ノート:西太后

最新のコメント:11 年前 | トピック:戊戌変法における袁世凱について | 投稿者:240F:13:BFB5:1:99EA:7FCE:F6C:9E2

ページ名「西太后」について 編集

慈禧太后(じきたいこう)の名は、一般的にほとんど知られていないので、西太后(せいたいごう)としました。ロリ 15:38 2004年3月30日 (UTC)

現在は西太后に対する多様な評価が出ているのに、一昔前の批判一辺倒の評価をわざわざ強調する必要があるのでしょうか?マイナスな印象だけを読者に強調する「現代中国での評価」欄は必要ないと思います。それから光緒帝毒殺の犯人を西太后に特定するような書き方も不公平です。西太后が殺害したという証拠はなく、読者に誤解を与えるような書き方は適切ではありません。以上の署名の無いコメントは、218.107.132.124会話/whois)さんが[2008年11月12日 (水) 02:30]に投稿したものです(Iovzyakasi-01-による付記)。

西太后への悪意的誘導が目立ちます。 光緒帝殺害の犯人が西太后だという証拠はまったくないはずなのに、西太后犯人説に誘導しようとしている。西太后犯人説以外の証言を目立たなくするなど明らかな悪意誘導で公平性、中立性がない。 また、同治帝の皇后は、その突然の死は自殺の可能性は考えられるが、殺害という証拠はないのに殺害と断定しているのは適当ではない。 咸豊帝の子どもが全員早世というのも西太后の責任という証拠はないのに、まるで西太后の責任であるかのような記述はまったく不適当である。栄寿固倫公主は結婚後に死去しており、お産に関係した病死であると思われる。

西太后の評価にまつわる編集ついて 編集

記事本文に、ノートで呼びかけ書くべき内容があったのでこちらに移します。以下は、2008.11.25付けの218.107.132.124‎氏の文章です。

【証拠もなく、中国でも議論中の内容なので、西太后ひとりを犯人に誘導して読者に誤解を与えるような書き方は適切ではありません。公平を期すために両論併記を要求します】 — 218.107.132.124氏

後、私は第三者ですが、ここで話し合いする場合、第三者にも分かるように学術論文等の典拠(頁数等)を示してもらえれば助かります。西太后については、近年東大の村田さんなどが書いておられたりしますが、そういうものを典拠とせず、話し合っても、水掛け論でしょう。--獨頭 2008年11月24日 (月) 23:14 (UTC)返信

218.107.132.124です。現時点でわかっていることは光緒帝の死因は毒殺の可能性が濃厚になったということだけです。西太后が殺害を指示したということを示す証拠はまったくありません。しかし、光緒帝は毒殺された、西太后が殺したという説があるという記述のみでは、他の人物が犯人かも知れないという説があることを知らない読者は、ほぼ100%西太后が犯人だと思い込むでしょう。しかも、西太后以外には犯行が不可能であったかのように、読者を意図的に誘導しようという記述さえ見受けられます。公平を期すために、西太后が殺害を指示したという明確な新証拠が発見されるまでは両論を併記する必要があることを強く主張します。218.107.132.124 2008年11月26日
えっと、他の当事者の方がまだ来られていませんが、ちょっとコメントすると、上にも書きましたように典拠となる査読研究名を他の人にも分かるように提示してください。光緒帝の死因について言及した研究はあるはずですから、それのどの頁に基づいて主張しているのかを示さなければ、多分他の方も納得されないでしょう。また査読研究を示さないと、いずれ「要出典」のタグを貼られ、後日削除されます。ちなみにWikipediaでは独自の研究を記載することは禁じられていますので、史料そのものからWikipedianが判断して書き込むことはできません。さる研究者がこのようにこの史料を解釈しているという書き方は可能ですが。
もう一つ言えば、たとえ査読研究に基づいていても(他の研究者の)多数の支持を得ている説でなければ、同等量の記述をした両論併記にはなりません。そもそも他の研究者が全く支持していない説は書くに値しません。たとえば西太后が毒殺を指示したという説が、ある1人の研究者しか発表しておらず、誰もその説を引用紹介していないのであれば、取るに足りません。またその逆もあり得ます。あるいは以前は有力な説だったが、今では見向きもされない研究というのもありますし。ですので、典拠となる研究の提示と、それを支持する研究なども挙げてもらわなければ、わたしのような第三者のWikipedianは判断できないでしょう。--獨頭 2008年11月26日 (水) 04:23 (UTC)返信

現段階では、光緒帝毒殺のニュースが報じられてからまだ1ヶ月もたっておらず、ネット上では活発な議論がなされていますが、まだ専門家が専論や専著でこの件を論じているものはほとんどありません。CNKIなどでも以前の主流だった病死説の論文がほとんどでした。しかしこれからはこの問題についての研究が大量に発表されるはずです。われわれはその結果について見守る必要があります。一般に光緒帝暗殺の犯人として名前の挙がっている人物は西太后、袁世凱、李蓮英があり、中国の新聞でも西太后、袁世凱、李蓮英、その他の人物の4つの可能性について言及しています。(『新京報』2008年11月4日[1])上述のように、今は今後の議論を見守る段階にあり、現時点で証拠のない西太后を犯人に決め付けるのは不可能といわざるをえません。218.107.132.124 2008年11月27日

219.161.34.188氏がまた西太后を犯人に決め付ける記述に書き換えていかれました。先述のように、光緒帝暗殺の犯人をめぐる研究はまだ始まったばかりであり、現時点で西太后を犯人と断定できる証拠も、学界のコンセンサスもないのに、どうして西太后を犯人と決め付けるのでしょうか?また、別人が犯人かもしれないという説も確かに存在するのに、それを削除して隠そうとするのはなぜなのでしょうか?別人が犯人かもしれないという説も紹介しないと、読者は100%西太后が犯人と思い込んでしまうので、この記述は残すべきです。 219.161.34.188 氏は西太后悪女説を強調したいがために、証拠もない段階で早急に西太后を犯人に決め付けなければ気がすまないのでしょうか。219.161.34.188 氏の記述が中立的な立場のものであるとはとても思えません。218.107.132.124 2008年11月28日

雷家聖氏の新説について 編集

復活されましたが、私もこれは削除されるべきと思います。理由は通説に対して「新説」の範疇に留まっているならばそれのみをここで紹介するのは中立ではありません。書くならばこれまでに蓄積してきた研究を並べた上で、それに対して「こういう新説もある」という形で書くべきです。現状の記事を見た読者は「この新説が正しいのだ。」と思い込む危険性が高いです。らりた 2009年5月10日 (日) 08:42 (UTC)返信

「戊戌の政変の新説」の箇所なのですが、どの部分が「通説」とは異なるのですか? 具体的にはどの論文(あるいは研究書)が「通説」で、どの部分が異なるのでしょう。個人的には彭澤周さんとか、複数念頭にあるのだけれども、確実なことを加筆した人に聞きたいと思うので教えてください。

後、別件ですが、上奏文や史料は普通の人にも分かるように書き下すか、現代日本語訳してくれませんか。論文でも、研究書でも、研究会ででも史料を読みこなせているか確認のため、書き下しか現代日本語訳を併記するのは普通ですしね。まして況んやここは非専門家が読む、(一応)「日本語版」百科事典なんですから。--獨頭 2009年5月22日 (金) 13:37 (UTC)返信

頤和園建造費用について 編集

頤和園建造に海軍の予算が流用されたことは真偽不明とされています。 東京大学の川島真准教授は

「清が圧倒的優位であったはずが、なぜ日清戦争では日本海軍が優位になったのか。この点についてはさまざまな説明がある。典型的な説明は、北洋艦隊の予算の大部分を西太后が頤和園の造営費に充当したため、新造艦の購入、艦船の補修などができなかったというものである。この説明は一見わかりやすいが、真偽のほどは不明だ。一八九〇年代前半の海軍預算の不足については、満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当したという可能性や、多くの海軍費を広東水師(海軍)の増強に充てていた点も重要だ。この広東水師の新造艦船もまた日清戦争に参加して日本海軍に撃沈されている」(川島真『近代国家への模索』岩波新書2010年、6-7頁)

としており、「真偽のほどは不明だ」は頤和園への予算流用にかかっています。しかし59.85.57.253氏はこれを後の「満洲周辺におけるロシアの脅威に備えるために陸軍に経費を充当したという可能性や、多くの海軍費を広東水師(海軍)の増強に充てていた」という部分にかけて、西太后の頤和園への予算流用を事実のように出典の主旨をねじまげています。 さらに、西太后を意図的に光緒帝殺害の犯人に誘導しようとしたり、権力欲が強いようにことさら強調するなど、著しく中立性を欠いています。


西太后殺害説の根拠としてあげている文献のなかには民間に伝わっている野史の類を収集しているだけのものもあり、資料とはとても呼べるものではありません。溥儀の『わが半生』を「裏付けは何もない」とするなら、西太后犯人説にも裏付けは何もないわけですから、そのことを明記しなければ著しく中立性を欠く偏った記述と言わざるを得ません。

中国でも西太后犯人説は定説にはなっておらず、数人いる容疑者の一人にすぎず、証拠もありません。中国第一歴史档案館編研部主任の李国栄氏も、西太后、袁世凱、李蓮英のいずれにも可能性があると述べるにとどめています。さらに李国栄氏は清廷御医の屈貴庭著の『診治光緒皇帝秘記』について、著者は光緒帝が殺害されたことを疑ったものの、誰が犯人かは断定できなかった、としています。[2] 59.85.57.253氏が『診治光緒皇帝秘記』を西太后犯人説の根拠としてあげていることには大いに疑問を感じます。また『清稗類鈔』などは民間に流布している野史を収集したものにすぎず、当然歴史資料ではありません。--118.157.12.151 2012年7月30日 (月) 19:44 (UTC)返信

出典(『光緒王朝』)付きの文章を消して、個人の作文で上書きしないように。あくまで西太后が複数の容疑者の中で有力であるとしか書かれていないものを、西太后が犯人と断定しているかの如く書くのは何故なのか。『診治光緒皇帝秘記』では殺害されたことを疑った、のではなく、それまでの病状と関係が急性症状により死亡した事から暗殺されたとしている。--59.85.57.253 2012年7月30日 (月) 20:25 (UTC)返信

相変わらず出典の主旨をねじまげていますが、日本語が理解できませんか?「真偽のほどは不明」は海軍予算流用の方にかかっていて、日本ではこの説は疑問視されています。後半部分にかけようとするのは出典主旨の捏造ですのでやめていただきたい。 『光緒王朝』を妄信しているようですが、『診治光緒皇帝秘記』やら『清稗類鈔』を西太后犯人説の根拠にあげている時点で学術的に信用できる研究か疑わしい。『清稗類鈔』はただの野史です。何度もいいますが、野史は歴史資料ではありません。せっかく日頃から一次文献に触れている中国第一歴史档案館編研部主任の李国栄氏のインタビューを参考としてもってきたのに、どうして消去するんですか?『光緒王朝』の著者はそれよりも権威があるんですか?それから珍妃が皇后であるとか、もうめちゃくちゃですね。小説や野史の類を歴史と勘違いしないでください。--240F:13:BFB5:1:4B3:CA00:E0AB:DD0F 2012年7月31日 (火) 05:45 (UTC)返信

相変わらず『光緒王朝』を妄信していますが、前述のように『光緒王朝』の記述には信憑性に問題があります。そもそも参考文献としてあげるには著者、出版社、出版年などを明記してください。それから、なぜ珍妃が皇后などというあからさまな史実捏造を書き続けるのでしょうか。歴史とフィクションの混同もはなはだしいです。--240F:13:BFB5:1:4B3:CA00:E0AB:DD0F 2012年7月31日 (火) 07:08 (UTC)返信

  • 歴史学者の著作物を批判したいのなら自分のサイトでやっては如何ですか?それに「崇陵伝信録」は同時代の記録であるし、「我が半生」は野史よりも史料的価値が低いですよ。また、西太后による珍妃や阿鲁特氏の虐待・殺害は歴史的事実であり、あなたは一体何を理由に削除しているのか。
  • 海軍予算流用に関しても奕劻の奏摺や『历史档案2007年第3期』や『瓜分危言』を無視してはいけません、川島真・准教授が可能性を指摘したとありますが、あなたの文章を読む限りでは「可能性を指摘した」だけですよ。新建海軍から頤和園建設への予算流用も奕劻の奏摺中に書かれていますしね。--163.139.167.248 2012年7月31日 (火) 07:46 (UTC)返信

>「我が半生」は野史よりも史料的価値が低いですよ。

はあ?「我が半生」が野史よりも史料的価値が低いとは、何を根拠に言っているんですか?少なくとも溥儀は宮廷で生活し、古くから宮廷に仕える宦官から話を聞いたとしているのに。野史が『わが半生』よりも史料的価値が高いなどとは、理解できません。野史というのは噂話を収集した程度のもので、エホナラの呪いや側室の手足を切って甕で飼うなども民間に流布した野史ですが、それらと大して変わりませんよ。歴史論文に野史を資料としてあげたら100%却下されるでしょうね。野史を資料として扱うなど、学術的とは言えず、お話になりません。--240F:13:BFB5:1:4B3:CA00:E0AB:DD0F 2012年7月31日 (火) 07:55 (UTC)返信

>*歴史学者の著作物を批判したいのなら自分のサイトでやっては如何ですか?

その言葉はそっくりお返しします。出典の主旨をねじまげて勝手に作文しているのはどちらですか。注において、勝手に出典批判して作文されていますが、著作物批判したいなら自分のサイトでやっては如何ですか?少なくても出典主旨への捏造はやめていただきたい。--240F:13:BFB5:1:4B3:CA00:E0AB:DD0F 2012年7月31日 (火) 08:07 (UTC)返信

240F:13:BFB5:1は、出典を削除する荒らし行為を止めること。--42.124.56.159 2012年8月1日 (水) 11:20 (UTC)返信

光緒帝毒殺に関して 編集

240F:13:BFB5:1:383A:BAA4:94D2:BF44は、各説併記されていた内容から、あまり有力視されていない仮説についてのみ冗長に書き連ね、分量の公正さを著しく欠いた誤誘導を図る内容に書き換えましたが、ウィキペディアの方針に反する作為的な編集はお止め下さい。--42.124.56.159 2012年8月1日 (水) 09:52 (UTC)返信

追記:一度はご自分で書いた、ノートで遣り取りした後の文章に、新たな改変を加える所業もお止め下さい。--42.124.56.159 2012年8月1日 (水) 09:56 (UTC)返信

その言葉をそっくりお返しします。そちらが出典にない西太后犯人説を補強する作文をして公平さを欠く誘導してきたので、『わが半生』にの内容を補足しただけです。 それから『光緒王朝』の著者、出版社、出版年、頁数、引用部分なども出さずに参考文献としてあげるのは参考文献のマナーに著しく反するを思いますが。引用部分を出していただかなくては議論になりません。学術的な価値はないとみなしますよ。--240F:13:BFB5:1:3415:89FC:6DD8:7FE 2012年8月1日 (水) 10:39 (UTC)返信

どうやらあなたは参考文献をあげる際の最低限のマナーを知らないようですね。雑誌名や書名だけ書けば引用の形式を満たしていると思っているんですか?雑誌論文を引用するには論文名、著者名などをあげるのは最低限のマナーです。これでは参考文献として認められません。--240F:13:BFB5:1:3415:89FC:6DD8:7FE 2012年8月1日 (水) 12:17 (UTC)返信

自分の気に食わない記事を出典ごと削除する荒らし行為はお止め下さい。また、あまり有力視されていない仮説についてのみ冗長に書き連ね、分量の公正さを著しく欠いた誤誘導を図る内容の出典である『わが半生』の著者、出版社、出版年、頁数、引用部分がありません。もっとも、あったとしても分量が不公正かつ作為的ですが。--42.124.56.159 2012年8月1日 (水) 12:22 (UTC)返信

出典がまるでない注を削除したことをもって荒らし行為というのは、随分な言いぐさですね。あまり有力視されていない仮説というのは西太后犯人説でも同様です。国家清史委員会が西太后が光緒帝を殺害したと決定したわけでもないし、複数の容疑者の一人として名前があげられているにすぎないのに、意図的に西太后犯人説に誘導しようする悪質な荒らし行為です。啓功の伝聞を本文に載せるならば、溥儀の伝聞も載せなければ公平さを欠きますので、削除しないでください。--240F:13:BFB5:1:3415:89FC:6DD8:7FE 2012年8月1日 (水) 12:45 (UTC)返信

出典は注釈に付記していますが、見えませんか?また、諸説併記されている中で、他の全ての説を合わせたよりも多い著しく偏った内容で、袁世凱を犯人かのように誘導する事はお止め下さい。あなた自身の主張と矛盾していますよ。--42.124.56.159 2012年8月1日 (水) 13:36 (UTC)返信

本文の長さをそろえるというならば、啓功の伝聞も注扱いにしてください。あなたこそ西太后説だけ長く書いて公平さを欠いています。--240F:13:BFB5:1:3415:89FC:6DD8:7FE 2012年8月1日 (水) 13:49 (UTC)返信

自分に都合の悪い要素だけ削除しないでください。--240F:13:BFB5:1:3415:89FC:6DD8:7FE 2012年8月1日 (水) 16:55 (UTC)返信

『崇陵伝信録』と『啓功口述歴史』は別の史料・資料、一方の『わが半生』は単一の伝記です。しかも不必要かつ証拠の全く無い感情論でしかない西太后犯人説否定まで長々と載せている、これもあなた自身が批判していた行為ですよ。他の同時代記録を出典として西太后犯人説を幾つも載せましょうか?誰もそんな記事を読みたいと思わないでしょうが--112.138.158.12 2012年8月1日 (水) 19:04 (UTC)返信

あなたこそよほど悪意的に誘導したいようですね。溥儀が光緒帝の甥だと書いてはなぜいけないんですか?こちらの方がよっぽどすっきりしているでしょうに。ことさら西太后の甥の子だとか(事実でもないくせに)、寵臣の孫だとか西太后側の人間のように見せようとして。溥儀は決して西太后にいい感情なんて持っていないのは『わが半生』を読めばわかること。まるで溥儀が西太后側の人間で西太后をかばっているかのように誘導するなんて、悪意誘導以外の何物でもないとおもいませんか?啓功の口述が資料で溥儀の自伝が資料的価値がないというもの、何の根拠があって言っているんですか。溥儀のはただの伝記ではなく自伝です。執筆を助けたライターはいましたが、溥儀本人の著作だと中国政府からも公認されています。啓功の伝聞は資料で、溥儀の伝聞は資料でないなどという根拠のないことを言って、資料の価値判断を勝手にしないでください。それこそご自分のサイトでやられてはいかがですか?--240F:13:BFB5:1:B41F:4807:B094:743E 2012年8月1日 (水) 20:17 (UTC)返信

太監というのは宦官の一般名詞で宦官長ではありません。宦官長ならば総管太監などと呼ばれ、~殿総管太監や~房総管太監など担当宮殿や部署の名前が冠せられます。頂点にいるのが李蓮英や張蘭徳などの大総管です。--240F:13:BFB5:1:B41F:4807:B094:743E 2012年8月1日 (水) 21:14 (UTC)返信

  • 当の太監は張蘭德で大総管、つまり宦官長です。ムキになって、裏付けも取らず浅墓に何でも監でも闇雲に噛みつくのはお止め下さい。
  • これは西太后の記事ですよ、溥儀は西太后の寵臣・栄禄の娘の子で2親等です。あなたが必死に西太后との関連性を薄く見せようと画策しているのは解りますが、史実の溥儀は西太后に大恩の有る西太后側の人間ですよ。--112.139.55.84 2012年8月2日 (木) 11:31 (UTC)返信

それはおかしいですね。張蘭徳は隆裕皇太后時代の大総管で、西太后時代は李蓮英が大総管。李蓮英が宮廷を辞したのは西太后の死後です。張蘭徳が大総管で毒を光緒帝に送ったなどめちゃくちゃなことをいうならば、あながた引いている出典は信用性が相当薄いですね。あなたこそ、検証もせずに適当に書いているだけのように思えますが。引用文で太監と書いて宦官長と翻訳するなら、中国語に問題があるとみなされて普通でしょう。 故意に西太后との関係性を強調して誘導したのはどこの誰でしょうか?『わが半生』の内容は重要部分なので勝手に削除するのはいい加減にやめてください。自分が気に食わない証言を勝手に削除するのは悪質な荒らしです。--118.157.12.151 2012年8月2日 (木) 13:39 (UTC) せっかく各論併記の状態でそろっていたのにまた本文を西太后犯人説だけ長たらしく書いて悪意誘導するのはいい加減にやめませんか。一次文献に日常的に接している中国第一歴史档案館の主任が各種の資料を見たうえで犯人を特定できないとしているのに、根拠も示していない西太后犯人説をとるものを持ち出して決めつける行為はうんざりです。あなたが示した書籍の著者はまったく根拠を示さないで言っているにすぎないではないですか。張り付けるならちゃんとした根拠を載せているならもう少しまともなものを持ってこられてはいかがですか?--118.157.12.151 2012年8月2日 (木) 13:51 (UTC)返信

いい加減に、『わが半生』の内容を改変する荒らし行為をやめてください。『慈禧大伝』は学術書ではなくただの歴史読み物でしょう。慶親王奕劻や隆裕皇太后を疑う説もあるなんて、野史を含めたってそんな説を書いている文献を見たこともない。この著者は適当なことを書いているだけ。資料も根拠も示さずに西太后を犯人に断定する読み物を参考文献にあげるなんて、あきれます。--240F:13:BFB5:1:CD20:37A7:EF63:C4F9 2012年8月3日 (金) 14:29 (UTC)返信

  • いや、おかしくないですね。光緒帝に毒入りおやつを持って行ったのは、西太后が光緒帝を監視させていた小徳張(太監)であり、当時既に李蓮英は年老い列強の北京占領以降は崔玉貴や小徳張が西太后に近侍し宦官を采配していたうえ、品級と官職も高位にあったのだから、宦官長と訳して何の不自然な点もありませんよ。あなたが勝手に大総管と脳内変換して、自分の空想を理由に難癖をつける一人相撲をしているだけでね。
  • また反論出来なくなるとオウム返しですか。各論併記の元となった出典中、あなたは『わが半生』だけ他の出典の倍を大きく超えた分量を記載していますね、誘導の意図が明白です。『わが半生』の著者も何ら根拠を示していませんよ、これは『光緒王朝』の著者が指摘し信憑性が無いと批評している。また『慈禧大伝』の著者・徐徹は歴史学者です、ただの一個人であるあなたが論評したいのなら、ウィキペディアでやらず個人サイトでも立ち上げたらどうですか?--119.83.170.210 2012年8月4日 (土) 09:08 (UTC)返信

>あなたが勝手に大総管と脳内変換して >当の太監は張蘭德で大総管、つまり宦官長です

いいかげんに嘘捏造はやめてください。これはすべてあなたの発言です。矛盾しているどころか、平気で捏造を繰り返しています。珍妃が光緒帝の皇后で正妻だとか、溥儀が西太后の甥の子だとか、明らかな捏造と自己矛盾を混ぜてまで悪意誘導しようとするのは明らかな荒らし行為です。『わが半生』の内容をわざと短縮する行為は、なぜ西太后が当時幼帝を擁立しようとしたかを読者にわからなくする悪質誘導以外のなにものもはありません。いい加減に荒らすのはやめてください。根拠となる資料を示さない読み物をあげても西太后犯人説をなんら補強するものではありません。--240F:13:BFB5:1:A4A6:2879:CA3C:291E 2012年8月4日 (土) 16:27 (UTC)返信

ちゃんと新規の記事も読みましょう、『わが半生』の内容はあなたのご希望通り何の根拠も無い作為ある憶測まで載せていますよ、もちろんその反証になる『慈禧大伝』も載せてますがね、出典を理由も無く削除する事は禁止されている、止めろ。また、捏造はそちらですよ、私はまず太監(宦官長)としか書いていない、皇帝や皇后や太后それぞれの宮房に品級・官職の高い太監のまとめ役が居た、それをあなたが勝手に大総管と誤って解釈した、そして当の太監は小徳張なので大総管である事もまた間違いない。--112.138.152.32 2012年8月4日 (土) 22:58 (UTC)返信

溥儀が西太后犯人説を否定する根拠である重要部分を勝手に削除するのはやめてください。あなたが読者に内容をわからなくするためにあえて削ろうをしているのはわかっています。珍妃が皇后とか、お笑いな捏造を数回にわたって書き続けていたのは何だったんですか?--240F:13:BFB5:1:AC60:A222:EFA6:5FD0 2012年8月5日 (日) 00:55 (UTC)返信


戊戌変法における袁世凱について 編集

変法派が西太后幽閉を計画していたこと、袁世凱が変法派を裏切っていることは事実です。近年学会で出された疑問というのは袁世凱の密告が西太后のクーデターの直接の引き金になったわけではないのではという点にすぎません。袁世凱が栄禄に変法派の計画詳細を密告していることは同時代の陳夔龍の『夢蕉亭雑記』にも記されており、まぎれもない事実です。また、西太后幽閉計画も畢長年の『詭謀直紀』でも明らかにされています。また、戊戌政変後に変法派に近かった人物は軒並み左遷されているのもかかわらず、袁世凱だけが破格の出世をとげているのは変法派への裏切りという功績によるものであり、変法派から裏切り者として怨まれていたこともまぎれもない事実です。袁世凱の裏切りはないなどと捏造するのはやめてください。--240F:13:BFB5:1:5977:97EF:8B80:8E0D 2012年9月10日 (月) 11:46 (UTC)返信

『戊戌変法中袁世凱告密真相』を出典に挙げながら、そこに無い記述や内容を酷く捻じ曲げて伝える事はお止め下さい。また、出典とした『戊戌日記』に該当する文章は存在しません。西太后派が光緒帝派の親政開始計画より先にクーデターの密謀を行っていた事実を、記事から恣意的に削除する行為も止めて下さい。--112.138.153.178 2012年9月15日 (土) 10:59 (UTC)返信

240F:13:BFB5:1:4195:9B50:2477:C4A4氏は、『戊戌変法中袁世凱告密真相』等の出典中の文意を大幅に改変した記述と出典に基づいた記事を削除する行為をお止め下さい。--122.103.149.108 2012年9月18日 (火) 07:52 (UTC)返信

袁世凱の密告に関する部分は全て『戊戌変法中袁世凱告密真相』の内容です。袁世凱が変法派のクーデター計画を密告した功績により、署理直隷総督に任じられ、新建陸軍の費用として4000両も与えられたことはまぎれもない事実です。それから戊戌変法に反対したのは守旧派だけではなく改革派も含まれています。東京大学の川島真准教授の著書にもそのことが明記されています。変法に反対=守旧派というレッテル張りはやめてください。

『光緒王朝』や『清朝大歴史』には守旧派とあり、具体的には奕劻、栄禄を筆頭を筆頭とした軍機・親貴と明記されている。一方、川島の著書の当該部分に引用されてる史料や参考文献は記事に書かれていない。--122.103.149.108 2012年9月19日 (水) 07:14 (UTC)返信

寇連材の処刑と戊戌変法は全く関係ありません。寇が処刑されたのは1896年で戊戌変法の前です。寇が処刑されたのは、ある意味当然といえます。清朝では宦官が国政に関与することを禁止していましたから。宦官の立場で上奏するなど当時としてはとんでもない越権行為にあたり、西太后が処刑したのも当然です。戊戌変法に関係ない寇の処刑事件を無理やり戊戌変法に結び付けるなどと、李嵐の本がいかにいい加減なものかがよくわかりました。戊戌変法で改革派も変法を支持していないのは有名な話です。たとえば張之洞はもともと康有為の理解者でしたが、康の急進的なやり方に反発して批判しています。もう少し勉強されてはいかがですか?

いい加減に戊戌変法と無関係の寇連材処刑事件を無理やり戊戌変法と結びつける荒らし行為をやめてください。戊戌変法のずっと以前に起きている寇の処刑を無理やり関連付けて、時系列がめちゃくちゃです。適当なことを書かないでください。

光緒帝の親政が始まり、変法自強運動を開始したのは1895年の春から夏に掛けてですよ、それくらい知っておいて下さいね。西太后の腹心であった寇連材は傀儡皇帝光緒帝への同情のあまり、死を冒して西太后の専横と光緒帝の監視を止め実質的な親政を認めるよう訴えたのが要点で、大事なのは訴えの内容と西太后付きの腹心だった点。張之洞が維新派への援助を打ち切ったのは、維新派の儒教否定が儒学徒の張之洞には受け容れられなかったのと、西太后が維新派の変法運動潰しに動き始めた後の保身ですよ、それくらい知っておいて下さいね。それと署名くらいしましょうね--42.124.12.138 2012年9月19日 (水) 10:56 (UTC)返信

あの項目は戊戌変法の記述をしている部分です。1898年の話のなかに突如として1896年の関係のない記述をするのは適当ではないというのがお分かりになりませんか?日本語としても読んでいておかしいとは思わないのですか?宦官の身分で禁じられていた国政への口出しをして処刑されたのは、ある意味当然であり、それまで西太后を悪女として印象付けるために無理やり戊戌変法に結び付けようとするのはどうかしています。無関係のことを無理やりこじつける荒らし行為はやめてください。--240F:13:BFB5:1:A438:13AD:5EAF:5C5A 2012年9月19日 (水) 12:39 (UTC) それから維新派の儒学否定が張之洞が受け入れられなかったというのも、めちゃくちゃですね。康有為は儒学否定などしていません。康有為自身は誰よりも自らが儒学者であると自認している人物です。ただ彼の公羊学的教義と過激な行動のために異端視されていたというだけです。張之洞が康有為批判をしたのは変法運動失敗後ではありません。それ以前から康有為への援助を打ち切っており、変法失敗前から2人は決裂しています。変法派=儒学否定、変法に反対=守旧派だとか単純化してレッテル張りするのはやめてください。--240F:13:BFB5:1:A438:13AD:5EAF:5C5A 2012年9月19日 (水) 12:51 (UTC)返信

戊戌変法は光緒帝の親政と変法自強運動からの一連の流れ、自分の気に食わない史実を書かれるのが嫌なら個人サイトでも立ち上げて好き勝手に書くといいですよ、誰にも邪魔されませんから。あなたは日本語が読めませんか?寇連材が傀儡皇帝への同情から、死を冒して西太后の専横と光緒帝の厳重な監視を止めるよう訴えたのが要点だと既に書いた。西太后の維新派敵視の動き(クーデター以前にね)と維新派勉強会の儒教否定が、張之洞が維新派への支援を打ち切った最大の要因です、張之洞も後にやむを得ず支援を止めた事を嘆いている。--42.124.12.138 2012年9月19日 (水) 13:06 (UTC)返信

戊戌変法の項目で1898年の記述の中に突如として1896年の無関係な記述をまぜるのをやめてください。この記事を読んだ読者が戊戌変法期間中に処刑事件がおきたのではないかと誤解させるためのミスリードですね。あなたこそ日本語が読めないようですね。--240F:13:BFB5:1:A438:13AD:5EAF:5C5A 2012年9月19日 (水) 13:29 (UTC)返信

日清戦争敗北後の光緒帝親政開始直後の光緒21年から変法自強運動は始まっています、自分の気に食わない出典と記事を削除する行動は色々な面で止めた方がいいですよ。それと、具体的な維新派高官の名前や変法派官僚の批判が高まっていたする史料や文献の提示がありません、川島の本にそうあると主張してもそれを否定する論旨の『光緒王朝』や『清朝大歴史』もある、一方的な記述のみを書く事も同じく許容されません。--122.103.149.108 2012年9月20日 (木) 08:32 (UTC)返信

あなたこそ、いい加減に戊戌変法と無関係の寇の話を書き続けるのをやめたらどうですか。寇は変法派のメンバーでもなければ、戊戌変法期間と時期も違う無関係な案件なのに、戊戌変法の記載のなかにまぜて、読者が戊戌変法期間に起きたことのように錯覚させるミスリード記載をやめてください。--240F:13:BFB5:1:8DE7:8029:9546:2E1 2012年9月20日 (木) 10:28 (UTC)返信

戊戌変法と無関係な記述を書き続ける悪質記述をいい加減にしていただけませんか。ただの意味のないこじつけにすぎません。--240F:13:BFB5:1:E06E:822C:50D8:B22C 2012年9月21日 (金) 18:16 (UTC)返信

戊戌変法と無関係の記述は前方に移転させました。それから、自分が気に食わない内容を勝手に削除する行為(変法に反対したのは改革派も含まれていた)はやめてください。--240F:13:BFB5:1:351E:4FAB:D477:68C3 2012年9月22日 (土) 03:15 (UTC)返信

変法自強運動と戊戌政変と書かれた表題が読めませんか?寇連材の諫死は変法自強運動以後の出来事なんですが。また、自分が気に食わない出典と記事を理由無く削除する行為を止めなさい、至極一般的な通説や『光緒王朝』では、エキキョウや栄禄などの守旧派高官が西太后と共に維新派の変法運動を潰したとなっている。--119.83.170.181 2012年9月22日 (土) 16:12 (UTC)返信

自分が気に食わない記事を一方的に削除しておいて、なにを偉そうにしているんですか。変法に反対していたのは守旧派のみならず改革派も含まれていたことを書かれるのがよっぽど都合が悪いんですか?寇の事件を変法運動の一部とするなんて、あなたの勝手な解釈であり、そんなことは認められてはいることではありません。何度も書きますが、寇は変法派のメンバーでも何でもないし、無関係なできごとのこじつけにすぎません。--220.9.107.26 2012年9月22日 (土) 23:07 (UTC)返信

いい加減にしたらどうですか?あなたが何様か知りませんが、東大の先生が書いたものを根拠不明扱いするなんて随分傲慢ですね。それを言ったら李嵐の本のほうがよっぽど怪しいし、慈禧大全が光緒帝毒殺について、他のものがそんなことするわけないから西太后が毒殺犯人だと言っているのこそ根拠を全く示していないじゃないですか。怪しげな本を平気で出典に使っているくせに、日本の最新の研究を反映して書かれた岩波の本を根拠不明扱いにするなんて、傲慢にもほどがあります。岩波の歴史書が日本でどうゆう位置づけかご存じないんですか?--220.9.107.26 2012年9月24日 (月) 11:46 (UTC)返信

  • 変法に反対していた改革派の具体例や具体名は、まだ挙げられないのですか?勢いで何となく書いたのでなければ、引用している史料や文献を明示すればいいのに。
  • 寇連材の諌死は変法自強運動開始後の出来事、かつ西太后の光緒帝親政に対する掣肘を止めよと云う訴えで、これが変法運動に関連しない等とどういう屁理屈で主張するのか教えて欲しいね。
  • もう一度言いますね、変法に反対していた改革派の具体名と具体的な反対事例を何故提示しないのか?引用している史料や文献は何ですか?
  • 江上波夫は元東大教授です、准教授より教授の方が官職としては上なのは解りますよね。
  • 李嵐は資料の豊富な本国で清史編纂に携わる研究員の一人、川島真は日本の准教授。
  • 『慈禧大全』は川島真の本と違い根拠を書いています、1つ宮中の最高権力者は西太后、1つ光緒帝が拘禁されていた瀛台は西太后の厳重な監視下にあった、1つ光緒帝の世話役は西太后の重用していた宦官、決定的な証拠ではなくとも十分な傍証にはなる。--122.103.149.108 2012年9月25日 (火) 06:27 (UTC)返信

はあ?江上波夫っていつの時代の話をしているのか?現役で活躍する研究者とでは、ひと昔もふた昔も前の研究者の名前出しても比較にもなりませんよ。川島氏の本が出たのはつい最近のもので日本の最新の学説を反映させてます。日本の学会でいまどき戊戌変法が単なる守旧派と革新派の対立だなんて言ったら笑われますよ。『慈禧大全』が根拠を示しているなんて、笑わせないでください。なんの文献的証拠も出してないじゃないですか。世話役が西太后の宦官といっても、その宦官のなかに犯人がいた場合は?たとえば宦官のトップだった李蓮英が犯人だった場合や、袁世凱に買収された宦官が犯人だった場合だって十分に考えられるのに、ただ適当に言っているだけじゃないか。西太后が命令して実行されたという信用に足る文献的証拠を何一つあげていないのに、根拠とはひどいものだな。そんなレベルの低い本を出典に使うべきではない。自分は低レベルな本を挙げておいて、東大の先生の本を根拠不明扱いとは、笑わせる--220.9.107.26 2012年9月25日 (火) 11:36 (UTC)返信

>これら、政治制度へ手を付けず技術的な革新を推し進める、中体西用に代表される価値観の洋務派官僚層の一部は、後に変法運動に代表される政治改革を拒む勢力となった[8]、と主張する学者もいる。

いい加減に荒らすのはやめてください。原著のどこにも政治改革を阻む勢力になったなどと書かれていません。改革派にも変法に反発する人々がいたということです。日本語が読解できないんですか?それともまたお得意の捏造ですか?著者の意図を勝手に捻じ曲げて、悪質極まります。--240F:13:BFB5:1:B541:6BD7:F14F:E473 2012年9月27日 (木) 10:41 (UTC)返信

元文には変法派などとは一言も書かれていません、文意を捻じ曲げる改竄は止めよう。洋務運動を担った李鴻章、同じく曽国藩門下の馮桂芬、日清戦争に敗れて頓挫した洋務運動の推進者で典型的な中体西用論者です、当初から変法運動の賛同者ではない、張之洞が西太后の維新派潰しでやむ無く保身を図ったのは前述の通り、荒らし行為を繰り返す前にいい加減質問に答えて貰えませんかね。--112.139.3.62 2012年9月27日 (木) 13:55 (UTC)返信

日本の学説では戊戌変法が守旧派vs改革派という構図ではないことはとっくに常識になっているんですけど?なぜ日本人の学説をいちいち排除するんですか?川島真も吉澤誠一郎も改革派を含む官僚・士大夫層が変法を支持していなかったとしている。朝廷の高官のみならず改革派を含む官僚・士大夫層も変法派を支持していなかった。そこに戊戌変法が失敗した原因がある。穏健的改革派は政治改革を拒んだのではない。康有為のやり方についていけなかっただけである。変法派以外はみんな政治改革を拒んだとか、守旧派だったかのような捏造はいい加減にやめてください。--240F:13:BFB5:1:EC87:301D:133A:647B 2012年9月27日 (木) 14:29 (UTC)返信

話のすり替えは止めて貰いましょうか、変法派に代表される立憲制・高級官僚も参画させる内閣制・地方議会実施などを目指した体制改革派と洋務運動を進めた体制維持しつつ技術改革を進める派、2つの異なる志向を持った派を同じ単語で括らないように。戊戌変法は体制改革派の運動、そして戊戌政変が守旧派の巻き返しによって引き起こされた。新規部局や役職の設置・職権改定によって冗官や権限が廃止・縮小される、総督・巡撫や各衙門を筆頭とする旧弊となっていた非効率な体制を構成する大多数の官僚・士大夫層は、当然反変法であり守旧派です。また、維新派ではない穏健的改革派軍機が纏めた立憲体制・議会制を実行すべしとの上奏を却下したのは他ならぬ西太后。最後に、自称日本の定説とやらが、実世界で事実常識となっているなら、その中身を具体的に書けばよろしいんじゃないでしょうか。--122.103.154.104 2012年9月28日 (金) 08:03 (UTC)返信

いい加減に日本の説を全部消す悪質な荒らしをやめてください。複数の新しい著作を示しているのに、一方的に消す悪質な荒らしです。変法に反対する側は穏健改革派も含めてすべて守旧派というのはあなたの勝手な解釈です。あなたが変法に反対した勢力は全て守旧派だったという論文でも書いて発表すればいいじゃないですか。いまどき誰も相手にしてくれないでしょうが。では、逆に聞きますが、守旧派の代表として奕劻をあげていますが、彼は戊戌変法中にどのような言論によって変法に反対する論陣を張ったんでしょうか?当時軍機大臣の職にあったというだけで、守旧派代表として反対したのだろうと適当にあげられているだけではありませんか?光緒王朝、慈禧大全などの低レベルで怪しい本を出典として使いながら、日本の著作を排斥するのはいい加減にしたらどうですか。--240F:13:BFB5:1:4B6:AC04:42A0:2D69 2012年9月28日 (金) 08:26 (UTC)返信

何時どの版で何を全部消したと主張するのか、具体的に明示して貰いましょうか。洋務運動を担った技術改革派の概要を戊戌変法の項に書くのはいい加減止めて下さい。 また、あなたは2012年9月25日 (火) 06:27の質問に対して未だに何一つ答えていませんが、答えられないと判断していいですね? 川島本にあるのは変法派ではなく、改革派という表記で、日清戦争で頓挫した洋務運動を推し進めたのも改革派であり守旧派な面子です。 「では、逆に聞きますが」などという物言いは、まともに人の質問に答えてから言うことです、人の質問から逃げ回っている分際で見苦しい。 それから戊戌変法中の上奏相手は光緒帝です、帝党が守旧派から構成される軍機を外して京卿による新たな内閣を発足させ礼部堂官を全員免職した状況下で奕劻が皇帝に刃向かう筈が無いでしょう、況して御前で論戦を吹っ掛けるなどそれこそ寇連材と同じく処刑に値する暴挙ですよ。--112.139.3.62 2012年10月1日 (月) 10:31 (UTC)返信

寇連材のやったことが暴挙だと認めているなら、なぜ西太后悪女を強調する文脈でだけ書き続けるんですか?あなたこそ矛盾してますね。だったら寇連材の行為が常識はずれだったとちゃんと書かないと中立的立場じゃないと思いませんか?こちらは複数の日本の学術書を提示しているのに、勝手に文脈を変えたり削除する見苦しい荒らしはいい加減にしてください。

いい加減にしてください。あなたの方こそ、全くこちらの質問に答えてないじゃないですか。慈禧大全が証拠もないのに憶測で犯人に断定しているに過ぎないこと、寇連材の行為が暴挙だと認めているのにしつこく書き続けることについては回答なしですか?改革派のなかに康有為の説に同調できない層が確かに存在したのに、守旧派あつかいするのはいい加減にしてください。あなたが自分の解釈がしたければご自分のサイトでやってください。--240F:13:BFB5:1:1D96:6BED:8300:D69F 2012年10月8日 (月) 23:11 (UTC)返信

何度も解説したように、洋務運動を推進した技術改革派は政体維持派であって、政治制度改革を志向した変法派とは全く志向が異なります、技術改革派であり政治的には守旧派、これは洋務運動推進者の一般的な志向です。 あなたは、溥儀の我が半生が証拠も何も無いのに憶測で犯人に断定しているに過ぎないことを理解してますか?--122.103.154.104 2012年10月10日 (水) 07:12 (UTC)返信

いい加減に日本人の説を消すのをやめてください。村田氏の著書は康有為の説がなぜ支持されなかったのか非常に詳しく書いてありますよ。康有為以外は全部守旧派とか、いい加減にしてください。戊戌変法が失敗したのは守旧派、穏健改革派、帝党大官、変法派内部も含めて支持されなかったからにほかなりません。張之洞が康有為に反対した理由、当時の改革派を含む知識人から拒絶された理由もちゃんと書いてあります。--240F:13:BFB5:1:BD8D:5BD7:5364:9AA4 2012年10月10日 (水) 08:55 (UTC)返信

>溥儀の我が半生が証拠も何も無いのに憶測で犯人に断定している

溥儀は当時の事情を知る宦官から話を聞いています。現代人がなんの根拠もなく犯人と断定するのとどこが一緒なのでしょうか?溥儀の証言と慈禧大全の作者の憶測を一緒にするなんて、全く意味不明です。--118.157.12.151 2012年10月11日 (木) 17:44 (UTC)返信

溥儀は宦官から事情を聴いた「その後に別の宦官から」事情を「間接的に知っているとする宦官」から聞いた「と何の根拠も無く主張している」だけです、一方の慈禧大全は史料を引いている。慈禧大全への難癖は個人サイトを立ち上げて独自研究発表すればいいと思いますよ。--112.139.59.114 2012年10月14日 (日) 06:51 (UTC)返信

いいかげんに荒らすのはいい加減にしてください。村田氏もはっきり穏健改革派と守旧派を分けています。そして康有為も中体西用論をとっている。康有為だけが改革派で他が守旧派や中体西用論者などというあなたの勝手な解釈をしたければ、勝手にサイトを立ち上げてください。

溥儀の説が間接的に聞いた話だと言うならば、啓功の説も間接的に聞いた話にすぎません。いいかげんにダブルスタンダードで矛盾する記述方法で西太后犯人説ばかり強調する卑劣な荒らしをやめてください。翁同龢、孫家鼐も厳復も黄遵憲も地方大官ではありません。慈禧大全が史料をひいているとか、嘘つかないでください。西太后犯人説を補強するいかなる資料名もあげておらず、憶測を書いているにすぎません。

それから、あなたは維新派が儒教否定したとか言ってましたが、いつ維新派が儒教否定したか教えてくださいよ。康有為こそ、儒教を西洋におけるキリスト教のような宗教にしようと熱心に運動していた人物なのに、儒教否定なんてするわけないじゃないですか。康有為のこと何もわかっていないくせに、維新派が儒教否定したとか、康有為派以外は全部守旧派とか、おかしなこと書き続けるんでまったくあきれます。

--240F:13:BFB5:1:3011:AA5F:DF36:E9E5 2012年10月14日 (日) 10:23 (UTC)返信

同じく政治制度改革を志向する変法派と技術改革に留める派も分けていますよ、また何度も説明した通り張之洞は後に西太后の意向を受けて保身為に変法派の支援を止めた事を悔やんでます、自分に都合が悪い情報を無視するのはいい加減止めてはどうですか。 溥儀の説と啓功の説が共に間接的に聞いた話として同じく注釈扱いとしたのは私ですよ、あなたは特に立場上信憑性の欠ける溥儀の説のみを本文に表記する事に固執していた、既に反省したようなので何も言いませんが。 翁同龢以下は変法支持で反対などしていません、一部の急進的な変革に懸念を示しただけですよ。 西太后が宮中に於いて絶対的権力を握っていた様子は崇陵伝信録や清史稿や清廷戊戌朝変記にも書かれてますよ、慈禧大全の引く崇陵伝信録や清史稿が史料でない又は信憑性が無い事を証明して貰いましょうか。 光緒帝と変法派は日本の立憲体制と地方政治制度を模倣して、総督巡撫の並立に代表される多数の冗官を置く制度がもたらす、牽制による漢人の大権把握により清朝を脅かす勢力の誕生防止の目的と併せ、必然的に起きる行政の非効率と汚職の蔓延を排除すべく変法派は重複する官職を廃止による効率化を志向したのに対して、洋務運動を担った技術改革派は李鴻章が反対し張之洞も西太后の意向により手を引いてますよ。されに加え、技術改革運動が結局は日清戦争で頓挫し各地に軍閥を産み落としただけである事は日本人学者としてふつうの見解ですしね。--59.85.38.211 2012年10月17日 (水) 17:24 (UTC)返信

康有為も中体西用論者であることは村田氏の著書が明らかにしている。変法の反対者が中体西用論者ならば康有為も中体西用論者だ。中体西用論は当時のすべての改革を訴える中国知識人が主張していたことだ。中体西用論者が改革派ではないなどとはこじつけだ。 張之洞は西太后の圧力で変法に反対したのではなく、康有為の孔教国教化運動に反対だったから康有為に反対の論をだしたことは村田氏の著書で明らかにしている。日本の複数の本で改革派という言葉が使用されているのに、執拗に削除する荒らし行為をやめてください。 清史稿には西太后が光緒帝殺害の犯人などとは一言も書いていない。まったく証拠になりません。適当なことを書かないでください。 それから維新派が儒教否定をおこなった証拠はいつ見せてくれるんでしょうか。都合の悪い時だけ逃げないでください。--240F:13:BFB5:1:99EA:7FCE:F6C:9E2 2012年10月17日 (水) 20:00 (UTC)返信

義和団の乱とその後の項で 編集

以下の記述があります。

「1905年には5人の大臣を日本と欧米に派遣し政治制度を視察させたが、李鴻章ら五大臣の奏摺した「中央の上級官吏を政務にも参与させ議院の基礎とする旨、また(以降略)」

李鴻章は1901年に亡くなっているはずなので、上記は疑問のある記述ですが、なにか根拠となる出典があるのでしょうか?

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