ノート:牧野康成 (大胡藩主)

最新のコメント:12 年前 | 投稿者:故城一片之月

天正16年(1588年)4月、従五位下右馬允に叙位・任官、この時の口宣で清和源氏を称姓。

※朝廷が任官したかのような書き方で、出典不明でしたので削除しました。 朝廷の任官記録の歴名土代の編年索引の、天正16年の項目には、1人しか名前がなく、牧野氏はいない。 天正16年は、藩翰譜に記載があるが、朝廷から任官したとは書いていない。

天正15年は、牛窪記の記述だが、朝廷の任官記録の歴名土代の編年索引の、天正15年の項目には、牧野氏の名前はない。牛窪記には、参内したと書いてあるが、これもウソである。

よって、朝廷の正式な官位官職ではないので、口宣など、あろうはずもない。 戦国時代に流行した自称官位官職であり、江戸時代に武家全員に与えられた従五位下と思われる。--14.132.73.139 2012年2月28日 (火) 16:21 (UTC)返信

歴名土代』は国会図書館NDL SEARCHのデジタル資料閲覧で確認しました。これには確かに記載はないです。しかしこの1史料のみで、牧野康成の従五位下右馬允に叙位任官が「戦国時代に流行した自称官位官職」と断言するのはいかがなものかと思われます。
なぜならば『歴名土代』は山科言継が天文7年に編纂し、その子言経が加筆したとされる私家本(写本)であり(官本そのものではない)、大元は朝廷官本であろうけれども言経が天正13年6月24日に摂津国に出奔していることを考えるとそれ以降の記述に記載されていない人物が有っても不思議ではない。
実際、『徳川十五代記』(国会図書館デジタルアーカイブスで閲覧可能)には、豊臣秀吉の画策によって和議を正式に結ぶ為に、徳川家康は上洛し天正14年11月5日に正親町天皇の詔によって従三位に叙せられ、これに随従した家臣井伊直政は兵部少輔、本多忠勝は中務大輔、榊原康政は式部大輔、本多広孝を豊後守、永井直勝を右近大夫に任官しそれぞれ従五位下に叙し、「其余ノ将領官爵ヲ受クル差有り」(徳川十五代記)とあります。また『寛政重修諸家譜』や『柳営実記』によれば践祚した後陽成天皇聚楽第行幸に先立つ叙位任官であったことが同様に記述されています。
もし『歴名土代』に氏名が無いことを根拠に否定するならば、本多忠勝らの他の徳川家臣のこの叙位任官もウソということになるがそれで良いとお考えか?そんな独自解釈がまかり通る筈はないと考えますが。
>戦国時代に流行した自称官位官職であり、江戸時代に武家全員に与えられた従五位下と思われる。……豊臣政権下での叙位任官なのに何を言っているのやらですね。
それから『寛政重修諸家譜』を諸大名等の自己申告のだから資料として信憑性が無いとか採用できないとかの独自解釈はおやめ下さい。江戸幕府で選任された堀田正敦と学者等のスタッフが「貞享呈譜」を初め、各家の家譜等の基礎資料の提出はもとより、種々の記録等も相互に比較して検討の上に編纂したものであって、提出されたものがそのまま記述されている訳ではないからです。今日においても重要な歴史史料として扱われているものです。--故城一片之月会話2012年3月7日 (水) 17:16 (UTC)返信
>牛窪記には、参内したと書いてあるが、これもウソである……「牛窪記」に牧野康成が参内したなどとは、そもそも書かれていないですね。資料をよく確認して下さい。
「歴名土代」の存在する記述は信用するとしても、書かれていないこと、それだけをもって無かったとするのは拙速な資料解釈であり、「寛政重修諸家譜」・「藩翰譜」等の他史料の比較検討もしなければならないと思います。--故城一片之月会話2012年3月9日 (金) 09:55 (UTC)返信

あなた、自分で歴名土代を確認したが、名前がなかったて認めていますよね? なら、削除が妥当でしょ。

参内は、牛窪記下巻に神君御参内事。お供として牧野右馬丞。従五位に任す。とありますけど?

歴名土代は、慶長までの四位五位の任官記録ですから、天正はぜんぶ載ってます。

歴名土代に名前がなくても、寛政譜に任官記録があれば、それは朝廷の任官記録ナリは、あなたの独自研究です。--180.197.174.245 2012年3月9日 (金) 10:24 (UTC)返信

参内(昇殿)したのは、神君=徳川家康であり、具奉の家臣すべてが参内したのではないでしょう。「牛窪記」(下)では「牧野右馬丞も同参リテ、従五位ニ任ズ」とだけあって、参内したとは記されてはいない。ただの従五位では昇殿の資格が無いです。井伊直政他1名は、この叙位任官時に同時に「侍従」に任じられ、この2名は家康に随行したようですよ。
上で私が言っている、本多・榊原・井伊等の叙位任官はどう考えるのでしょうか?削除が妥当などとは勝手な意見ですよね。ここはウィキペディアであり、信頼ある出典に基づいてなされた記述を一方的に削除することは許されないです。あなたが可能なことは「歴名土代」における節を作って、それには叙任されたとされる牧野康成および他の徳川家臣の氏名が記載されていない、という事を指摘すればそれなりの記事になるとは思いますが、「ウソ」とか「捏造」呼ばわりはしない方がいいと思いますね.--故城一片之月会話2012年3月9日 (金) 10:58 (UTC)返信
>歴名土代に名前がなくても、寛政譜に任官記録があれば、それは朝廷の任官記録ナリは、あなたの独自研究です
そんなことは言ってませんが?出典「寛政重修家譜」等に基づき、該当箇所を記述しているんです。それはここの方針に基づいているつもりです。天正時代の叙位において「歴名土代」に載っていない人物は叙位任官は無かったとする、出典は持っているのですか?あるならそれを提示すれば、叙位任官の事実は虚構であると書けると思いますよ。--故城一片之月会話2012年3月9日 (金) 11:10 (UTC)返信

天正16年(1588年)4月、従五位下右馬允に叙位・任官、この時の口宣で清和源氏を称姓。

あなたは、この記述が歴名土代になくても問題ないと言ってますが、それは独自研究です。 実際に、牧野氏の名前が、天正年中に、歴名土代にないんです。 ないってことは、朝廷が任官していないってことです。

発行:続群書類従完成会 湯川敏治編 本書は山科言継・言経父子自筆の四・五位の叙位記録で、貞治六年(一三六七)~慶長十一年(一六〇六)までを収める。今回、東京大学史料編纂所の自筆本を底本として翻刻する。また、『公卿補任』の体裁にならい配列しなおした編年索引を作成し、人名索引を付した。四位・五位の人々の経歴を知るための好史料。

山科言経は、言経卿記を記述していますし、徳川家康とも交友のある公家ですが、牧野氏の名前はありません。

寛政譜が歴名土代を補えるという考えも、あなたの独自研究ですね。--180.197.174.245 2012年3月9日 (金) 12:42 (UTC)返信

同じ事繰り返さなくても良い、貴方は従五位下侍従兼兵部少輔になった井伊直政の任官記録はその「歴名土代」で確認できたんですか?この井伊直政は皇室所蔵の東山御文庫本の『聚楽第行幸記』[1]に他の人々とともに掲載されているが昇殿は四位・五位の侍従以上に叙せられたもののみであったとされ、他の家臣は昇殿していない。加賀少将(前田)利家・三河少将(結城)秀康等に並んで、井伊侍従直政の名もあるようです[2]。なお、このWebブログ記事の典拠『聚楽第行幸記』は『群書類従』巻三に収載されているので国会図書館で直接確認しようと思っています。『歴名土代』に井伊直政の叙任記録が無くても、この行幸記は天正16年に朝廷献本もなされた正規の記録ですから、やはり資料価値は高い。こういうものの存在が他にあることも考えないで良いのでしょうか?
私は『歴名土代』の信憑性を問うてる訳じゃない、記載されている部分には一定の高い資料価値があるとされていると思います。しかし、数種類の写本が伝わっており、それぞれの比較では微妙に違っている部分も指摘されているし、ゴッソリ欠落した部分も存在しているのも留意すべきでしょう。1つの歴史資料で絶対なんてない、複数の資料の存在を容認・相互検討するのが史学的内容を扱う正しい態度のはずですよね。参照→「湯川敏治 四位・五位の叙任簿『歴名土代(りゃくみょうどだい)』の写本系統について
>寛政譜が歴名土代を補えるという考えも、あなたの独自研究……独自研究ではありません。『寛政譜』の記述を1次資料とすれば、2次資料にあたる刊本・研究書も数多く出ています。参考文献に掲げた大名牧野氏の関連記述のある今泉省三『長岡の歴史・第1巻』の17頁に「柳営録」の記述を例に天正16年4月に牧野康成が従五位下に叙任したと示されています。--故城一片之月会話2012年3月9日 (金) 14:52 (UTC)返信
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