ノート:鹽竈神社

最新のコメント:14 年前 | トピック:分割提案:「塩竈神社 (曖昧さ回避)」 | 投稿者:胡亂堂

歴史について 編集

歴史のところで 〔 仁和4年(888年)以後は大神宝史発遺の対象社として国内随一と認められた。 〕 とありますが、どなたか出典をご存知ないでしょうか。
もし、ご存知の方がいらっしゃったら、脚注の付記をお願い致します。また、大神宝史が赤リンクになっていますが、これについてご存知の方がいたらスタブ作成といかないまでも脚注をつけて頂けないでしょうか。 よろしくお願い致します。--ひら室長 2008年11月13日 (木) 14:38 (UTC)返信

  • 私も神道には詳しくないんですが、ネットで検索した限り、「大神宝史」ではなく、「大神宝使」じゃないですかね。[1]。国内随一かどうかははっきりしません。当時の「国」の版図が不明なので、「陸前国」として考えていいかどうか…。--Adan 2008年11月14日 (金) 08:36 (UTC)返信
  • ありがとうございます、ご指摘頂いた通り「大神宝使」のようですね。日本紀略の仁和4年(888年)11月の条に「八日 発遣大神宝使」とありましたので、本文のこの部分は訂正しておきます。ただ、日本紀略では鹽竈神社を対象とした旨の記述を見つけることが出来ませんでした。『左経記』の寛仁元年10月2日の条に一代一度の奉幣あずかる神社として陸奥鹽竈が出ていることから、後一條天皇即位の際の大神宝使派遣のことを言っているのでしょうか。それと国内随一は私も分かりませんでした。左経記の記述からすると「陸奥国」なんでしょうか。どなたかお教え頂けると幸いです。--ひら室長 2008年11月16日 (日) 01:26 (UTC)返信
  • 自己完結して申し訳ありませんが、〔 仁和4年(888年)以後は大神宝使発遺の対象社として国内随一と認められた。 〕の出典は『塩釜神社史』にある「一代一度の奉幣」からではないかと思います。やはり『左経記』の寛仁元年10月2日の条における後一條天皇の大神宝使派遣のことが書いてあり、吾妻鏡の文治6年の条で鎌倉幕府が鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命じていることと合わせ、当社が奥州第一の大社と言えるのではないかと評しています。たぶん、これで間違いないかと思います。--ひら室長 2008年11月24日 (月) 13:35 (UTC)返信

分割提案:「塩竈神社 (曖昧さ回避)」 編集

  済み2010-02-15に記事「塩竈神社 (曖昧さ回避)」が当記事からの分割立項されました差分/30549398)。--Yumoriy会話

「全国の塩釜神社」の部分を分割して塩竈神社 (曖昧さ回避)を作成しませんか?その場合、他の表記で現在転送扱いになっている塩釜神社塩竈神社鹽竃神社塩竃神社をどうするかが当然俎上に上ってくるわけですが、現段階では特にいぢらず(めんどーくさいので)、冒頭部で塩竈神社 (曖昧さ回避)へと誘導し、曖昧さ回避頁の定義部分で

日本各地の「塩竈神社」。「塩」は「鹽」に、「竈」は「竃」・「釜」に作る者もある。
{{DEFAULTSORT:しおかましんしや}}
[[Category:神社 (祭神・信仰別)]]
[[Category:塩竈神社|*]]

とでもしておけばいいかなと思うのですが、いかがでしょう?--胡亂堂 2010年1月24日 (日) 22:21 (UTC)(修正)本項と無関係の「塩竈神社」があるかもしれない可能性を考慮して曖昧さ回避の範疇化は避けます。--胡亂堂 2010年2月5日 (金) 09:38 (UTC)返信

(賛成)分量的にも分割して曖昧さ回避を作成して良いと思います。リダイレクトは現状維持ということで。--まさふゆ 2010年2月4日 (木) 22:33 (UTC)返信
(報告)分割いたしました(正しくは一部転記でした)。ご意見ありがとうございました。--胡亂堂 2010年2月15日 (月) 12:07 (UTC)返信
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