ノート:蠣崎氏

最新のコメント:15 年前 | 投稿者:Reonareona

松前旧子爵家は、手元の文献によると太平洋戦争時に当時の当主がニューギニアで戦死して絶えたとなっているのですが、実際のところは存続しているのでしょうか。戦死した当主の弟さんが家を継承したという話を聞いたことがあります。本文では「現在は横浜市に居住している。」となっているので気になりました。

あと、本文では「陸軍上等兵で出征、戦死」となっておりますが、文献によると戦死した当主の階級は陸軍二等兵となっております。これは戦死に伴う二階級特進ということなのでしょうか。--まさふゆ 2008年8月10日 (日) 18:04 (UTC)返信

江戸初期に成立した氏郷記では、蒲生氏郷の配下に夷人(アイヌ?)が毒矢とありますが、その毒矢に当たって、九戸軍が死傷した事実はなく、また、九戸軍の中にも、夷人(アイヌ)が2人いて毒矢でとありますが、鉄砲を恐れて、降伏の際に引き篭もっているとあります。松前志摩守の名前は、ありますが、配下にアイヌがいたという記載はありません。討伐軍の総大将の蒲生氏郷についての氏郷記ですので、江戸初期成立でもあり、松前のアイヌが毒矢でバタバタ九戸軍を倒したというのは、おかしいかと。

また、松前家記は、明治初期につくられたもので、歴史書ではありません。--Reonareona 2008年9月26日 (金) 05:46 (UTC)返信

『松前家記』は確かに後代の記録ですので、ほぼ同時代資料の『氏郷記』を優先させる考えに異論はありません。なお、私が『松前家記』を持ち出したのは、福島町史を参考としたものです。一応公的機関の発行したものに引用していますので(まあ町村の発行した地域史に誤りが屡々見受けられるのは承知していますが)無碍に除去するのも如何なものかという気がします。「後世の記録では云々」のように当初の記述を活かす方策も御検討ください。--ろう(Law soma) D C 2008年9月26日 (金) 07:53 (UTC)返信

どうしても記載したいのなら、松前家記についての説明(信憑性)のうえにしてください。氏郷記で、鉄砲に恐れてる夷人(アイヌ?)が、松前家記で毒矢で九戸軍をバタバタ倒した話しに摩り替えられており、それが歴史読本やWEBサイトに定説かのように普及しているのは驚きですよ。

松前藩は武田信廣を初祖とし、初祖から四世季廣までは蠣崎氏を称した。五世慶廣は氏を松前と改め、慶長九年(一六〇四)徳川家康からの黒印制書を受け、ここに松前藩は成立した。歴代藩主一覧表は次の通りであるが、このなかで六世盛廣は『藩翰譜』、『寛政重修家譜』等では、藩主とは認めていないが、『松前家記』その他では藩主として掲出されているので、混乱を防ぐため、本編では第○世藩主と表示した。>WEBから引用します。幕府が藩主と認めてない人を藩主にしている松前家記の問題点、松前家記は藩が作成したものではなく、旧藩士の新田千里が明治11年に作成したもの。--Reonareona 2008年9月26日 (金) 08:42 (UTC)返信

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