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最新のコメント:2 年前 | トピック:出典無き記述の差し戻しについて | 投稿者:みそがい


忌み名と言うと始皇帝の政とか高祖の邦とかを指すのではないのですか?らりた 14:10 2004年2月4日 (UTC)

メイビー、諱は死者の生前の本名のことで、昔のちゃいな人は他人が本名で呼ぶのを忌み嫌っていたからだそうで、後に死後の人に送る諡と同じ使い方をされるから、それでこんがらがったんじゃないかと。来 国俊 14:31 2004年2月4日 (UTC)

「忌み名」は「諡」「諱」のどちらを指すこともある。一般的にいうと「諱」の方、すなわち貴人(帝王など)の実名を指すことが多い。例えば、漢の高祖の「いみな」(諱)は劉邦、廟号は高祖、帝号は高帝。清の康煕皇帝の諱は愛新覚羅・玄燁、廟号は聖祖、帝号は仁帝である。


ほとんどの君主はこの両種類の諡を持っているが、例外として、末帝や廃帝には廟号が上られなかった。廟号を得るとは太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味し、崇めるに足りなかった廃帝や、皇朝の末代にそのような待遇はされなかったのである。

崇めるに足りなかったというよりも、「廟所に祀るのは子孫なので、皇統が途絶えて祭主がいなくなってしまったため廟号がない」という方が正しいのではないでしょうか。Njt 2004年11月3日 (水) 00:06 (UTC)返信

Njtさんの言には賛意を表しかねる。廃帝以外に、子孫なくして廟号奉らる例は数えきれぬ。晋の景帝、唐の文宗、明の武宗これなり。よく調べよ。 - Jenny

本文中で >ただし、日本では悪諡は適用されていない。 とありますが、仲哀天皇は悪諡じゃありませんでしたっけ?--219.113.214.70 2006年7月2日 (日) 16:39 (UTC)返信

むろん悪諡じゃありません。「仲」は悪字のはずないし、「哀」の方は平諡だ。「諡法解」曰く、「蚤孤短折曰哀。恭仁短折曰哀」。早死に以外に貶めの意義はもとより無い。「哀」が悪字だったら相当の人数に上る皇帝皇后が悪諡となってしまう。「昏」「夷」なら別の話だが。 - Jenny


読みがな 編集

用語の読みがよくわからないのですが、以下のような読みで合っているのでしょうか。

国風諡号
こくふうしごう
漢風諡号
かんふうしごう
追号
ついごう
和風諡号
わふうしごう
国語諡
こくごおくりな
本朝様諡
ほんちょうようおくりな
悪諡
あくし


「諡についての質問」 上(美諡)・中(平諡)・下(悪諡)の表を分けて下さい。よろしくお願いします。(哀が平諡だとは知りませんでした。また恵帝の恵も上と見れるのですが、悪い業績(前漢2代皇帝が少なくとも悪行をしたわけではありませんが・・・)の皇帝に付けられると聞いたことがあるので・・・わからない場合。恐れ入りますが、どこを検索すればよいでしょうか?

後日本で崇徳帝でもそうですが徳のみならず「崇」も祟りを恐れての意味でしょうか?(実際祟り=崇とも書きますし・・・)崇神天皇の場合、神武天皇と同一視する説等の良い意味と戦乱(京都祝園での戦いや祭祀を非常に重視(奈良県では崇神天皇に由来する神社が多数あります)がありどちらかはっきりしません。(他のHPでは崇神天皇が葛城王朝(先代10代)を滅ぼしたためとあったので・・・) 難しいのでわかる範囲で結構ですのでよろしくお願いします

こちらのホームページに謚の意味に付いて書かれているので、そちらを参照の程を。らりた 2006年10月11日 (水) 12:40 (UTC)返信

上(美諡)・中(平諡)・下(悪諡)という諡の区分についてですが、どうも独自研究の疑いがあります。諡のサイト以外に典拠が見いだせません。この諡の区分については、ネット上で独り歩きしておりますが、学術書で見られないばかりか、『逸周書』、『康煕字典』等にもこのような記述は全く存在しません。ちょっと井戸端で相談してこようかと思います。--中根東竜会話2012年6月16日 (土) 12:48 (UTC)返信

井沢元彦説の扱いについて 編集

徳字の復帰した記述は「井沢元彦」の説を紹介する記述ではありません。また井沢元彦の説を紹介する必要性もありません。「井沢元彦」について触れているのは「単にそういう事を言う人がいるから」にすぎず、実態としての「徳」の仕様を出典を持って示しているのです。井沢元彦の著作が『Wikipedia:信頼できる情報源』に該当するなら出典をもって示す必要がありますが、専門家に否定されている「小説家」は該当しません。本来ならば「信頼できる情報源」に該当しない説などは紹介する必要はないのです。

更にGOKGOKさんが復帰された記述には、「改めて「後鳥羽」の追号を贈り直す事となった。これにより怨霊封じとして徳の字を贈る習慣は終わった」とありますが、出典で示されるように、「順徳」の追号が贈られたのは、後鳥羽追号の7年後です。もしこの記述が井沢元彦の著作にあるのなら、信頼に値しない著作であるとしか言えないでしょう。--126.108.74.23 2021年3月16日 (火) 12:57 (UTC)(修正)--126.108.74.23 2021年3月16日 (火) 13:09 (UTC)返信

あのですね。ウィキペディアで「紹介するに値しない」記述であるなら、その記述ごと削除すればいいのです。紹介する必要の無い記事は、否定する必要もないのです。その点が間違っています。否定するのであるなら、その否定する説は何であるのかの紹介は必要です。--GOKGOK会話2021年3月17日 (水) 08:59 (UTC)返信

「徳」という字は怨霊封じの説だという俗説が存在していることは、他の記事にも書かれている「豊臣秀吉が矢作川の橋の上で蜂須賀小六と出会った」「ウナギと梅干しを食べると食あたりをおこす」とかいうたぐいと同様で、「信頼できる情報源」に書かれていないが、広く広まった俗説です。実際、「信頼できる情報源」に該当しない論文やweb記事でその旨が唱えられているのを数件確認しています。ただし、広く広まったからといって正しいわけではありません。この場合は信頼できる情報源で確認できる部分で正確な記述を行うことで、「俗説」が学術的な裏付けのあるものであると勘違いすることを防ぐことができます。俗説を詳細に説明する必要は必ずしもありません。地球の項目には地球平面説について詳細に触れていないのと同じようなものです。

それと「順徳の追号は後鳥羽追号の7年後」という事実から、「改めて「後鳥羽」の追号を贈り直す事となった。これにより怨霊封じとして徳の字を贈る習慣は終わった」ということは明白に事実ではありません。これを出典を消して記述を復帰されたのはどのような理由があってのことですか。--126.108.74.23 2021年3月17日 (水) 12:45 (UTC)返信

だから何度も繰り返すが、ウィキに掲載するに値しない内容だというのなら、それに対する批判も掲載する必要はなく、単に削除すればそれで済む事です。批判を掲載するのであれば、その批判の対象は何であるかの記載は必要です。例えば豊臣秀吉の記事には、全く論ずるにも値しない「本能寺の変の黒幕説」なるものが掲載されています(もちろん、それに対する反論が記載されています)。--GOKGOK会話2021年3月17日 (水) 13:37 (UTC)返信
地球の項目には地球平面説について詳細に触れていないのと同じ」全然違いますね、「地球」の項目に、地球平面説についての事が詳しく述べられていないのに、地球平面説への反論だけが詳しく述べられていたら、非常におかしな事になりますね、それと同じ事です。--GOKGOK会話2021年3月17日 (水) 13:51 (UTC)返信
私は「本来ならば」と言っています。井沢氏の話は「広く知られた俗説」という点で記載することが可能だと言っています。井沢氏の説の詳細は私は知りませんし、かつての記述が井沢氏の説をそのまま反映したものとは信じがたいです。以前の記述が正しいのなら、7年後に「順徳」号が贈られているのに後鳥羽で「徳」の追号の歴史が終わったとか、生きている本人に対して怨霊封じの尊号「称徳」を贈る淳仁天皇と藤原仲麻呂とか、あまりにも基本的事実を踏み外した論を井沢氏が唱えていることになります。出典ページが示されていないので、尊号授与の経緯をよく知らない読者が勝手に書き込んだととらえるほかありません。もしGOKGOKさんが以前の記述を復帰させたいのであれば、出典の書名とページ数を示してください。
ただし、それをしたからといってGOKGOKさんが出典を示された文章を削除する正当性がうまれるわけではありません。
地球」の項目を本当に確認しましたか?地球平面説については「かつては地球平面説が信じられた事もあった。」「中国、インド、バビロニアなどほとんどが平面を想定していた」という記載はありますが、どのような平面であったかなどという記載はありません。地球の項目は良質な記事となっており、「平面説」を詳細に書かなければならないということを意味しません。
それと質問に答えてください。「順徳の追号は後鳥羽追号の7年後」という事実から、「改めて「後鳥羽」の追号を贈り直す事となった。これにより怨霊封じとして徳の字を贈る習慣は終わった」ということは明白に事実ではありません。これを出典を消して記述を復帰されたのはどのような理由があってのことですか。--126.108.74.23 2021年3月17日 (水) 14:06 (UTC)返信
そんなものは「地球平面説への詳細な反論」ではありませんね。簡易な記述です。だから許される。「順徳の追号は〜」云々は、別にノートで述べる事ではありませんが。それこそ、井沢説を掲載した上で、それに対する反論として掲載すれば済む事です。わたしは井沢説を支持する立場ではありませんよ、井沢説への反論を詳しく書くのであれば、そもそもの井沢説について紹介しないとおかしいと述べているのですが、--GOKGOK会話) 2021年3月17日 (水) 14:17 (UTC) 追記 本文への記載は私がやっておきました。--GOKGOK会話2021年3月17日 (水) 14:22 (UTC)返信


GOKGOKさん、そんなものは地球平面説の詳細な反論ではありませんねというあなたの言葉はまったくもって正しい。 私が書いた記述は、地球の項目における「地球平面説の説明」であって「地球平面説への反論」ではないからです。説明は反論ではありません。 つまり、私が企図していた通りの記述をGOKGOKさんが是認されたということです。地球の項目には地球が丸いことの説明が平面説の詳細な説明なしに大量に書かれています。 わたしは井沢説は触れておかなければ意地になって反論する方がいるぐらいのものと見ておりますので、その程度の記述は必要だと思っております。 質問にもとうとう答えていただけませんでした。まずWikipedia:スリー・リバート・ルール違反の報告をしておきます。--126.108.74.23 2021年3月17日 (水) 14:32 (UTC)返信

お久しぶりです。あなたはまず、大変な詭弁をやっていましたね。「地球の項目には、地球平面説についての説明なしに、それに対する批判が述べれられている」と言いますが、確かに「地球」の項目内には詳細な説明は無いかもしれませんが、独立した項目として「地球平面説」が存在するではありませんか。この事実は、まさしく「批判元の説明なしに、ただ批判だけ述べてはいけない」という事の例証です。それとも、諡の項目内には井沢説は載せない代わりに、井沢説について独立した項目を作りますか? --GOKGOK会話2021年4月16日 (金) 15:32 (UTC)返信

この項目は諱の項目であって、主流ではない説はそれにふさわしい記述をするという点からなんの詭弁でもありません。なお、地球の項目で地球平面説が言及された時点[1]での「地球平面説」のページは「[2]」この程度の内容に過ぎず、説の内容についてはどこの誰が唱えていたかの言及すらありませんでした。同年中に地球の項目は良質な記事に選ばれましたが、地球平面説の項目が現在のように充実したものとなったのは、3年後のことです。この間地球の項目のノートでも何の問題ともされませんでした。「批判元の説明なしに、ただ批判だけ述べてはいけない」というGOKGOKさんの意見は無根拠です。なお井沢説が「Wikipedia:独立記事作成の目安」を満たしていれば、「義経=ジンギスカン説」「フロギストン説」や「前成説」「ピルトダウン人」のように「否定された俗説」として立項することを妨げるものはありません。

私が最初から言っているのは、GOKGOKさんが復帰している記述が本当に井沢の説であるという確証がないということです。井沢のファンでないGOKGOKさんは、どうしてあの記述が井沢の説であると確信しているのでしょうか。--126.171.208.67 2021年4月26日 (月) 15:33 (UTC)返信

出典も示してあるなら、それをご自分でも読んで確認すればいいでしょうが。そんな言い出したら、Wikipediaのあらゆる記事が確証が無いことになります。--GOKGOK会話2021年4月26日 (月) 22:28 (UTC)]]返信

出典も示してあるなら」とありますが、私はずっと「示されていない」と言っているのですが。 なお、出典のない記述が記載できないのはWikipediaの大原則であり(Wikipedia:検証可能性)、「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。」「出典を示す責任は掲載を希望する側に」という基本を踏まえていない発言です。 個人での対話は不可能と判断しましたのでコメント依頼を提出します。--126.171.208.67 2021年4月27日 (火) 12:26 (UTC)返信

Wikipedia:コメント依頼/GOKGOKを提出しました。--126.171.208.67 2021年4月27日 (火) 13:34 (UTC)返信

出典無き記述の差し戻しについて 編集

以下の問題点があるため、この版[3]差し戻しました。

  • 出典が明らかでない注釈の追加
    • 「ただし、懿徳天皇は欠史八代の一人であるため詳細は不明である。」
    • 「ただし、仁徳天皇は、その男系の血筋は25代武烈天皇で断絶したため、怨霊説で解釈することも可能ではある。」
    • 「ただし、称徳天皇の「称徳」の諡号は生前に贈られた尊号「宝字孝謙称徳皇帝」に基づいており、明らかに怨霊とは関係が無い。」
    • 「ただし、後鳥羽院へ改めた後に、順徳院が諡されているので、年代の矛盾がある。」
    • 「南朝の96代後醍醐天皇には、当時対立していた北朝から「元徳院」の諡号を贈る案が出されたことがある(実際には本人の遺諡により後醍醐と追号された)。」
  • 出典の明らかでない本文の追加
    • 「ただし、怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、逆に「徳の字を贈られた天皇は、怨霊となる可能性のある悪天皇だ」という認識になり、「顕徳」の諡号を贈られた天皇の霊が立腹し祟りをなした(と考えられた)事件が起きたため、改めて「後鳥羽」の追号を贈り直す事となった。これにより怨霊封じとして徳の字を贈る習慣は終わった」(付けられている注釈を読んでも後鳥羽に関する記述が無い。元あった森鴎外出典が削除されたため出典が無い状態)
  • 出典文献が付されている記述の削除(森鴎外文献)

まず第一に、注釈であっても独自研究にならぬようにしなければなりません。上記の注釈には全く出典がありません。これは、単なる用語の解説などではありません。WP:NOR、および、WP:Vに抵触します。記述が必要ならば然るべき出典を付けて下さい。「なお井沢説によると、徳の諡字が怨霊封じとして贈られた最初の例は(天皇ではないが)聖徳太子とされる。」という文章がありますが、結局の所、出典とし紐付いているのはこの部分だけなのでしょうか。出典文献に関してはWP:INCITEに「参照すべき場所、範囲を明確に示す。通常はページ番号を付記する」と明記されていますのでページ番号は必ず付けて下さい。結局「徳字諡号」節の1文目(ただし参照ページ数無し)と「井沢説によると」(参照詳細無いがおそらく井沢文献)の部分以外のははほぼ出典が無い状態です。

次に、出典が付されている記述が理由無く削除されていますが、記述を削除するのであればそれ相応の理由が必要です。それを開示しないのは適切ではありません。

編集者におかれましては、本指摘に対して適切な対応を求める次第です。--みそがい会話2021年12月3日 (金) 16:04 (UTC)返信

出典無き記述の差し戻しについて 2度目 編集

この編集[4]により差し戻しが行われましたが、以下の理由により戻します。

出典とされる井沢元彦『逆説の日本史 2』については、付されているISBNより単行本版であり、そのp.148 の記述と上記編集との比較を行っています。なお、当該ページは「スな手段である。」から始まり「では、どう考えればいいのか。」で終わります。以下、「徳字諡号」節の1文ずつ問題点を指摘します。

  1. 「「徳」という字は殺害されたり・・・主張している。」
    出典refが付いていますが、出典とされるページが不明です。
  2. 「元々は、4代懿徳天皇、16代仁徳天皇のように、・・・天皇に贈られた。」
    (以下はp.148が出典ページであるとしています)記載がありません。
  3. 「飛鳥時代末期から鎌倉時代初期にかけて、・・・該当する。」
    記載がありません。
  4. 「また、崇徳、顕徳、順徳、安徳の4人の天皇をまとめて「四徳」と呼ぶことがある。」
    記載がありません。
  5. 「なお井沢説によると、・・・聖徳太子とされる。」
    記載がありません。(別のページに記載があるのであれば、ページの指定が必要です)
  6. 「太子は即位することなく薨御し、息子の山背大兄王ら一族は蘇我入鹿に攻められて滅亡した。 」
    山背大兄王記事内に説明がありますので、問題は無いと考えます。
  7. 「ただし、怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、・・・事件が起きたため、改めて「後鳥羽」の追号を贈り直す事となった。これにより怨霊封じとして徳の字を贈る習慣は終わった。」
    「顕徳」を「後鳥羽」に改めた、という部分のみ記載あり。他は記載無し。
  8. 「南朝の96代後醍醐天皇には、・・・後醍醐と追号された)。」(注釈部分)
    記載がありません。また、後醍醐天皇記事内の記述とは異なる内容です)

以上のように、差し戻し編集における記述は、出典とされる文献の指定ページにはほとんど記載がありません。私はその前にこの編集[5]において「『逆接の日本史 2』p.148 には記載の無い内容のため。出典を付す際にはページとの対応をご確認下さい。」と要約欄に書きましたが、上記のように妥当な理由であると考えています。それを「『逆接の日本史 2』p.148 には記載の無い内容などと嘘をついてはいけません」という「Wikipedia:礼儀を忘れない」に反する言動をもって差し戻すことには憤りを感じます。また「森鴎外出典に基づく記述を削除する理由が開示されていません。」という指摘に対して、未だにお考えを示されていません。そもそも、この版[6]以降の編集合戦の様相は、出典が付されている記述を適切な出典を伴わない記述で置き換えていることに端を発していると思われます。GOKGOKさんには、

  • 森鴎外出典記述の削除理由
  • 出典を適切に付した記述

について適切なご対応をお願いします。なお、森鴎外出典、井沢元彦出典は「Wikipedia:信頼できる情報源」としてどうかという点を考慮していません。--みそがい会話2021年12月6日 (月) 11:00 (UTC)返信


この編集[7]にて、再び森鴎外出典を付した記述を削除した編集がなされ、井沢元彦説による記述のみが出現しています。そこで、以下のようにしました。
前に指摘した、1.の出典ページ未記載、2.の出典不貼付のままなので、それぞれ「要ページ番号」「要出典」テンプレートを貼りました。
また、3.「飛鳥時代末期から鎌倉時代初期にかけて、・・・該当する。」 については、ページ番号が誤記(p.1111は存在しない)ので「要ページ番号」を貼付しました。
以下は、改めて出典に照らして疑問のある記述であることから、「要検証範囲」を貼りました。
「怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、逆に「徳の字を贈られた天皇は、怨霊となる可能性のある悪天皇だ」という認識になり」
  • 「贈”徳の字”方式鎮魂法」の効力が薄れた、との記述はありますが、上記のような解釈が出来る記述はありません。
「「顕徳」の諡号を贈られた天皇の霊が立腹し祟りをなした(と考えられた)事件が起きた」
  • そのような具体的な「事件」の記述は出典文献にありません。
なお、GOKGOKさんにより理由無く削除された、森鴎外出典を基本とする記述は復帰します。その上で、井沢元彦説による記述はまとめてその下に記述を移しました。--みそがい会話2021年12月10日 (金) 15:31 (UTC)返信
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