ノート:馬岱
字について
編集現時点において、馬岱の字は史料として記録に残っていないはずです。「仲華」はわずか一小説の設定に過ぎず、必然性が希薄のように思われます。書くとしても、史実として確認できる「事実」と創作された「設定」は明確に切り分けて、その旨をご記入ください。--Geso 2007年5月29日 (火) 10:22 (UTC)
『扶風県郷土志』を根拠とする字「伯瞻」および諡「武侯」の信憑性について
編集馬岱の字や諡について編集が繰り返されてきたようなので、この問題について卑見を述べさせて頂きます。
扶風県の地方志は嘉慶23年(1818)刊『扶風県志』と光緒32年(1897)刊『扶風県郷土志』とがありますが、両書の中で馬岱に言及した箇所は次の通りです。
『扶風県志』巻11・人物 馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒蒲阪、曹曰:馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、拜左將軍。卒諡威侯。
『扶風県郷土志』巻4・耆旧篇 馬超字孟起、騰之子、兼資文武、勇烈過人。初在涼州、與曹操拒於蒲阪、操曰:馬兒不死、吾無葬地矣。後與從弟岱歸昭烈、章武元年拜驃騎將軍領涼州牧封斄鄉侯。謚威侯。馬岱字伯瞻、騰之從子。蜀漢拜平北將軍、封陳倉侯、諡曰武侯。
『扶風県志』人物も『扶風県郷土志』耆旧篇も扶風ゆかりの人物の略伝を集めたものですが、両書ともほぼ同じ字句を用いています。馬岱の字や諡は『扶風県郷土志』が初出となります。『三国志』編纂当時から清代の後期に至るまで不明だった字や諡が清末になって突然「判明」するのは相当に不自然というべきでしょう。
また曹魏末期のことではありますが、司馬師がはじめ「武公」と諡されたものの、曹操と同じ諡になることを司馬昭がはばかって「武」の諡号に一字を加えることを申し出、曹髦がこれを認めて「忠武公」としたということがあります。その際、司馬昭は前漢の蕭何・張良が大功を挙げながら文終侯・文成侯と諡された故事を引いています(『晋書』景帝紀)。文・武の諡号に一字を足すことには格を落とす意味があるということです。
諸葛亮も「忠武侯」と贈諡されていますが、馬岱がこれより格上の「武侯」を諡されることは果たしてありうるのでしょうか。そして、この諡と同時に「判明」した字にどれほど信憑性があるのでしょうか。個人的には、この「武侯」の一事で字も諡も全てがウソっぽくなったというか、ウソであることが確定したと考えています。『扶風県郷土志』を根拠とする馬岱の字や諡は、本文中ではそれが信憑性に欠けることすら言及する必要のないほど価値の低い情報だとも考えています。
今後も馬岱の字や諡について編集が繰り返されることがあり得るかと思いますが、以上に述べさせて頂いたことが他の編集者の方々の一助となれば幸いです。--Fish40 2011年12月10日 (土) 14:56 (UTC)
- 劉禅は陳祗に「忠侯」と贈諡しています(蜀書董允伝)。蜀漢では諸葛亮や関羽ら業績のある高位の人物に二字の諡を贈っており、前漢や曹魏における諡法とは異なる決め事があったようにも思われるため、必ずしも「武侯」が「忠武侯」より格上であるとはいい難いようです。もっとも、この一事のみを理由として馬岱の諡が「武侯」である可能性が高まるわけではないと考えます。--Fish40 2011年12月21日 (水) 17:24 (UTC)
- 司馬昭のくだりには「必以文武爲諡」とあります。個人の業績を文武両面で称賛するために、二字にしたということです。格はむしろ上がっていると考えて良いでしょう。諸葛亮が格下げされるはずもありませんし。馬岱が武侯であっても何の不審もないと思われます。--58.158.2.152 2012年3月28日 (水) 16:20 (UTC)