ノート:野田城・福島城の戦い/過去ログ1

最新のコメント:15 年前 | トピック:根来衆・雑賀衆 | 投稿者:ブレイズマン

根来衆・雑賀衆

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根来衆・雑賀衆が三好方とされていますが、『和歌山県の歴史』(山川出版社)では、彼らをはじめとした紀州勢はこの時は畠山秋高(昭高)を通じて義昭・信長方についたとしています。それ以前の久米田・教興寺での構図を考えても、紀州勢は親畠山→反三好→よって将軍・信長に加勢と考えた方が自然と思いますが。--Arawodas 2008年10月23日 (木) 10:33 (UTC)

この事は『信長公記』に記載されています。内容は「根来衆雑賀衆が3千挺の鉄砲を携行し、このため両軍の間で天地も・・・」と記載されておりましたので、てっきり根来衆・雑賀衆は信長方との間で銃撃戦を繰り広げたと解釈し、そのように記載しておりました。しかし『和歌山県の歴史』に記載されているのならば、私の解釈間違いの可能性があります。両軍というの三好三人衆vs根来衆雑賀衆の事を指していたのかもしれません。もし他に意見が無いようでしたら2週間後を目処にテンプレートの表記、本文を大幅に変更したいと思います。--ブレイズマン 2008年10月23日 (木) 19:52 (UTC)
雑賀衆のページを読み直しておりましたら「(1570年に)雑賀衆は本願寺に入り、織田軍と戦った」という記載が見受けられました。ここの参考文献としてあがっています『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』を一度チェックしてみようかと思います。ただ資料の入手にはすこし時間がかかるため、場合によっては2週間以上経過する可能性もあります。判明次第このノートに記載します。Arawodas 氏の指摘がありますように久米田の戦い教興寺の戦いは把握しており、「考えた方が自然と思います」との論には説得力があり私の単純な解釈間違いと思っていましたが、雑賀衆のページを拝見するとそうでもないかとも思われます。文献を探したいと思いますが、何かこの件で詳しい方はこちらに情報提供お願いいたします。--ブレイズマン 2008年10月25日 (土) 15:53 (UTC)

『信長公記』は私はニュートンプレスの現代語訳版を参照しましたが、確かに根来・雑賀衆らがどちらに加勢したかがこれだけでははっきりしない書き方になっていますね。で、『和歌山県の歴史』について補足説明ですが、実は今見返した所、こちらも彼らがどちらに加勢したのかわかりにくい書き方をしています。ですが『きのくに 荘園の世界 上巻』(清文堂出版)の雑賀荘の項(執筆者は『和歌山県の歴史』の該当部分と同じ弓倉弘年氏)で、ほぼ同様の内容でこちらははっきりと紀州勢が信長方として出陣したこと、本願寺が反織田の挙兵をするにあたって雑賀に加勢を求めたが彼らはすでに織田方として出陣した後だったことを記述しています。ということで、信長方と解釈した方が事実に近いのでは、と私は思います。ただ、もし三好方と書いてある資料があるのでしたら両論併記の方が無難かと思います。--Arawodas 2008年10月24日 (金) 09:39 (UTC)

『戦国鉄砲・傭兵隊』ですが、別件の資料として今手元に確保しています。同書によると、やはり雑賀衆総体としては織田方で出陣しています。一方、雑賀衆の中で鈴木孫一・佐武伊賀守は三好勢に参加しており、著者の鈴木眞哉氏はこれを独自の傭兵活動であると見ています。これを時系列順に並べると、
1.鈴木・佐武、傭兵として三好勢に雇われる。
2.足利義昭、畠山氏を通じて雑賀衆に織田方に加勢するよう要請する。
3.雑賀衆、根来など他の紀州勢と共に織田方で参戦する。
4.本願寺、反織田挙兵にあたって雑賀衆に加勢を求めるが空振り。
ということになります。『信長公記』の「日夜天地も響くばかり」の撃ち合いは、鈴木氏は紀州勢同士の銃撃戦だったと推測しています。同書では雑賀衆がいつから本願寺に加勢したかは明示していませんが、鈴木孫一個人については三好勢として戦った後、そのまま石山に入城したのではないかと推測しています。簡単に説明するとこんな感じですが、やはりブレイズマンさんに直接目を通して頂くのが確実でしょう。--Arawodas 2008年10月26日 (日) 04:36 (UTC)
当初時間がかかると思っていましたが『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』本日入手することが出来ました。まだ内容を読んでおりませんが、Arawodas氏が解りやすい解説していただき有難うございます。また根来衆・雑賀衆に関して知識が豊富で助かっております。実は根来衆・雑賀衆の来援の下りは、調べた範囲の文献では曖昧に書かれている場合があり、執筆していましてもなにか粛然としないままでした。「紀州勢同士の銃撃戦だったと推測しています」というのは想像もしていませんでした。ただそのように憶測すれば、すっきりする部分は多々出てきます。いずれにしましても、『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』を読んでから修正したいと思いますので、2週間以上経過するかもしれません。ご容赦下さいませ。またArawodas氏の解説の方向で修正を検討したいと思いますが、他の方からも別説、補説などございましたら情報の記載お願いします。--ブレイズマン 2008年10月26日 (日) 07:25 (UTC)
『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』を読みました。結論から申し上げますと私の解釈間違いのようでした。根来衆・雑賀衆は三好方ではなく、当初は織田方に属していたと読み取れました。また別資料の『図説・戦国合戦地図集』にも同様の記載が見受けられました。経過措置を取りましたが、他者より指摘もございませんでしたので、議論を一旦終了し根来衆・雑賀衆を織田方に変更し、それに伴う記載に変更し「提案テンプレート」も除去いたしました。--ブレイズマン 2008年11月7日 (金) 15:29 (UTC)
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