくら映画が得意でもその辺りに理解に難があるようで、誠に残念です。ーーとほほのほ会話2017年6月13日 (火) 07:26 (UTC)返信
あと、いくら何でも事実を曲げてまで言いたいことをネットで通すそのやり方は、一発で軽蔑されて然るべきものだと思います。よりによって、Wikipediaでもっとらしい典拠をつけて、中身がデタラメというやり方は反面教師として参考にいたします。ーーとほほのほ会話2017年6月13日 (火) 07:26 (UTC)返信
典拠に挙がっている『日本侠客100選』p.163を読みましたが、冒頭に「講談、浪曲では都鳥三兄弟として登場するが、都田が正しい。」とありますが、あなたのウィキペディアでは「都田の吉兵衛(1828年 - 1861年)を「都鳥の吉兵衛」としたのも伯山である[17]」となっております。明らかに事実に対して不誠実である証拠に3兄弟の生没年を一つにまとめて平気であることをあげられます。ーーとほほのほ会話2017年6月13日 (火) 07:26 (UTC)返信
どこに伯山オリジナルの工夫と書いてあるのでしょうか?原作者という先入観を固める為に証拠をでっち上げたら、よほどの暇人以外改善は難しい。そこを狙ったんでしょうが、残念でした。私が暇でした。ーーとほほのほ会話2017年6月13日 (火) 07:32 (UTC)返信
二代目玉川勝太郎の記述「二代目勝太郎(1896年 - 1969年)も当初『次郎長伝』をお家芸としていたが、二代目広沢虎造(1899年 - 1964年)が『次郎長伝』で人気を得て以降は、これを捨てる[27]。」ですが、リンク先のコトバンクにそのような記述が見当たりません。それも道理で、昭和12年1月14日にNHKで「石松代参」が放送されています。その後弟子筋の玉川太福が、「玉川に伝わる」とわざわざ断りを入れたやり方で演じています。つまり、あなたのWikipedia記述は全くのねつ造でウソということになります。ーーとほほのほ会話2017年6月14日 (水) 00:38 (UTC)返信

当初、濁していた典拠、田村貞雄のPDF「森の石松はどのように創られたか」には、森の石松の有名なセリフ「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」「馬鹿は死ななきゃ直らない」、の下りは同行していたろ山、龍生が虎造の浪曲で生かした、と明記されていますね。どこが伯山の全て創作、と書いてあるんでしょうか?全く呆れた典拠利用法で、著者に失礼だと思います。ーーとほほのほ会話) 2017年6月15日 (木) 08:51 (UTC) とほほのほ会話2017年6月15日 (木) 08:51 (UTC)返信

類似項目清水次郎長との使い分けを提案しました。詳しくは清水次郎長のノートをご覧ください。~~-- とほほのほ会話2017年9月13日 (水) 07:16 (UTC)返信

ウソとデタラメを元に28人衆など展開されていて、非常に扱いに苦慮しております。ーー~~ とほほのほ会話2017年10月2日 (月) 11:31 (UTC)返信

噺にテキストはあるか 編集

小谷野敦の『21世紀の落語入門』ISBN 9784344982635 には「噺の著作権もない」p.25-27があり、現実問題として芸の継承がある以上、著作権があっては出来ないことが明らかです。ご参考まで。 とほほのほ会話2017年10月23日 (月) 09:56 (UTC)返信

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