ノート:神慈秀明会

最新のコメント:15 年前 | トピック:現在議論中 | 投稿者:草薙

はじめに 編集

神慈秀明会は、たくさんの被害者を排出しました。いまでも神慈秀明会に対して怒りや憎しみの感情をもった方が多いと思います。そんなあなたの怒りを聞いてくれるホームページは、すでに多数存在します。また、あなた自身が怒りのホームページを起こすことも自由です。しかし、Wikipediaはあくまで百科事典ですので、ここには出来るだけ客観的な情報を提供するよう心がけましょう。あなたの個人的な怒り、憎しみ、不快感、懐疑心を表現する場所として、この項目を使うことは控えてください。


神慈秀明会では、沢山の奇跡が起き、病気が治ったとされる人もいます。神慈秀明会を心の底から素晴らしいと思っている方もいるでしょう。しかし、インターネット上のさまざまな情報をみると、必ずしもそのような考えばかりではないことがおわかり頂けると思います。(浄霊の奇跡を体験したことがない信者もいるようですし、奇跡も起きずに病気も治らずに死んでいった信者も多くいるようです。)あなたが、「神慈秀明会がいかに素晴らしいか」と伝えたいなら、それはあなたの布教の現場で行うか、ホームページをつくり、そこで表現してください。Wikipediaはあくまで百科事典ですので、ここには出来るだけ客観的な情報を提供するよう心がけましょう。あなたの個人的な好意、信仰心、ヒイキを表現する場所として、この項目を使うことは控えてください。


冒頭と詳細 編集

冒頭の文章は、神慈秀明会という団体に関する情報を簡潔に知りたいと思う人のための文章です。そのため、冒頭の記述は詳細すぎたり煩雑な解説は避け、専門用語を避けた平易な文章で、基本的な内容を簡潔にまとめる必要があります。詳細な内容は後半に記述してください。

主観と客観 編集

百科事典の項目として用をなすためには、主観的な記述を出来るだけ避ける必要があります。

現在、主観的記述をさけるため、この項目は次のような構成になっています。

「批判」や「評価」の節 編集

この項目は、宗教の項目であり、しかも、多数の被害者を出した教団であるため、どうしても感情的な批判や、逆に教団を賛美したいため、感情的な評価を行いがちです。ですから、そういった主観的な記述はできるだけ「批判」や「評価」の節に集中し、通常の項目は、客観的事実を記するよう心がけましょう。

現在の「批判」と「評価」を記述する節は以下のとおりです。評価や批判などは、この節に集中させ、それ以外の節は、客観的事実を記述するようにしましょう。

  • 旧体制に対する評価と批判
  • 新体制に対する評価と批判
  • 物質出現の奇瑞に対する批判

現時点では、全ての節に、「評価と批判」の節があるわけでありません。今後、必要に応じて、節毎に「批判と評価」節を追加してください。

主観的表現とは 編集

たとえ、批判や評価の節であっても、できるだけ、以下のような具体性に欠けたあいまいな主観的表現はできるだけ避けましょう。このような表現は、本項目の百科事典としての価値を下げるばかりではなく、見解のことなる者同士の不要な論争の原因となります。

  • 肯定的な「主観的表現」
    • 素晴らしい(社会貢献)
    • 最高の(宗教)
    • 真摯な(態度)
    • 純粋な(心)
    • 大きな(社会貢献)
    • 優秀な(青年たち)
    • 世界的な(活躍)
    • 天国的な(神苑)
  • 否定的な「主観的表現」
    • 恐ろしい(教義)
    • 洗脳、マインドコントロール(された信者)
    • 騙されている(信者) 
    • 搾取されている(信者)
    • オウム、北朝鮮(のような教団。この表現は、信者同士のみならず、他団体の人までが論争に参加してくる可能性がある。)
    • 捏造(された教義)
    • 地獄のような(生活を強いられた信者)


  • 客観的事実としてなら記述可能と思われる表現
    • 世界から注目(漠然と「○○という活動は世界から注目されている」とするのは主観的見解なので使用すべきではないが、「○○という活動を行った結果、△△という海外のメディアに取り上げられた」などは事実なので記述可能。)
    • 素晴らしい(○○は素晴らしいと世界から評価されている、などは主観的表現なので使用すべきではないが、「神慈秀明会では、○○を素晴らしいと思っている」は事実を表す表現なので記述可能)
    • 恐ろしい、邪悪な(○○は邪悪だ。恐ろしい、などは主観的表現なので使用すべきではないが、「神慈秀明会の信者は、○○を邪悪で恐ろしいと思っている」は事実を表す表現なので記述可能)
    • カルト(「神慈秀明会はカルト宗教である」は主観的見解なので使用すべきではないが、「神慈秀明会をカルトとして記述された書籍がある」「神慈秀明会をカルトとして批判するホームページが存在する」は事実を表す表現なので記述可能)
    • 虚偽(「離脱の神意は明らかな虚偽である」は主観的表現なので使用すべきではないが、「離脱の神意を明らかな虚偽とする研究を行ったホームページが存在する」は事実を表す表現なので記述可能)

以上を参考に、項目からあいまいな主観的表現を出来るだけ排除し、この項目の百科事典としての価値の向上を目指しましょう。

修正について 編集

書かれていることが、私の知っていることと違うと思った場合 編集

実は神慈秀明会というところは、意外と統制がとれておらず、拠点ごとに個別判断で行っている活動や方針も多いようです。特に新体制以降、この傾向が強まっています。

多くの信者は、自分の拠点しかしらず、その拠点だけで言われていることや行われてきたことを、神慈秀明会全体で行われてきたことであるかのように思い、書き込んでしまうかもしれません。これは、このノートで議論を行うなどして、修正を重ねながら調整していくしかないのですが、ご自分の拠点で当たり前に行われてきたことが、実は神慈秀明会全体の常識ではなかったことが、割とあるということだけ、まずは念頭に置いておいてください。

削除に関して 編集

すでに書かれている項目は、書いた人は事実と思っているから書いたのです。ですから、自分が気に入らないとか、不愉快とかという感情的な理由での削除などもってのほかですが、自分が事実と思わないから、という理由での削除も安易に行わないでください。それが本当に事実ではないのかは、このノートで議論し、その結果、削除すべき物です。

とくにたちがわるいのは、すでに書かれている項目を書き直すという形で、全く違う項目に仕上げてしまうことです。この行動は、削除という行動と、新規追加という行動を一つの行動であるかのようにしており、履歴を分かりにくくするものです。

この辞書は、多くの人のボランティアで作られているので、他の人が、「どのような行動が、どのような理由で行われたか」がはっきりと分かるように履歴を残すべきです。ですから、「削除という行動を行った」「新規追加という行動を行った」ということは分けてください。もちろん、前述の通り、安易な削除は行うべきではありません。 (履歴を見ると、確かに、編集者がすでにある項目を修正して書き直したように見えるものがあるが、実際には、削除して新規追加したものをWikipediaが修正と誤認識してしまっただけなのだと思う。)


最低限、削除ということを行いたい人は、WikiPediaのアカウントをとり、連絡を可能にするべきです。アカウントがあれば、なぜ削除をすべきなのかの議論が可能だからです。

この辞書は、性善説に基づき運営されています。ここでいう性善説とは、参加者がルールを守り、他の参加者の記述を尊重するということです。とくに、この項目の編集者は、この宗教の信者である可能性が高いわけです。ルールを無視した無差別な削除行動などは、この宗教の知性と品位を疑われる結果になることを念頭に置いてください。


現在議論中 編集

会話形式になることが予想されるので、サインを入れてください。サインは、「~」マークを4つ連ねることで入れられます。Wikipediaのアカウントを取得されることをお勧めします。

2008年5月20日より始まった、書式の大幅修正に関して 編集

2008年5月20日より、修正依頼のテンプレートが張り付き、レイアウトや書式、文体の変更作業が始まりました。この話題に関する事はこちらにどうぞ。

GarmaBlue は、この変更を肯定的にみて静観しています。 GarmaBlue 2008年5月22日 (木) 14:48 (UTC)返信

修正を行なった者の一人です。肯定的に捉えていただき、ありがとうございます。記事の容量は減りましたが、それは記事内容の変更または除去を行なったからではなく、同じ語句に対し多用されていた強調と内部リンクの解除によるものです。強調は、基本的に初出の一度だけにして下さい。ほぼ同じ位置にある語句に何度も使うと、くどくなって可読性が損なわれます。内部リンクについては、単語が出るたびにつけず、節が改まった時に再びつける程度を目安にするとちょうど良いかと思います(Wikipedia‐ノート:内容に関連するリンクだけを作成)。少なくとも、ほぼ同じ位置にある同一の単語に内部リンクを繰り返しつけるのは、好ましくなく過剰であると考えられています。また、箇条書き形式で構成されていた箇所は、繋がりのある文章で構成していただきたいと考えましたので、「*」を取り除きました(Wikipedia:レイアウトの指針#記事の構成)。参考リンクは参考文献と同じ扱いとし、最後にまとめて載せるようにしました。適宜脚注を用いて文章との関連性を高めれば、さらに良くなると思います。--草薙 2008年5月22日 (木) 18:28 (UTC)返信

過去の議論 編集

「旧体制は経綸」を冒頭から削除した件 編集

冒頭の文章に対し

1997年からの新体制以降は、過激化していた布教活動や献金活動などを反省し、社会問題の原因になりがちだったそれらの活動を制限し、かなり沈静化した。

という部分を、

1997年からの新体制以降は、過激化していた布教活動や献金活動などを「その時代には必要であった経綸の一部」として理解、社会問題の原因になりがちだったそれらの活動を制限し、かなり沈静化した。

というように修正が行われましたが、私は、文章を「反省」に戻し、「必要な経綸」という記述は、「新体制に対する評価と批判」に移動しました。

理由は次の2点です。

  • 百科事典を利用する一般人が、概要を知るために読む冒頭の文章に書くこととして、「経綸」は難易度、専門性が高すぎる。「経綸」という考え方を一般人に説明するためには、膨大な記述が必要になるだろう。
  • 「新体制に対する評価と批判」に移した記述に記したとおり、「旧体制は経綸」というのは神慈秀明会の正式見解ではない(公式発表でも教義でもない)。本質的には、一部の信者の間で流通している噂のようなものと変わらないので、「新体制に対する評価と批判」に移動した。

この件に異論を述べる場合はこのノートに記述してください。

Brandy of plum 2006年10月2日 (月) 07:25 (UTC)返信


「反省」を文中から削除した件 編集

「反省」が不適当であると判断できる理由

「旧体制は経綸」であるという表現を、より平易な表現にしたほうが良いという部分に関しては、その通りだと思います。

ですが「反省」というのは、神慈秀明会の正式見解ではありません。「神慈秀明会は旧体制を反省した」と正式に発信したことはない。

以上の理由から、「反省」という表現を削除しました。

Brandy of plum 2006年10月2日 (月) 17:09 (UTC) そうですね。「経綸」と書かれるよりは、反省という文字をとってしまう方がよいと思いますので、記述は「反省」なしの、現状の修正のままでよいと思います。なお、「削除」という行為をするなら、Wikipediaのアカウントをとられたらいかがでしょうか。返信

→返答がないので、議論終了としました。Brandy of plum 2006年11月6日 (月) 15:36 (UTC)返信


「教団開祖の一族である小山家に批判が集まっている」を文中から削除した件 編集

脱税問題で「教団開祖の一族である小山家に批判が集まっている」というのは、あまりにも一部であり、客観的に「集まっている」というレベルに達していません。

以上の理由から、「教団開祖の一族である小山家に批判が集まっている」という表現を削除しました。

Brandy of plum 2006年10月2日 (月) 17:09 (UTC) 私は、「あまりにも一部」というのには賛成しませんが、確かに「集まっている」は主観的表現と言えるので、ここは集まっている以外の表現が良いかとと思います。また、私は、教団開祖一族がこの事で批判を受けているという記述を削除するべきではないと思います。そこで、「新たな批判を受けている」としました。それまでに存在しなかった批判を受け始めたという意味です。どれぐらい批判を受けているかの量については言及していません。なお、それ以前の問題として、あなたの修正は、文章として主語(小山家)を失っていましたので、その部分も修正しました。返信

→返答がないので、議論終了としました。 Brandy of plum 2006年11月6日 (月) 15:36 (UTC)返信

「冒頭」

あらゆる活動が沈静化 → 外部への強引な活動は、かなり沈静化した。 という修正について。

あらゆるという表現を、かなりに弱めるのは賛成しますが、「外部」と「強引」は、以下の理由で適切ではないと思い、いったん削除しました。

(なお、WikiPediaの方針として、項目の方に、delタグを使わないように(ノートでの使用を推奨)、となっているらしいので、それは使いませんでした。)

「外部」について。まず、沈静化した活動は、外部に向けた活動ばかりではありません。献金の推進は、社会問題の一因でしたが、至って内部的な活動でした。カレッジなどの本部勉強会も内部的な活動でした。ですから、「外部に向けた」という言葉は適切ではないと思い、取り去りました。

次に、「強引な」活動とありますが、この言葉が少々主観的なのも気になるのですが、それ以外に、例えば、会社を辞めて自己放棄し、一日中布教ばかりしていた人がいたとして、その人が必ずしも「強引な」活動をしていたとは限りません。

この例の場合、布教姿勢が強引なのが問題ではなく、自己放棄と称して社会や家族を捨てさせ、布教に専心させたこと、しかし、新体制になって、こういった人物になんのフォローもせず、知らん顔していることなどが問題なのです。

あなたが「一部の個人や拠点でいまだに旧体制を続けている」と書いたように、東京支部など、個人や拠点の性格として「強引だった」ところはあったでしょうが、会全体の方針として、必ずしも「強引であること」は推奨していなかったと思います。会として推奨していたのは、「自己放棄」であり、「青天井の献金要求」でした。たしかに、その方針が高じて「強引な個人や拠点」が生まれたということは、事実ではありますが、それは冒頭の解説に書くよりも、後段において書くべき事だと思いますが、いかがでしょうか。もちろん、この部分に関して、冒頭にふさわしい簡素、かつ、客観的な表現が可能なら、それをご提案くださってもよろしいと思います。 Brandy of plum 2006年6月27日 (火) 18:20 (UTC)返信

→ 1997年からの新体制以降は、過激化していた布教活動や献金活動などを反省し、社会問題の原因になりがちだったそれらの活動を制限し、かなり沈静化した。

となりました。


「特徴」

教祖の教義は他宗教との交流を好んで行うことになっている。しかし、#離脱の神意という神慈秀明会独自の教義上、教祖が立教した世界救世教との交流は徹底拒否し、対立姿勢を崩さない。また、他の宗教は蔑視し、交流をさせないようにしている。

他の宗教を蔑視し、交流をさせないようにしている個人や世話人や拠点は存在するでしょうが、神慈秀明会自体の特徴とは言えないと思います。

→ 削除されました。

「旧体制の教義と活動」

桃の実献金
(省略) 桃の実献金という言葉は現在でも使用されているが、旧体制時代ほどには重要視されていない。また、旧体制でも新体制でも、献金に対する領収書の発行は行われていない。(ノート参照)

これを修正した方の拠点では、献金の領収書は発行されていないんですね。私の所ではされているんです。これは拠点ごとの個別対応みたいですね。神慈秀明会全体の方針とは言えないようですね。

→削除されました。


このページは、神慈秀明会のマイナス面の宣伝に利用されているように見えるのだが 編集

  • このページを神慈秀明会のマイナス面の宣伝に利用するものは後を絶たないようです。この辞書に投稿しているは神慈秀明会の信者でしょうが(というのは情報が具体的です)、あまりにも内容が表面的で、信仰的な部分が欠けています。これはこの団体の信仰面の指導が徹底していないことを示すもので、このような投稿を許しているこの団体の指導部は、いったい何をしているのかと思いたくなります。それに全般的に記述が長すぎます。枝葉抹消論をなんでもかんでも書くのではなく、本質だけを残し、後は削除、凝縮していくのが良いでしょう。」 たけしうめ
  • 「このページを神慈秀明会のマイナス面の宣伝に利用するものは後を絶たないようです。」について。あなたがご存じかどうか知りませんが、この宗教は、1997年ごろまでの活動に対し、カルト関係のジャーナリストによって「オウム、統一教会レベルの問題ある団体」と評価されていた団体です。当然そのような評価を受けるような活動が実際に行われてきたということです。ネット上でも複数のホームページでカルト扱いされ、参拝所建設には住民の反対運動もよく起こり、ついには信者に犠牲的な奉仕を求めていた教団トップが50億円の私財をため込んでいたことが発覚して新聞に大きく取り上げられたなど、すでにそのイメージは、世間的にはネガティブな方向に傾いている団体です。そうすると、一般人である百科事典の読者は、必然的にそのすでに定着したネガティブなイメージに対する解説を求めるわけです。もちろん編集者も、そのようなネガティブな評価を受ける理由に対する解説に傾きます。たとえば、オウム真理教の解説は、宗教としての解説ではなく、犯罪集団、テロ集団、カルトとしての解説となっていますが、それは世間のオウム真理教に対する認識が、犯罪集団、テロ集団としてほぼ完全に定着しているからです。たとえ信者の中に、オウム真理教は立派な宗教だったと思う人がいても、読者の多くはそのような信者による宗教としての解説を求めません(少数の読者は、そういう情報にも価値を見いだすでしょうから、そのような情報が記述されることには百科事典の記述として意味がありますが、記述の本流にはなり得ません。)。その結果、オウム真理教の解説には、世間の認識に答えるとおり、オウム真理教とはどのような「犯罪集団、テロ集団、カルト宗教」なのか、という解説の記述が中心に記載されています。神慈秀明会の場合、事件の規模や、ネガティブなイメージの定着度などはオウム真理教とは違いますが、神慈秀明会の解説がネガティブな情報に偏りがちなのは、世間のイメージがすでにネガティブ側に傾いていること、そして、一般読者の興味を満たす記述が集まるのは当然、という意味で必然的なのではないかと思います。 GarmaBlue 2006年11月15日 (水) 16:17 (UTC)返信
  • 「でも、神慈秀明会には本当にそんなネガティブな情報しかないのでしょうか?」 そんなことはないんじゃないですか。ポジティブな情報を書き込む人が少ないだけでしょう。たとえば、神慈秀明会の信者は、本部神苑を世界最高のすばらしい建築物だと信じています。あの建物は建築的にも価値があるものなのですから、その神苑についてもっと情報を書けばいいのに、せっかく大見出しを用意してあるのにも関わらず、神慈秀明会を肯定したいはずの「熱心な信者」は、さっぱり書き込んできません。書き込んでくるのは、なんとかイメージを回復したいと「過激」を「活発」に書き直すような、表面的で文章をぐちゃぐちゃにするような修正ばかりです。まずは、そんな小手先のちゃちな小細工をするのではなく、一般の読者でも「なるほどすばらしい面もあるんだな」と思えるような、「具体的な」「一般にも評価されうる」良い点を「客観的に」「変な修飾をせずに」堂々と書き足したらいかがですか? そうすることで、ネガティブな情報を求めて百科事典を読んだ人も、ポジティブな面があるということを知るでしょう。ポジティブな情報を求める人も、ネガティブな情報が有ることを知るようになるわけです。これがまさに、百科事典として用をなしている状態ではないですか? GarmaBlue 2006年11月15日 (水) 16:17 (UTC)返信
  • 「全般的に記述が長すぎます。枝葉抹消論をなんでもかんでも書くのではなく、本質だけを残し、後は削除、凝縮していくのが良いのでは。」について。 長すぎるというのは同意しますが、だからといって削除するというのは適切ではありません。WikiPedia的に、長すぎる項目を短くする解決方法として一般的なのは、項目の分割です。そのうち、離脱の神意や、旧体制の項目を分割することになるかもしれません。神苑大建設の項目も、本気で書かれたら長文が予想されるので、分割の対象になるでしょう。なお、「使用抹消論的と思われる部分の圧縮」を行う際は、このノートでの議論を経てください。 GarmaBlue 2006年11月15日 (水) 16:17 (UTC)返信
  • 「あまりにも内容が表面的で、信仰的な部分が欠けています。」について。 信仰的な部分の表記がWikipediaのような百科事典に必要とは思いません。ただ、それとは別に、表面的というのはまったく同意しません。むしろ百科事典の記述としてはかなり深い事情まで書かれていると思っています。 GarmaBlue 2006年11月15日 (水) 16:17 (UTC)返信
  • マイナス面の宣伝にこの辞書を利用するのはもっともなことだと肯定されていますが、中立の立場に立つお積りが無いのなら、この辞書に書き込まずにご自身のページを作られたらどうでしょうか。ポジティブとか、ネガティブとかそういう議論は他でするべきでしょう。このページを見る限りは、あまりにもポジティブ、ネガティブという私見にまつわる情報が多すぎるように思います。 たけしうめ
  • ネガティブという言葉は、あなたが、このページの記述をさして「マイナス面の宣伝」 という言葉を使ったことに対する説明に必要なので使っているだけです。あなたがマイナス面と思っている物は、実際にはそこに存在する単なる事実にすぎないのです。事実とはたとえば、神慈秀明会が世間からカルトとして批判されている事実であり、この項目において、そういった事実の解説が必然的に多くなっているにすぎません。つまり神慈秀明会には、あなたが言うところの「マイナス面」の数が、通常の宗教よりもどうやら多いらしいので、それの解説が他の宗教に比して多いという自然な成り行きがあるだけなのです。(もちろん読者の興味も、その「多いこと」に対して向くわけです。)あなたが「マイナス面」という言葉を使ったということは、とうぜんあなたの頭の中には「プラス面」という意識があるはずです(つまりネガティブ(マイナス面)とかポジティブ(プラス面)とか言う意識は、私ではなくあなたの頭の中にあるのです。)。それに対し私は「ポジティブ」という言葉を使って説明をしましたが、実際にはそれも単なる事実にすぎません。たけしうめさんが「こういうことをプラスと思うんだろうな」というような記述を、神慈秀明会の熱心な信者はしてこないという事を上で書きました。でも本来事実にはプラス面もマイナス面もありません。あるのは淡々とした事実だけ。神慈秀明会には、あなたがいうところの「マイナス面」が、一般の宗教に比して多いという実情に対し、この項目も、その実情に比例して、あなたがいうところの「マイナス面」とやらが多く解説されているだけなのですが、それがプラス面とかマイナス面とかいう意識をもつあなたには「マイナス面の宣伝」に見えているだけです。(オウム真理教は組織的に大量殺人をおかし、国家転覆を計画していたので、テロ集団としてWikipediaの項目に記載されています。それに対し、仮にも宗教の項目で、その集団がテロ集団だとか書くのはマイナス面の宣伝だということはないわけです。それはプラスもマイナスもない、事実なのですから。) GarmaBlue 2006年11月16日 (木) 21:37 (UTC)返信
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