ノート:雨宮敬次郎

最新のコメント:13 年前 | 投稿者:さかおり

「中央本線が甲州市で塩山駅方面に向けて北側に湾曲しているのは、1903年(明治36年)の開通時に敬次郎の政治力により、出身地へ線路を通したとの説がある」どう考えたって、勝沼から鉄道に許容される勾配で甲府盆地に降りてゆけば(盆地に下る列車から眺める夜景はすばらしい)、ああなるに決まっているんだが、全く素人の妄想は突飛な事を考えるものだ。(記述者にではなくソースの山梨の銀行に対して)114.182.76.189 2010年8月12日 (木) 14:17 (UTC)返信

コメント 114.182.76.189さんが「素人の妄想」と表現されている事に違和感がありますので、あえて指摘させて頂きますが、仰るように笹子峠方面から甲府盆地へ鉄道を敷設するには勾配という問題があり、塩山方面へ敷設した事は政治力云々とは関係のない技術的な問題と決め付けておられるようですが、この区間で勾配を稼ぐには盆地の東南部(日川の左岸から釈迦堂遺跡方面)の山裾を経由する方法も考えられます。経路的には現在の中央自動車道のルートを想像していただくのが分かりやすいと思います。もちろんこの考え方にしても、距離と標高差を考えて、このルートも有り得る、というだけの話で確証はありませんが、少なくともソースの銀行記載内容を一方的に「素人の妄想、突飛な事」とは断言できないと思います。--さかおり 2010年12月14日 (火) 10:41 (UTC)返信
現実には、技術的問題と根津嘉一郎をはじめとする甲州財閥の影響力や山梨県各地の鉄道誘致運動による政治的影響の折衷として現在の中央本線ルートに落ち着いていったものと考えられます。そのあたりの経緯を各駅記事あたりで詳述していければいいのですけどね。IP氏さんも山梨の鉄道誘致運動についてはローカルな情報ですからご存知ないと思いますし、そのあたりの事情を具体的に記述していけば、閲覧した人が見識を深めることのできる有意義な記事になっていくと思います。石和温泉駅では、少し試行してみたのですが。--でここ 2010年12月16日 (木) 16:39 (UTC)返信
以前石和温泉駅記事のちょっとした議論で、少しだけ似た様な話がありましたね。その後何も進展がなく申し訳ありませんが、信頼のおける出典等があればいいのですが、上手い様にいきません。今回コメントさせていただいたのは、IPさんのご指摘が一方的なものであったので、別の考え方もあるのではないか?という趣旨でありますが、でここさんの仰るように技術的問題と政治的影響の折衷案というのが一番可能性が高いように私も思います。ただ、いかんせん記事として記載するだけの検証可能性が現状では乏しいと思います。--さかおり 2010年12月17日 (金) 02:44 (UTC)返信

石和温泉駅の場合には『石和町誌』を参照しています。塩山の場合にも、同様にまず塩山市史を確認してみてはどうでしょうか。あと、最近刊行された『山梨の不思議事典』にもこの問題が触れられていたはずで、手短な出典情報として使えるはずです。山梨中銀Hpの記述は、誰が書いたのかわからないわけですしね。

あと、中央本線ルートを雨宮啓次郎の政治力とする説は紹介されているだけで、それが妥当だとは記しているわけではありません。敬二郎の政治力であるとする説は確かにあるのでしょうから甲州財閥の頭角としての敬二郎の存在感を示す情報として重要で、実際にそれが妥当であるのかどうかは、検証されたものがあれば紹介すべきですが、なければ利用者が判断するための補足情報として鉄道誘致運動に関することを調べて著述していけばいい、とそう考えます。--でここ 2010年12月17日 (金) 03:15 (UTC)返信

了解です。書くべきことはまだまだありますねえ。順次記事内容を充実させていきましょう。宜しくお願いします。--さかおり 2010年12月17日 (金) 03:45 (UTC)返信
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