ノート:鎖国

最新のコメント:9 年前 | 投稿者:118.0.180.186

この文章は、欧州向けの独占貿易を認める代わりに、オランダに安全保障を頼んだ事実が無視されていますね。

>しかし、強力な海洋技術を身につけた西欧諸国に対して対等に渡り合える力は当時のアジアにはなく

と言うことを誰が言っているのですか?ま、何を基準にして比べるかで全然違うでしょうし、海洋技術では確かにヨーロッパの方が上でしたでしょうけど。らりた 2006年7月29日 (土) 14:24 (UTC)返信

字義 編集

「鎖国」の「鎖」は後ろに賓語「国」を伴っているのですから、名詞ではなく動詞及物動詞)であることはあきらかです。したがって「じょうまえ」(名詞としての意味)「閉じる」(不及物動詞としての意味)ははぶいてよいとおもいます。議論がなければ1週間後にでも削除いたします。--字正 2010年5月27日 (木) 11:46 (UTC)返信

(発言をすこし修正しました。)--字正 2010年5月27日 (木) 14:20 (UTC)返信

伝染病防止 編集

「日本医学史綱要 1、東洋文庫258の119Pに「施薬院」の成立経過が記載してある」とありますが、具体的に記載してもらった方が分かりやすいと思います。

「長崎奉行大岡清相著「崎陽郡談」によると出島の坪数3924坪船着き場45坪とありこの数字に未来へのメッセージがある。三千世界二十四節気九星人の世の吉凶を占う。となる。その扇の形は商売繁盛(貿易の振興)を願う末広。後は伝染病、麻薬の進入を防ぐ尻すぼまり。易の陰陽学から取り「貿易」と「防疫」を表す。 インフルエンザ等の伝染病。麻薬の持ち込みに対する警告がわかる。」

検索してみますと、ネット上に類似の記載がありますが、信頼すべきページとは言えません。また、該当するページは全て「崎陽郡談」の著者を大岡清相ではなく高橋清相としてあり、同一のソースが元になっているのではないかと思われます。もし、「崎陽郡談」を図書館などで確認できる方がいらっしゃれば、そのような記載があるか調べていただけるとありがたいです(当方米国在住のため、確認が難しいです)。

--Hkusano 2010年12月14日 (火) 04:03 (UTC)返信

すみません、大岡清相です高橋は間違い。ところで施薬院ですが記載します。

 施薬院

 天平二年、始めて皇后職に施薬院を置き、窮民の疾に苦しみものを救い、(ついで)施薬院使の官ありて丹波、和気の両氏こもごもその職に居りしが、室町時代に及びては、施薬院使の官あるのみにして施薬院の実は久しく廃したり。豊臣秀吉天下を統一するに及び、施薬院の旧制を復興し、天正年間、施薬院を禁闕の南門に建て、丹波全宗を挙げて、施薬院使に任じ、四方民衆の疾病に苦しむものを招集し、薬を給すること頻回、全治を得るもの多かりき。全宗の子宗伯、父の官を襲いで施薬院使となり、子孫ついに施薬院を以てその姓とするに至れり。
 施薬院全宗。徳運軒と号し、また薬樹院法印と称す。その先は丹波氏。雅忠十七世の孫なり。祖宗清、父宗忠、僧となり権大僧都たり。宗忠死せしとき全宗なお幼なり。すでに長じて叡山に入り、薬樹院に住持たり。のちに環俗して曲直瀬道三の門に入り、医を以て名あり。豊臣秀吉のため信頼せられ、法印に叙せられ、施薬院使に任ぜらる。慶長四年歿す。全宗一男一女あり、ともに父に先だちて歿す。(ここが重要、医師として最高の位にありながら自らの子を救えなかったことは甚くプライドを傷つけられた、外来の伝染病と診た)よりて近江の人、三雲宗伯を養うて嗣となす。子孫世々施薬院使たり。子孫ついに施薬院を姓とするに至る。官を以て氏に称せるなり。しかして宗伯、三雲氏の子なるを以てまた三雲と称す。
 施薬院宗伯
 近江の人。
本姓三雲氏。資隆の子。全宗の家を継ぎ、慶長四年法印に叙し、施薬院使に任ぜらる。のちに徳川氏に辟せられて侍医となる。寛文三年歿す。年八十八。長子長雅、家を継ぎ、法印に叙せられ、医を以て一家を成せり。

以上は118.0.180.186 2014年5月21日 (水) 02:02 (UTC)の投稿返信

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