ノート:藤原実資
2006年7月3日の編集について疑問2点
編集>>これに対し実資は勅符が到達する以前に戦った点には問題があるとしつつも、
と、水野白楓さんが加筆されたのは、諸国申請雑事定の結論、公卿定文に「不可理必被行其賞欤」(必ずしもその賞を行ふを理とすべからざるか)(『大日本古記録本・小右記』寛仁3年6月29日条・次同じ)とあるのを受けてのことかと思われます。
確かにこの定文には実資も署名していますが、直前に「不可謂勅符到不」(勅符の到るか到らざるかを謂ふべからず)(勅符が到達したかどうかは問題ではない)と断言しているので、個人としては無条件での褒賞賛成派といえるのではないでしょうか。定文の内容は、政治的妥協の帰着点だったかと思われます。
>>また、当時政治の一線から退いていた道長もこれを是としている。
と、水野白楓さんが加筆されたのは、小右記とは別資料に当たられたものでしょうか。
小右記にある道長の意見は、
「一日定太早、所感、入道殿同被命此由、両丞相二个年取籠文書、不定申、而承仰後不経幾日定申、太好者」(一日の定は太いに早し、感ずる所なり、入道殿同じく此の由を命せらる、両丞相【左大臣顕光・右大臣公季】は二ヵ年文書を取り籠める、定め申さず、而して【上卿実資らは】仰せを承りて後幾日も経たずして定め申す、太いに好しとてへり)(寛仁3年7月3日条)
や
「大臣達取籠国国司申請文等、二个年不能定申、而汝一日定申、甚賢也」(大臣達【顕光・公季】は国の国司申請の文等を取り籠めたり、二ヵ年定め申す能はず、而して汝【実資】は一日にて定め申す、甚だ賢なりと)(同7日条)
に一見あるように見受けられますが、「二个年」とあるように、これは刀伊の入寇(寛仁3年3月)ではなく、鎮守将軍平永盛申請雑事や石清水八幡宮申請事、二年以上前からの諸国司申請のことを指すといえます。
また、褒詞も「太早」「一日定申」とあるようにスピード決裁に対するものであり、公卿定文の内容については一言も触れていません。
右大臣の地位を狙う実資が道長のテストに合格した瞬間であり、なかなか印象深い記事ですが、小右記からは刀伊の入寇・褒賞決議に対する道長の意見は汲み取れませんでしたので、記事に掲載しなかった由です。
--秋友良哉 2006年7月5日 (水) 19:54 (UTC)
- 情報 上記投稿は当記事の2006年7月3日 03:35:22 (UTC)の編集(差分/6460393)についてのコメントです。なお、末尾に「~ので、記事に掲載しなかった由です」とあるのは、投稿者・秋友良哉さんによる2006年4月16日の編集(差分/5115966/5340867)を指すものと思われます。--Yumoriy(会話) 2024年4月20日 (土) 13:21 (UTC)