ノート:牛久保六騎
東三河六騎衆について意見を募ります
編集- 東三河六騎衆はその用語の初見についての項目を立てながらも、文献資料上では該当語彙そのものの確認ができないとするのは、明らかに矛盾しております。管見によれば、『牛窪記』(「三河地方文献集成」所載)に文亀年中の事として今川義元が牛久保六騎・地侍十七人衆に三河今橋辺に築城すべきことを仰せ付け、奉行牧野家に下知を命じたとの記事があります。しかし、この牛久保六騎がこのページにいう東三河六騎衆に相当するかは疑問があります。牛久保六騎は『牛窪記』にその構成メンバーを明示していないからです。
- 牛久保六騎についても同文献中にある、東三河の司頭の牧野・岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣・牧との関連性についても同文献では触れていない。
- また、東三河の国人領主であった牧野氏(すなわち、山家三方衆や八名郡の熊谷氏・西郷氏、渥美郡の戸田氏と並ぶ国人領主)と土豪の岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣氏等を同等に論ずるのはいかなる根拠に基づくのかについても疑問。
- 存在根拠理由のように扱われる、長岡藩文書とされる「温故之栞」の伝承は舞台となる時代が異なる(牛久保牧野氏が徳川家に帰服後の話)上に、この伝承を事実として裏付ける同時代文書等の客観資料での検証が必要と思われます。さもなければ、「知行を等分した」というこの話はあくまで伝承として位置づけるべきかとも思います。(主家の徳川家の何ら許可もなく、受けた知行を勝手に等分する約束が当時認められたのかは疑問)
- 牛久保の年寄衆または寄騎衆とされる構成員について、徳川家康が永禄9年10月23日の牛久保城主牧野右馬允(成定)の死去にともない出した判物の副え状として出した水野信元書状(『新編岡崎市史』・牧野文書)に牧野山城守・能勢丹波守・(岩瀬)嘉竹斎・真木越中守・稲垣平右衛門尉・山本帯刀左衛門尉・山本美濃守の6氏7名が見えるが、このうち牧野山城守は、牛久保領・宝飯郡平井に知行を持つ城主の一門衆であって城主牧野新次郎(康成)とは別人です。新次郎は城主の継嗣であって寄騎衆と並列にはならないのでは。
以上の疑問点を提出しこのページについての御意見を賜れば幸いです。 故城一片之月 2007年2月4日 (日) 20:30 (UTC)
2006年5月14日 (日) 18:22 219.120.30.142に、この項目が設置されています。ちょうど、NHK大河ドラマ風林火山の放映前特集やCMなど、告知され始めた時期と一致します。山本勘助豊橋生誕説のこじつけのために、急慮、造作されたんでしょう。
自分も三河の戦国時代については、学研の歴史群像シリーズなど古くから、知識がありますが、東三河六騎衆なる言葉は、聞いたことがありません。三河国は、29万石しかないので、人口比から、東三河は9万石だとすると、牛窪の牧野氏、田原の戸田氏、山家三方衆(菅沼氏、設楽氏、奥平氏)で、もういっぱいです。このうち、牧野氏はもっとも知名度がないです。
背景には、有力統一勢力のいない東三河を過大に見せようとする地域エゴが、見えます。--219.125.236.134 2007年2月7日 (水) 11:47 (UTC)
御意見有り難うございます。東三河の国人の勢力・実力を経済力で推し量ることは冷静な見方と存じます。ただ、私見を申せば、国人牧野氏の評価はウィキ上では大きくとりあげていますが、従来むしろ、その歴史の記録や伝承に不明確な事が多いせいか、過小評価されてきた面があります。 しかし、徳川家康は牧野氏とその居城牛久保城の存在を決して軽くは見ておらず、対今川戦の戦略上重要視したことは間違いないと思います(同時代文書で確認ができる)。要は御指摘のとおり、客観的な判定方法と史実による検証性によらねばならないと思います。 地域エゴ云々は私はその様に感じてはいないですが、山本勘助牛久保誕生説も鵜呑みにすべき事柄ではないと思います(牛久保が無関係と言う意味ではない)。当ページの有りようについてはもう少し意見を募りつつ、今後のことを提案してみたい。故城一片之月 2007年2月9日 (金) 12:53 (UTC)
東三河六騎衆というのは、完全な造語、今年になって造られた。 しかも、宝飯郡であって、東三河じゃない。山本勘助は、架空の人物で、甲陽軍艦に牛窪とあるが、豊橋市賀茂町とは関係ない。山本氏の由緒を捏造するもの。--219.125.235.90 2007年2月11日 (日) 08:14 (UTC)
なるほど、東三河を冠することには問題がありそうですね。牛久保城主牧野氏を頭目とする軍団をさす用語「牛久保衆」は『牛窪記』や『家忠日記』で使用された一般的用語と言え、六騎衆は軍団牛久保衆に含まれる牛久保六騎(衆)として本来扱われるべきと考えます。よってこのページは牛久保六騎衆と改題するか、ページ牛久保城の牛久保衆に統合するかすべきと思います。他に異論なければその処置をしますがどうでしょう。
それと山本勘助は「市川文書」の山本菅助と同定されてはおらず、しかしまた別人と確定する根拠もでておらず架空の人物として断定も出来ません。生誕説はともかく豊橋市賀茂町に山本勘助ゆかりの旧家山本家が存在することは事実でありますが研究家上野晴朗氏の『山本勘助』では詳しい調査をしておられる。もっとも当ページで議論すべきテーマでは無いと存じます。故城一片之月 2007年2月18日 (日) 05:57 (UTC)
東三河司頭との語は、どのようにお考えですか。 東三河司頭・牛久保六騎衆に改題がよいのではないでしょうか。真木氏と牧氏は同族なようなので、牛窪記著者などが書き加えたのではないでしょうか。もともと東三河司頭という用語自体が、牛窪記の著者の命名のような気がしないでもありません。
また、東三河の国人領主であった牧野氏(すなわち、山家三方衆や八名郡の熊谷氏・西郷氏、渥美郡の戸田氏と並ぶ国人領主)と土豪の岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣氏等を同等に論ずるのはいかなる根拠に基づくのかについても疑問という件は、本文に挿入すればよいように思います。--58.1.249.56 2007年2月18日 (日) 12:36 (UTC)
改題の方向に賛成します。どう改題するかは、議論をみてからにしたいと思います。--鉄三郎 2007年2月18日 (日) 14:39 (UTC)
東三河司頭は『牛窪記』以外にも『宮島記』(『今橋物語』所収引用文書)にも用例があり、牛窪記の著者の創作かどうかは断定できませんが、「東三河」を冠する用語である以上、ページ標題に含めた場合には再び議論の対象となる可能性が大です。「東三河」は城主牧野氏や六騎衆が到底及ぶべくもない、渥美郡の半島部や設楽郡、八名郡の山間部もふくむ地域を意味するので誤解を招きやすい。もともと、このページは牛久保に参集する寄騎衆について述べたかったものと推察され、「東三河」を冠したことで話が複雑に成ったものと思います。「東三河司頭」は説明内容中でそのような呼び方があったことを注記すればすむことと思います。
なお、国人衆と土豪衆の扱いについての議論は「東三河」を標題に冠しないことが容認されれば、自然に決着することであり、議論の内容をページ本文に載せることはウィキの基本方針(ウィキは議論の場ではない)に抵触するおそれがあり勧められませんがどうでしょう。故城一片之月 2007年2月18日 (日) 17:31 (UTC)
その牛窪記って、信用できるのか?牛窪記をいじって加筆したという牛窪密談記には、山本勘助の記述が突如登場する。甲陽軍艦登場以後のことだ。東三河の地元の人間の作ったうそ臭い資料は、信用できんな。朝廷や幕府が製作したものならともかく。どっちにしろ、同時代の資料じゃないから、誇張や捏造が含まれている可能性が高い。--221.119.215.254 2007年2月18日 (日) 17:57 (UTC)
この牛窪記って、徐福伝説とか平然と載せている資料ですよ、こんなうさん臭い資料を信用するほうもどうかと思う。他にも神社の縁起とかをはるか昔にさかのぼらせたりするなど、三河といえば徳川であり、徳川方の資料に何も記載がないのは変ですねえ。この牛窪記の著者による誇張捏造では?--221.119.215.254 2007年2月18日 (日) 18:19 (UTC)
北鉄屋大工助九郎文書を引用して、牛窪地頭とすれば、だれからもうさんくさいと云う批判はなくなるのではないでしょうか? 牛窪記に引用されているこの判ものが現存していて、専門家の間からも信憑性が公認されている文書であることを知らない人が多すぎます。
表題は牛久保六騎衆でよいと思います。--125.100.187.2 2007年2月19日 (月) 13:10 (UTC)
前の御意見について、徐福伝説等うさんくさいという御指摘はごもっとも。考古学的成果等も入れて科学的に検証する今日の歴史学的方法も考え方も確立されない時代の史料は、同時代文書ではないこの手の記録類は史実と伝承が混在しており、なるほど胡散臭い。しかしそれは『牛窪記』や『牛久保密談記』に限ったことではない。私は個人的には徳川家康が大好きであり私のもっとも尊敬できる日本人に挙げたい。ただ、徳川家関係の史料が絶対というわけでもなく、代表例でいえば徳川氏の出自・歴代の話になると、新田源氏末流の話は伝承の域を離れず最近はすっかり相手にされなくなってしまった。それでも私はこの伝承を無駄とは考えていない。今現在、客観的に実証しうる材料が無いからといって胡散臭いから捏造だろうと即断するのは、将来の新発見の芽を摘むことになるのではないか。また、天皇家の歴史についても、伝承・伝説の域を出ない説(日本書紀などによる)を頼りに発掘調査をして逆に新たな事実が確定することもある。
史料は半信半疑の目で見ることも大切と存じますが、また可能性を先に見込んで考証する姿勢も必要かと思います。 地域の人々が歴史をお国贔屓で解釈していることはままあることで、各地であるでしょう。これを一概に悪であると決めつけるまでもない、そのエネルギーが地域活性の源になるので。但し、共有財産であるべきで、山本勘助の件で豊橋の人々がNHKに抗議したなどは履き違いもいいところで遺憾なことです。また地元の伝承とは別に客観的な検証に基づく歴史考察が有ることは率直に認めなければならないと考えます。故城一片之月 2007年2月19日 (月) 18:48 (UTC)
必要な期間は経過したと思いますので、このページの立ち上げ責任者の方もしくは主筆者の方、最終判断をお願いします。 故城一片之月 2007年2月19日 (月) 19:03 (UTC)
結局、牛久保六騎、地侍十七人衆という用語であって、東三河を冠するのはおかしいということですね。 さらにいうと、宝飯郡には、小坂井町の伊奈本多氏、蒲郡市の鵜殿氏、が国人領主でいますので、宝飯郡ですらないと、 ゆえに牛窪なんでしょうね。--221.119.215.45 2007年2月21日 (水) 10:51 (UTC)
当ページは牛久保六騎に移動して引き継がれました。処置終了を報告します。(以上)故城一片之月 2007年2月21日 (水) 14:18 (UTC)
東三河司頭っていう言葉、おかしくないですか????????とにかく、牧野氏も含めて、wikiで東三河が過大に評価されて記述されており、正史の流れに悪影響を及ぼすほどです。根拠の薄い用語を自信ありげに書かれても困ります。--221.119.62.126 2007年2月22日 (木) 13:37 (UTC)
すみませんが、ここは牛久保六騎のノートですので、東三河司頭・三河牧野氏の各ノートで会話願います。故城一片之月 2007年2月23日 (金) 11:06 (UTC)
東三河の旗頭・徳川四天王・徳川十六神将=東三河司頭(三河諸氏の旗頭)・牛窪六騎(牛窪六人衆)・東三河十七騎
編集明らかに、牛窪記は、編纂当時の用語を使用しており、戦国当時の用語ではないだろう。
東三河の旗頭(西三河の旗頭)・徳川四天王・徳川十六神将
こうした言葉に触発されたもの。—以上の署名の無いコメントは、時空の旅人(会話・履歴)氏が[ 2007年4月2日 (月) 07:01 (UTC)]に投稿したものです(故城一片之月による付記)。
↑利用者:時空の旅人さんへ、ノートへの記載は署名を忘れずに!また、記載順は時系列に上から下へ。(参照→Wikipedia:ノートページ)また、ノートへの記載事項は趣旨を明確に、『牛窪記』は牛久保地域の郷土史に属する文献の名称であり、これに使用される用語も特有のものである。徳川四天王・徳川十六神将などの用語とは同類ではない。上記の書き込みは意味不明です。本文ページの編集に無関係の意味不明の書き込みはしないように願います。--故城一片之月 2007年4月5日 (木) 12:18 (UTC)